磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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『西郷隆盛【新装版】』池波正太郎

2010年01月13日 | 読書日記など
『西郷隆盛【新装版】 角川文庫い8-13』
   池波正太郎・著/角川書店1979年、2006年改版初版

小説ですね……。
裏表紙にこう書かれてあります。下「」引用。

「近代日本の夜明け、明治維新に燦として輝きを放つ西郷隆盛。
「西郷は真の政治家でありながら、世に横行する政治家ではない。西郷は詩人の魂をもった理想家であり教育家であった。芸術家になっても、すばらしい業績をのこしていたろう。そしてさらに、西郷は軍人でもなかったのである」と著者が言い切った西郷隆盛の半世紀の足どりを克明に追った伝記小説。西郷を通じて描かれた維新史としても読みごたえ十分の力作。」



弾をやっていた西郷。下「」引用。

「「西郷な、思いきりが早すぎて困る、困る」
 と、大久保利通が、
「ありゃ、若いころ禅をやっていた影響じゃ。いつもいつも思いきりが早すぎる」」

上達遅い西郷。下「」引用。

「当時の西郷は、四書の素読も習字も算盤(そろばん)も上達がおそく、もっとも彼の得意とするところのものは〔相撲〕であったそうだが、腕力はつよかったらしい。」

上役・迫田の影響を受ける……。下「」引用。

「ここでも、西郷の人格形成に大きな役割をもつ人物があらわれる。
 すなわち、西郷の上役である郡奉行の迫田太次右衛門利済だ。」

阿部正弘……。下「」引用。

「で……阿部正弘は〔お由良派〕の久光につきそっている側役をまねき、
「島津家の不当なる庶子擁立は、いまや天下に知れわたっている。これ以上、幕府も黙認してはおられなくなろう」
 と、おびやかした。」

離婚経験がある西郷。下「」引用。

「伊集院兼寛(いじゅういんかねひろ)の妹を妻に迎えていたのだが、後に妻の実家から離縁ばなしを持ちこまれ、西郷は承知している。」

水戸藩の偉材・藤田東湖にあった西郷。

「斉彬の死」 下「」引用。

「島津斉彬は薩摩藩主となってわずかに七年。日本の死命を制するほどの活躍を目前にしながら急死してしまうのだ。」

「安政の大獄」

嫁入りの時に月照と親しくなる。下「」引用。

「天璋院(島津篤子)が将軍家へ嫁入るときに、西郷は近衛家の顧問格ともいうべき月照と知り合い、このときから二人は友情ただならぬ間柄となっていた。」

月照との自殺……。

久光公にとりいる大久保利通。

勝海舟を佐久間象山以上の人物とみた西郷。

月給がおおすぎる……。下「」引用。

「月給の大半を社会と教育の事業につかってしまい、老下僕ひとりをつれただけで質素をきわめた西郷の暮しだし、その月給も、他の諸官の手前、仕方なくもらっているのだ。
「月給が多すぎる」
 と、西郷はいう。」







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西郷隆盛-その偉大なる生涯-

2010年01月13日 | 読書日記など
『西郷隆盛-その偉大なる生涯-』
   桜田満・編/司馬遼太郎・対談/学研1977年

西郷隆盛像というのも、一般では事実とは異なるようにボクには思えてならない。
--チャンバラもんの、娯楽劇では西郷隆盛は理解できないのではないか?



ゼロへもっていこうとした人物……。下「」引用。

「司馬 まあ「翔ぶが如く」の場合は、なるべく西郷に肉迫しようと思って、近似値まではとてもいけないけれど近似値に近い数値までのとこに自分が迫っていきたいと思ったんですけどね、やはり書き終えて、ぼくは西郷のそばを通過していないという感じがある。-略-
 自分自身を一個の抽象的な世界にもっていったという例は、まあ中国なんかなら割合あるかもしれない。われわれは日本の西郷についての印象が鮮烈すぎるから、どうしても西郷論はほかの似た外国人をもってくるわけにはいかない。数値でいえば、マイナス一もプラス一もあり得るわけですけどゼロだけはあり得ない。ゼロだけは数値というよりもひとつの世界ですよね。西郷は自分をそのゼロへもっていくということをやった唯一の人じゃないかと思いますね。」

