参議雅経
み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり
本名は飛鳥井雅経。先祖をたどると関白藤原師実(道長の孫)の五男・忠教にたどりつく。
雅経の父・頼経は源義経と懇意だったため、平家滅亡後に義経が謀反人にされると、罪を問われて配流になり、雅経自身も鎌倉へ護送された。が、人の運命とはわからないもので、鎌倉では得意の蹴鞠を生かして源頼家・実朝と親交が深くなり、なんと頼朝の猶子(相続権のない息子)に迎えられる。1197年に罪を許されて京へ戻ると後鳥羽上皇の近臣として頭角を現す。経歴からもわかるとおり親幕府派であり、定家と実朝の間をとりもったのも雅経である。
この飛鳥井家は蹴鞠を家道としてその後も続き、徳川家康からは蹴鞠道の家元として認定されている。
ちなみに明治になり飛鳥井家が東京へ移転すると、飛鳥井家の跡地には淳仁天皇・崇徳天皇を祀る白峯神社が建立された。飛鳥井家が蹴鞠の家であったことから球技競技者から人気があるのだが、祀られている淳仁は奈良時代に廃位されて淡路島に配流になった天皇であり、崇徳は前に述べた通り保元の乱で讃岐に入るになり皇室を呪って崩御した天皇。
み吉野の山の秋風さ夜ふけて ふるさと寒く衣うつなり
本名は飛鳥井雅経。先祖をたどると関白藤原師実(道長の孫)の五男・忠教にたどりつく。
雅経の父・頼経は源義経と懇意だったため、平家滅亡後に義経が謀反人にされると、罪を問われて配流になり、雅経自身も鎌倉へ護送された。が、人の運命とはわからないもので、鎌倉では得意の蹴鞠を生かして源頼家・実朝と親交が深くなり、なんと頼朝の猶子(相続権のない息子)に迎えられる。1197年に罪を許されて京へ戻ると後鳥羽上皇の近臣として頭角を現す。経歴からもわかるとおり親幕府派であり、定家と実朝の間をとりもったのも雅経である。
この飛鳥井家は蹴鞠を家道としてその後も続き、徳川家康からは蹴鞠道の家元として認定されている。
ちなみに明治になり飛鳥井家が東京へ移転すると、飛鳥井家の跡地には淳仁天皇・崇徳天皇を祀る白峯神社が建立された。飛鳥井家が蹴鞠の家であったことから球技競技者から人気があるのだが、祀られている淳仁は奈良時代に廃位されて淡路島に配流になった天皇であり、崇徳は前に述べた通り保元の乱で讃岐に入るになり皇室を呪って崩御した天皇。