「息慮凝心」
(そくりょぎょうしん)
― 慮る (おもんばかる) をやすみて、心を凝らす ―
目の前が、たくさんのことで 「いっぱい・いっぱい」 になったときこそ、
周りのことが見えていないことが多い。
そんな余裕のない時は、自分にとって、より良き判断ができないものである。
そういうときこそ、あえて突発的に先に進んだりしないで、
また、(たとえば)“考えあぐねること” を(しばし)やすんで、
「わが身の心を凝らしてみよ」 という言葉である。
自分自身の心の奥底に、意識を集中してみる。
時々、執拗に、途方もない “何か” に(無意識の内に)囚われる。
そういうときに・・・この言葉は、役に立ってくれている。
根拠のない思い込みや、勘違いなどの場合もそうだろう。
人間は、誰しも、(私自身と言うべきか・・・)
弱いものだし、淋しいものだし、流されるものだと思うから―。
いつも、どんな時でも、そういう可能性と背中あわせにあると思うから―。
「自分でしっかりと律して、自覚しなければならない」 と、私は思っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/fc/ebdd69bcd463c0a0580d8a8afb8fdfc9.jpg)
私は、20年・・・・
ちょうど20年間・・・・
この言葉を胸に刻んで、これまで生きてきた。
ちょうど20年前のある日、
私に強い影響をあたえた “その人” は、答えなど諭すことなく、
ただ、この言葉を、しずかに つぶやいた。
幾度となく聴くうちに、“その人” も、この 簡単で深い言葉 を
とても大切にしていることが、痛いほどわかってきた。
父親と同じくらい、いや、それ以上の年齢を重ねてきた “その人” には、
確実に、“その人”なりの価値観と世界観が 備わっていた。
実父と同時期に、「生」 を “マットウ” して、この世を去った人だが、
今も忘れがたき、私の父親のような人であり、師のような人であった。
また、あるときは、子どものような横顔を持つ人でもあった・・・。
もし、今、ご存命だったとしたら、すぐに連絡をして会いにいくのに 。。。