そろばんが得意だった西郷。

犬好き。下「」引用。

「司馬 ぼくは犬のことをずいぶん調べたつもりなんですけど、自分に犬感覚がないから(笑)、だめなんですよ。西郷さんは犬が猛烈に好きだし、それもいい犬が好きなんです。猟犬としてね。彼は幼犬から訓練することをせずに、ほとんど成犬を手に入れて、その犬をつれて歩いたりしています。実際は鉄砲猟はあまりしていないんで、大体が罠かけ猟のうよですね。だから、ほとんど犬はいらないんですけどね。」

犬にうな丼。下「」引用。

「薩摩にはうなぎ丼だけはあったんですよ。茶店に寄りますとね。その茶店にわけのわからん大きな百姓みたいな男がやって来て、「うなぎ丼くれ」というから作って出すと、それをパッと犬にやってしまう。茶店のばばが、もったいないことをする、と怒りまよすね。だけど、代金を、五銭ぐらいのところを五円ぐらくれるわけでね、--あの人はお金をずいぶんまいた人なんですよ(笑)。で、ばばはびっくりしてしまう、そしてあとであの人は西郷さんだと知った、というような話が多いんです。」

「大久保利通の金ピカの軍刀をとりあげる」
ちょっと借りるよと、西郷はもっていき、返してくれというと。書生にやったという。

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赤山靭負。下「」引用。

「赤山靭負は薩摩藩の物頭(ものがしら)役をつとめていた。足軽のリーダーである。重臣というほどではないが、武官としては重要な役だ。-略-嘉永二年(一八四九)十二月、切腹の日、赤山は自室に西郷父子を呼んだ。青ざめる隆盛を前に、赤山はしずかに言って聴かせるのだった、武士は忠義のために死なねばならぬことがある、わしの最後がそれだ、しかっり見とどけよ、と。」

月照(一八一三-一八五八)。








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大西郷兄弟物語-西郷隆盛と西郷従道の生涯-

2010年01月13日 | 読書日記など
『大西郷兄弟物語-西郷隆盛と西郷従道の生涯-』
   豊田穣・著/光人社1990年

どちらかといって、西郷隆盛の本に思える……。
--大西というのではなく、「大(だい)」西郷と読むんでしようね……。



従道は徒歩で通勤していた。

西郷隆盛は従道が9歳の時から親代わりの16歳年上の兄だった……。

隆盛のマナー。下「」引用。

「この兄は十六歳下の弟に経緯を評するような言い方をした。目上の者はもちろん、目下の者に対しても敬意をわすれぬ言い方が、この大西郷のマナーであった。三條や岩倉に対しては「大臣殿」であるが、後輩であるはずの板垣に対しても、戊辰戦争の武勲を認める意味でか、「板垣先生」と呼ぶので、後世に至るまで、
「西郷さんの丁重なのには、まっこと痛みいったぜよ」
 と、この意気の荒い土佐っぽが述懐したという。」

人徳……。下「」引用。

「西郷は、天を敬い人を愛す、というその座右の銘の通り、後輩にも敬意を表し、それが厭味にならないところが、この男の人徳であった。」

隆興と名乗っていたが……。下「」引用。

「明治米君以後は従道で、これは太政官に出頭したとき、隆興を「りゅうこう」と発音したのが、役人が「じゅうどう」と聞きちがえて「従道」と書いたので、以後これを使うことにしたのだという。」

龍助とも従道のことが書かれてあった……。

次男西郷吉兵衛は、河合継之助の軍と戦い戦死。
末弟・小兵衛は熊本の戦のとき、高瀬で戦死。

嘉永五年(一八五二)、隆盛二十六歳、従道十歳の年の九月二十七日、父が急死し、母もその年の十一月二十九日に亡くなる……。

安政の大獄で……。下「」引用。

「幕府から追われ、隆盛、僧月照とともに、大阪から鹿児島へ逃げる。-略-」

坂本龍馬と吉之助(隆盛)のことも書かれてあった。

海舟が頼んだ。下「」引用。

「-略-龍馬を海舟が薩摩藩に保護をたのんだのは、周知の事実である。
 海舟は小松帯刀にのそれを頼み、小松が国許の大久保に宛てた手紙によると、龍馬は初めは薩摩藩の大阪屋敷に匿われていたらしい。-略-」

