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【小倉百人一首】97:権中納言定家

2020年02月23日 02時08分32秒 | 小倉百人一首
権中納言定家

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ

藤原定家。
いうまでもなく百人一首の選者であり、当時のみならず、和歌の歴史において柿本人麻呂紀貫之と並び称される大歌人で、現代にいたるまでその評価は揺るがない。
その歌風は幽玄、耽美的、幻想的などど評されることが多く(それがそのまま新古今調の特徴でもある)、歌のテーマは季節より恋愛の方を得手とした。

藤原俊成の次男として誕生。
和歌に熱心な後鳥羽からは信頼篤く、定家が40代のころに『新古今和歌集』の選者になる。もっとも後鳥羽の要求が多すぎたのか、作業の大変さを日記で愚痴っており、逆に後鳥羽は『後鳥羽上皇御口伝』という̚歌道書の中で定家の人格をなじっているため、両者は徐々に不仲になっていった模様。
そして59歳の時、順徳時代の歌合に無理やり参加させられた定家が詠んだ、

道のべの野原の柳したもえぬあはれ嘆きのけぶりくらべや

が、後鳥羽の勅勘を蒙り、蟄居させられてしまった。
この歌は『新古今和歌集』におさめられている菅原道真の

道の辺の朽ち木の柳春くればあはれ昔と偲ばれぞする

という歌の本歌取りなのだが、勅勘の理由は様々いわれておりいまいちはっきりしない(おそらく恨み言を歌合せで詠んだことが禁忌に触れたと思われる)。
が、後鳥羽が承久の乱で隠岐に流されたため、定家は再び政界・歌道界に復帰。
『新勅撰和歌集』を後堀河の命により単独選者として著している。ちなみにこの和歌集には鎌倉幕府に遠慮して後鳥羽、順徳の歌は採用されていない。

百人一首を選じた契機は、武士であり歌人でもあり、息子の舅であった宇都宮頼綱の依頼により、彼の小倉山の別荘に飾る色紙に書く歌の選定を依頼されたことによる(といわれている)。
定家の日記『明月記』の1235年5月27日の記録には「古来人歌各一首、自天智天皇以来及家隆雅経」というくだりがあり、これが百人一首のことを指しているという説もある。


さて、この歌の解説をすると、こない恋人を待ち焦がれるつらさを、松帆の浦(淡路島)で夕凪に焼く藻塩に例えた、激しい恋の歌。
『万葉集』の長歌からの本歌取りである。そして叶わぬ恋人とは、式子内親王といわれ、彼女の歌の番号も89=やくの語呂合わせになっているという説もある。

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