西行法師
嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
本名は佐藤義清。平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫にあたる。
元々家は裕福で、後に徳大寺家に使えたり、鳥羽院の北面の武士として仕えていたことがわかっている。
北面の武士とはもともと白河上皇が作った、延暦寺の強訴に対し上皇の警護を主な任務とする武士団で(厳密には側近の貴族もいるが)、平清盛の祖父・正盛とその嫡子の忠盛も勤めていた。平氏はこのときに上皇のおぼえめでたく、後の躍進のきっかけを作った。
西行は23歳で出家したが原因ははっきりわかってはいない。また出家したときは円位と名乗った。
その後は諸国を旅し、多くの歌を詠んでいるが、その生き様は歌道界の枠を超えて後世の人々に強烈な印象を残したらしく、幕末の高杉晋作は、藩の命令で蟄居を命じれられた際、出家して東行と号した(もっとも出家は形だけだが)。
1186年、平氏によって焼き討ちされた東大寺再建のための勧進(寄付)を奥州藤原氏に求めるために行く途上で源頼朝と会っており、その際頼朝から弓馬の道をたずねられたが一切忘れたととぼけたという。ちなみに歌舞伎で有名な勧進帳も同じく東大寺の勧進がテーマになっている。
嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
本名は佐藤義清。平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫にあたる。
元々家は裕福で、後に徳大寺家に使えたり、鳥羽院の北面の武士として仕えていたことがわかっている。
北面の武士とはもともと白河上皇が作った、延暦寺の強訴に対し上皇の警護を主な任務とする武士団で(厳密には側近の貴族もいるが)、平清盛の祖父・正盛とその嫡子の忠盛も勤めていた。平氏はこのときに上皇のおぼえめでたく、後の躍進のきっかけを作った。
西行は23歳で出家したが原因ははっきりわかってはいない。また出家したときは円位と名乗った。
その後は諸国を旅し、多くの歌を詠んでいるが、その生き様は歌道界の枠を超えて後世の人々に強烈な印象を残したらしく、幕末の高杉晋作は、藩の命令で蟄居を命じれられた際、出家して東行と号した(もっとも出家は形だけだが)。
1186年、平氏によって焼き討ちされた東大寺再建のための勧進(寄付)を奥州藤原氏に求めるために行く途上で源頼朝と会っており、その際頼朝から弓馬の道をたずねられたが一切忘れたととぼけたという。ちなみに歌舞伎で有名な勧進帳も同じく東大寺の勧進がテーマになっている。