隆盛と龍馬、海舟評。下「」引用。

「「西郷という人は馬鹿ですな。大馬鹿です。小さく叩けば小さく鳴る。大きく叩けば大きく鳴るが、その馬鹿の幅がわからない。難しいのはその金をつく撞木が小さいことです。」
 これを聞いた海舟は、「評する者も評する者、評せられる者も評せらるるものだ」と言ったという。」

龍馬と鹿児島。下「」引用。

「鹿児島に着くと、龍馬は陸奥たちと二年前の薩英戦争のとき焼かれた市街や、隼人たちが奮戦した弁天の砲台を見て歩き、
「薩人もなかなかいごっそう(頑固者)であるぜよ」
 と感心した。-略-」

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痴情と桂を罵倒した坂本龍馬……。下「」引用。

「これを聞いて龍馬は憤激した。
「桂さん、あんた、十日近くも、西郷の方から連合のことを言い出すのを待っていたのか。なんたる女々しいことかよ」
 これを聞くと桂も顔色を変えた。
「女々しいとはなにごと!?」
 刀を引き寄せ、片膝を立てると桂はいった。
「坂本君、ぼくは一介の桂ではない。長州藩を代表してここに来ちょるんじゃ。薩摩には文久以来、たびたび苦渋をなめさせられている。いま当方から頭を下げれば、長州の面目は、さらにつぶれる。武士の対面を汚すよりは、日本中を敵として、最期の一戦を戦う方がましでござるよ」
 これを聞くと龍馬は怒号した。
「桂さん、あんたの考えは、藩を思うに似て、じつは日本国を忘れた女の痴情じゃ。なぜ、小なる藩の対面を捨てて、大なる日本国を救うための連合を生かさないのかよ。それが男の真情ちゅうもんぜよ。男の真情の前には長州の対面など、痴情にすぎんではないかよ」
 烈々火を吹く龍馬の闘志とその弁舌に、桂はやがて静かに頭を下げていった。
「坂本君、すまんかった。いま一度、西郷君にたのんでみてはくれんか」
 こうして、龍馬の仲介で、一月二十二日、薩長連合は成立した。-略-」

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世界的にも、痴情ばかりの現在……。







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『西郷隆盛』安藤英男・著

2010年01月13日 | 読書日記など
『西郷隆盛』
    安藤英男・著/学陽書房1997年

やはり、西郷隆盛は武官というよりも、文官ですね……。



聖人・君子だったという……。下「」引用。

「隆盛を評して英雄・偉人というのは、必ずしも隆盛をいいつくしてはいない。むしろ隆盛は聖人・君子に近く、聖人的英雄--聖雄--といってもよかろう。
 それに隆盛は、有名な「敬天愛人」をはじめとする、彼一流の高邁(こうまい)なる哲学があった。そして、それが単なるお題目ではなく、純真にして強い心をもって、ほんとうに実践しようとしたところに、他の政治家に見られない偉さがある。この意味では隆盛は、わが国には類い稀なる「哲人政治家」といってもよかろう。」

この本では……。下「」引用。

「また、「誌、もって志をいう」(『礼記(らいき)』『左氏』など)の観点から、隆盛の漢詩を多く引き、その詩境を探りつつ、志業と文藻(ぶんそう)を偲んだ。これらの方針も、旧著を編んだときと同じである。」

生え抜きの薩摩隼人ではないという……。下「」引用。

「-略-しかし隆盛はす、生えぬきの薩摩隼人ではない。その家祖は、肥後(熊本県)の菊池氏の庶流である。隆盛が後年、僧・月照と投身自殺をはかり、はからずも再生の身を、しばらく奄美大島に潜居したさい、菊池源吾と変名したことは、その祖先の姓にちなんだのである。」

