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【小倉百人一首】84:藤原清輔朝臣

2014年09月02日 04時29分24秒 | 小倉百人一首
藤原清輔朝臣

長らへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

父は藤原顕輔。ちなみに藤原北家には違いないが魚名流という傍流である。父・顕輔が崇徳上皇の命により『詞花和歌集』を選進した際、それを手伝ったのだが父と意見が対立して仲が悪くなり、昇進がおおいに遅れることとなった。
ただし後には多くの歌学書を執筆し、歌学の大家として認められるようになり、六条藤家(村上源氏にも六条家があるためこのように呼ぶ)を継ぐ。この家からはすぐれた歌道の達人が多く出たが後に断絶した。
二条天皇の命で『続詞花集』を選進したが、二条の崩御によって勅撰集には入らなかった。

【小倉百人一首】83:皇太后宮大夫俊成

2014年09月02日 03時56分10秒 | 小倉百人一首
皇太后宮大夫俊成

世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

本名は藤原俊成。定家の父。
祖先は藤原道長の六男・長家。


                    ┏為氏(二条家)
  ┏頼宗━俊家━基俊         ┣為教(京極家)
道長┻長家━忠家━俊忠┳俊成━定家━為家┻為相(冷泉家)
           ┗豪子
            ||━実定
         徳大寺公能


この家系は御子左流と呼ばれ、歌道を家業としている。後にその子孫は二条家(嫡流)・京極家・冷泉家と別れ、そのうちの冷泉家の邸は日本で唯一の現存する公家屋敷であり、ここから貴重な文献が数多く見つかっている。

俊成は藤原基俊から古今伝授を授かっているのだが、この古今伝授とは『古今和歌集』の解釈の相伝のことであり、二条家で一子相伝として受け継がれた。その後、二条家から何人かの弟子たちに伝わり室町末期には三条西家が相伝していた。当時の三条西家の当主・実枝(織田信長によって大納言に任官されている)は子供が幼かったために細川幽斎(藤孝)に、将来自分の子に伝えることを条件に伝授したのだが1600年、徳川家康が上杉景勝を征伐しに東北に向かうと、石田三成が挙兵。西軍の一員であり豊臣恩顧の大名でもある小野木重勝率いる軍勢が幽斎の居城である田辺城を攻撃した。もし幽斎が討ち死にすれば古今伝授が途切れてしまうため、朝廷の斡旋により田辺城は開城され、幽斎は命拾いする。そして後に三条西家の跡取りである実条に伝授している。
ちなみに小野木重勝は関が原には参戦していないが後に自刃させられた。

俊成の有名なエピソードに、歌道の弟子である平忠度(清盛の弟)とのやりとりがある。
忠度は武将としても優れていたが歌人としても平家で随一であった。が、源義仲によって平家が都落ちする際、一度都をでた忠度はわざわざ引き返して俊成の屋敷に行き、自分の詠んだ歌を書いた巻物を俊成に託して、将来勅撰和歌集を作る際、この中にふさわしい歌があればいれてくれるよう頼んだ。
忠度自身は翌年の一の谷の戦いで戦死するが(その死は敵味方に惜しまれた)後に俊成は『千載和歌集』を選進する際に、忠度の歌を一首選んだ。ただし平家は朝敵だったため、作者名は本名ではなく読み人知らずとした。それが

 さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

という歌である。ちなみに1232年に定家が後堀河の命で選進した勅撰和歌集である『新勅撰和歌集』では本名の薩摩守忠度で収録されている。

【小倉百人一首】82:道因法師

2014年09月02日 03時48分43秒 | 小倉百人一首
道因法師

思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり

俗名は藤原敦頼。藤原北家ではあるが、藤原定方の子孫にあたる。
出家後も歌道への執着が非常に強かったエピソードで知られている。

【小倉百人一首】81:後徳大寺左大臣

2014年09月02日 01時38分15秒 | 小倉百人一首
後徳大寺左大臣

ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れ

本名は徳大寺実定。風月を詠うことにかけては天才といわれる歌人。
血統については七代前の祖先であり道長の弟である公季(太政大臣)から始まる閑院流という流れになる。ちなみに道長の嫡系は御堂流と呼ばれる。
公季の孫である公成は将来を嘱望されたが権中納言で終わる。が、後三条に入内した茂子が白河の母となり、孫の苡子が堀河の女御として鳥羽を生み、さらに公成の曾孫にあたる待賢門院璋子は白河の寵愛を受けた。藤原忠通のところで書いたとおり、この璋子は後に鳥羽の中宮となり、崇徳・後白河の二帝の母となった。
さらに実定の姉妹には後白河の中宮となった忻子と、近衛の皇后となった多子がいる。なのでこの血統は平安後期から末期にかけて大いに栄えたわけである。ちなみに多子は近衛が崩御した後、二条(後白河の皇子)の后となってしまった。二人の天皇の后になったのは歴史上多子だけである。


               ┏実行(三条) ┏実定
               ┣通季(西園寺)┣━━多子
            ┏公実╋実能━公能━┻忻子||
┏公季┳実成━公成┳実季┫  ┗━璋子┏崇徳 || ||
┃  ┗義子   ┗茂子┗━━苡子||━┻━━後白河||
┃   ||     ||    ||━鳥羽━━━━━━近衛
┃   ||     ||━白河━堀河
┃  一条┏後一条 ||
┃   ||┻後朱雀 ||
┗道長┳彰子 ||┳後三条
   ┗━━嬉子┗後冷泉

徳大寺家というのは実定の祖父・実能が徳大寺を建立したことからついた家名。この実能が左大臣であったことから徳大寺左大臣と呼ばれ、実定は”後”徳大寺左大臣と呼ばれたわけである。ちなみに父・公能は右大臣で終わっている。

実定が生きた時代はまさに貴族の時代から武士の時代への過渡期にあたり、実定自身も保元・平治の血で血を洗う抗争を生き抜き、平清盛が政権を握った時代には雌伏を強いられる。が、源義仲が平家を都から追い払った1183年には内大臣にのぼる。
源義経の活躍により平家が滅亡した後、義経と兄・頼朝の仲は険悪となる。この原因は、義経が壇ノ浦の合戦で三種の神器のひとつ・草薙の剣を回収できなかったことや、その後義経が頼朝に無断で後白河から官位を授かったことなど様々な説があるが、いずれにしろ窮地に陥った義経は、後白河を強要して頼朝追討の院宣を強引に引き出す。が、義経のものには兵が集まらず、再起を賭けた船出も難破におわり手飼いの兵を失ったことから形成は逆転。今度は頼朝の舅である北条時政が上洛してきて後白河から義経追討の院宣をださせた。ちなみにこれが鎌倉幕府が全国に守護地頭を置く契機となる。
さらに源頼朝は後白河の影響力を極力朝廷から排除するために儀奏公卿10名による朝廷の運営を推進させる。この公卿の筆頭は藤原忠通の六男である九条兼実で、実定もこの10名に入っている。その後1189年には左大臣になるがほどなく死去する。

九条兼実は摂関家の嫡流でもあり、朝廷と幕府の橋渡し役として辣腕を奮う。後白河が生前に認めなかった頼朝の征夷大将軍任命を決定したのもこの兼実。後に曾孫の九条頼経は、鎌倉幕府の四代目将軍となる。