斉彬……。下「」引用。

「かくて斉彬は、天下にさきがけて薩摩の近代化をはかった。斉彬は、「物理と化学とは、理財の基礎である」と語り、嘉永四年(一八五一)、鹿児島城内の花園を廃して、ここに製煉所を創設し、理化学の応用実験を行い、翌5年には、磯邸内の竹林を開いて、反射炉・溶鉱炉の建設を開始した。花園の製煉所は、後に開物館と改め、硫酸・塩酸・硝酸などの薬品、綿花薬・陶磁器・硝子・半紙・工匠機械などの製造、貴金属の分析、鍍金、水力搾油などを行った。」

英国との交易……。下「」引用。

「まず薩摩一藩の力をもって先鞭をつけたいからと、とりあえず琉球と英国との間に交易を開くことを幕府に認めさせた。また斉彬は、このため大船が必要であるからと、洋式帆船十二隻、蒸気船三隻、合計十五隻(軍艦)の建造を幕府に申請し許可をうけた。」

毒殺疑惑・斉彬の死……。下「」引用。

「斉彬の長逝は、まさに天下を驚倒させたが、誰よりもおどろき、悲嘆にくれたのは隆盛であったろう。おもえば五年前、斉彬に見出されから、天下を識り、また天下の名士と交わることができたのは、まったく斉彬のたまものであった。-略-」

一時の月照と隆盛……。下「」引用。

「隆盛は殉死を決意すると、かねて近衛家との連絡や志士との間を斡旋してくれた僧・月照(清水寺成就(じょうじゅ)院住職)を訪ね、それとなく別れを告げた。すると月照は隆盛の決意を見てとり、斉彬の有志をついで、その経綸を完成することこそ、斉彬に報いる道であると説いた。月照の説くところは、せつせつとして隆盛の心琴(しんきん)にふれ、隆盛は奮然として後図を策することにした。」

勝海舟について。下「」引用。

「現時に臨み候ては、此の勝先生と、ひどくほれ申し候。(元治元年九月十六日付)」

慶喜に裏切られた勝……。下「」引用。

「勝海舟は、広島まで行き、厳島(いつくしま)の大願寺で、長州藩の広沢真臣(さねおみ)・井上馨(かおる)などと交渉し、双方があい引きということで、撤兵・解兵をとりきめた。しかしながら慶喜は、勝が出発した後、朝廷に願って休戦の直諚を出させ、これをふりかざして長州兵のみ占領地から撤去させようとした。勝にとっては慶喜に裏切られたわけであり、また慶喜のあまりにも時勢を知らなさ過ぎるのでさじを投げ、大阪で辞表を出して江戸へ帰った。-略-」

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西郷隆盛の世界

2010年01月13日 | 読書日記など
『西郷隆盛の世界』
   上田滋・著/中央公論社1991年

「西郷隆盛の思想」(PHP研究所 1990年刊)の改題



西郷は進歩的だったのだろうか? 下「」引用。

「首狩り族の中にいて人殺しは悪いことだと言った男。それが西郷隆盛である。
「文明とはひろく道の行われることを言う。国と国とは道徳と信義をもってつきあい、強い進んだ国は遅れた弱い国を攻め取るのではなく、慈愛をもって教え導いてやるべきだ」(『西郷隆盛遺訓』より)
 そこで、個人の倫理を国家に押しつけるなど非常識だとして、この点で西郷は百年間、多くの識者から精神障害者扱いされてきた。
 しかし二十一世紀に近づき、やっと欧米諸国はそのことの必要性に目覚めた。-略-
 「成功した進んだ国は開発途上国を援助する義務がある」(一九八七年、世界銀行総裁バーバー・コナブル)」

中江兆民も西郷を讃美。下「」引用。

「また、のちに有名な「大逆事件」で明治政府に首謀者としてデッチあげられ処刑された幸徳秋水の師で、ルソーの紹介者として明治期の最も徹底した民主主義者とされる中江兆民も、親しくしていた勝海舟の影響もあってか、専制秩序への反抗者としての西郷を熱烈に讃美した。」

内村鑑三も書物を書いた西郷隆盛……。

夏目漱石たちも……。下「」引用。

「その他、憲政の父・尾崎行雄、五・一五事件の悲劇の首相・犬養毅、作家の夏目漱石、哲学者の西田幾多郎なども、経世家としてよりも人間としての西郷を深く敬慕し、その大らかさ、純粋さ、自制と寛容など比類が無いと評している。」

福沢諭吉は西郷と会ったことがない。

西南戦争……。下「」引用。

「すなわち西南戦争は一面、時代に合わぬ士族たちの最後の反抗であるとともに、多くの自由主義・民主主義者たちが行をともにした側面を持つ。」

最初に、迫田利斉(せこたとしなり)に仕えた西郷。下「」引用。

「はじめ迫田利斉(せこたとしなり)という清廉硬骨で農民思いの郡奉行に仕えたのが彼の人生に強い影響を与えているといわれる。迫田はある年、凶作で農民の窮乏がひどいので年貢減免を藩庁に願い出たが、ニベもなく断られた。憤激した奉行は、宿舎の壁に次の歌を書き残して辞職してしまったという。
「虫よ虫よ、五ふし草の根を絶つな、絶たばおのれも、ともに枯れなん」(為政者たちよ、お前らは農民によって養われていることを忘れるな。農民が滅びればお前らも滅びるぞ)」

大久保は明治天皇に……。下「」引用。

「なお田中親子(*田中河内介親子)の殺害については、幼児の傳育者として彼を悼む明治天皇の前で、大久保は名指しで、犯人と指摘され蒼白になり応えられなかったという。さらに後の大政奉還による平和的政権移譲などを策し武力討伐の障害になった坂本竜馬の居所を漏らして暗殺を招き寄せた黒幕も、彼と思想的に全く対立した大久保ではないかと疑われている。
彼は「暗殺のような卑劣な事をしたことは無い」と言うが、盟友の岩倉は晩年、「幕末に大久保と自分が策した事はとても人に言えぬ」と述懐している。」

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祗園の虎姫と……。下「」引用。

「しかし、以前の京都時代には黒縮緬の羽織を着て、りっぱな風采(勝海舟の形容)で祗園の茶屋へ出入りし、虎姫なる気風(きっぷ)のいい大女との粋(すい)な関係も伝えられ、官軍東征進発のとき女は路上で泣いて別れを惜しんだという話もある。」

「西郷橋」 下「」引用。

「米良を過ぎて下槻木にいたり、西郷軍は台風に流された橋を架け直して渡った。兵たちが追撃を恐れてそれを壊そうとすると、西郷が「残しておけば百姓たちが重宝する」と言ったのでやめたという。その橋はその後、幾度か架け替えられコンクリート橋に変わったが、今も「西郷橋」と呼ばれている。」

朝鮮へ、和平に行こうとした西郷。下「」引用。

「西郷はあくまでも和平交渉のための使節として出かけるつもりだったと思われ、しかも彼が、一般の征韓論をあおらないまでも黙認する形になっていたのは、その沸騰した力の背景のもとにこそ、強く和平を押せるとしたからであろう。」

勝海舟と征韓論。下「」引用。

「西郷の征韓をいう人はよく、彼が親友であるはずの海軍大輔勝海舟にも、親密な関係の陸軍卿山県有朋にも、その戦争計画をまるで相談していないことを非常識だという。
 勝は十月になって、はじめて三条から可否を問われて「とても戦争などできぬるやれと言うなら辞職する」と答え、山県は旅行中に陸軍大輔西郷従道の報知で、戦争騒ぎになっていることの意外に驚いたとする。-略-」

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岩倉具視は後悔したという。下「」引用。

「それはともかく、後の明治十七年、岩倉具視は病死にのぞんで副島種臣に、「あのとき、西郷さんを韓国に行かせればよかった。一生の不覚である」と告白したという。」

西郷を渡韓させていたら……。下「」引用。

「西郷を渡韓させていたら、交渉がうまく片づいき、迫りくるロシアの脅威に対する日・韓・清三国の共同戦線も生まれていたかもしれない、という後悔の念が切だったと思われる。」

汚職長州と組んだ大久保。







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