『坂本竜馬-平和と統一の先駆者-』
池田諭・著/大和書房1968年
坂本龍馬略年譜・文献:p206~210
……読みやすい本です。
小龍が育てた若者たち……。下「」引用。
「後日、竜馬の率いる海援隊の隊員として、彼とその事業を共にし、彼を助けた近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助等、多くの人々が小竜によって見出され、その基礎をつくって竜馬の許に送りこまれた。小竜が断言してはばからなかった通り、これらの若者達は、あるいはまんじゅう屋の息子(近藤長次郎)であり、町医者の子(長岡謙吉)であり、また百姓の次男坊(新宮馬之助)であった。」
「オランダ憲法から受けた政治への開眼」下「」引用。
「竜馬とその読書法は、外国語においても変わらない。やはりこの頃、竜馬は蘭学者の許に通っていた。教材はオランダの法律概論が使われたというが、竜馬はひどくこの本に興味を持っていた。殊に、選挙によって選ばれた人達で構成する議会制度や、将軍や藩主のための政治しかない日本にくらべて人民の人民による政治という考え方には、驚きをこえて、深い感動を呼びおこした。竜馬における思想的開眼は、あとにも先にも、これ以上のものはなかったと考えられる。この時竜馬の読んだであろうオランダ憲法は、一八四八年に制定されたものである。」
「狡猾な外国商人に荒らされた甘い市場」下「」引用。
「-略-外国人は、不平等条約を楯にとって、甚だ横暴、狡猾であった。
安政五年六月二日に開かれた港は横浜、長崎、函館であったが、貿易はどんどん盛んになっていった。取引きは、居留地の外国商人と開港場の日本商人の間で行われ、日本商人はまず見本を出して値段を定めてもらい、契約を結び、現品を全部納入してから品質検査を行い、その後はじめて代金の支払いを受けるという仕組になっていた。品物をすっかり抑えられているから、買い叩かれたり、勝手に契約破棄されても、日本商人は歩が悪かった。たとえ裁判に持ちこんだとしても、領事裁判権を持っている外人を裁くのは外人側の領事裁判所だから、どうにもならなかった。
反対に日本商人が品物を買い入れる時は、一切現金引換えで、商品の相場も外国商館で教えてもらうほかに手はなかったから、何時の場合も不利だった。」
無位無官の者達こそが……。下「」引用。
「玄瑞が竜馬を通じて瑞山に送った手紙の一節にある「無位無官の者達が団結して倒幕の運動をおこす以外にない」という意見も、松陰の立場から生まれたものである。竜馬と玄瑞は、この地点において接触し、竜馬は玄瑞のこの立場を全面的に受け入れたふしがある。」
西郷と桂小五郎に激怒した龍馬。下「」引用。
「この時、竜馬はよほど両者の態度にがまんがならず、激しく怒ったとみえて、後に中島作太郎に、「僕はこれで、めったに怒ったことはないが、あの時ばかりは、心の底から、激怒したよ」と語ったという。」
龍馬、象二郎共に死を覚悟していたという。
「竜馬を失った平和コース」 下「」引用。
「十月十四日、全く同時にスタートした平和コースと武力コースは、竜馬と慎太郎の死によって、大きく均衡が崩れてしまった。竜馬の平和コースが、戦う態勢なしに、ただ平和を願望するというものではなかったことは、改めていうまでもない。和戦両様の構えをとっての平和コースであり、武力コースが平和コースに活を入れることを、十分に知りつくしていた竜馬でもあった。-略-」
--おかしな表現のようにボクには思えるが……。
時代背景もずいぶん異なるのに、現代と一致させたいのだろうか?
龍馬の時代には、平和学さえなかった……。
その龍馬をそれで非難するのも、何だかなあーと思うけど……。
しかし、人殺しをさけたかった龍馬と勝海舟を否定することはできないとも思う……。
デモクラシーと「共和制」を望んだ勝海舟、その弟子の龍馬……。
目次
もくじ
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もくじ
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池田諭・著/大和書房1968年
坂本龍馬略年譜・文献:p206~210
……読みやすい本です。
小龍が育てた若者たち……。下「」引用。
「後日、竜馬の率いる海援隊の隊員として、彼とその事業を共にし、彼を助けた近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助等、多くの人々が小竜によって見出され、その基礎をつくって竜馬の許に送りこまれた。小竜が断言してはばからなかった通り、これらの若者達は、あるいはまんじゅう屋の息子(近藤長次郎)であり、町医者の子(長岡謙吉)であり、また百姓の次男坊(新宮馬之助)であった。」
「オランダ憲法から受けた政治への開眼」下「」引用。
「竜馬とその読書法は、外国語においても変わらない。やはりこの頃、竜馬は蘭学者の許に通っていた。教材はオランダの法律概論が使われたというが、竜馬はひどくこの本に興味を持っていた。殊に、選挙によって選ばれた人達で構成する議会制度や、将軍や藩主のための政治しかない日本にくらべて人民の人民による政治という考え方には、驚きをこえて、深い感動を呼びおこした。竜馬における思想的開眼は、あとにも先にも、これ以上のものはなかったと考えられる。この時竜馬の読んだであろうオランダ憲法は、一八四八年に制定されたものである。」
「狡猾な外国商人に荒らされた甘い市場」下「」引用。
「-略-外国人は、不平等条約を楯にとって、甚だ横暴、狡猾であった。
安政五年六月二日に開かれた港は横浜、長崎、函館であったが、貿易はどんどん盛んになっていった。取引きは、居留地の外国商人と開港場の日本商人の間で行われ、日本商人はまず見本を出して値段を定めてもらい、契約を結び、現品を全部納入してから品質検査を行い、その後はじめて代金の支払いを受けるという仕組になっていた。品物をすっかり抑えられているから、買い叩かれたり、勝手に契約破棄されても、日本商人は歩が悪かった。たとえ裁判に持ちこんだとしても、領事裁判権を持っている外人を裁くのは外人側の領事裁判所だから、どうにもならなかった。
反対に日本商人が品物を買い入れる時は、一切現金引換えで、商品の相場も外国商館で教えてもらうほかに手はなかったから、何時の場合も不利だった。」
無位無官の者達こそが……。下「」引用。
「玄瑞が竜馬を通じて瑞山に送った手紙の一節にある「無位無官の者達が団結して倒幕の運動をおこす以外にない」という意見も、松陰の立場から生まれたものである。竜馬と玄瑞は、この地点において接触し、竜馬は玄瑞のこの立場を全面的に受け入れたふしがある。」
西郷と桂小五郎に激怒した龍馬。下「」引用。
「この時、竜馬はよほど両者の態度にがまんがならず、激しく怒ったとみえて、後に中島作太郎に、「僕はこれで、めったに怒ったことはないが、あの時ばかりは、心の底から、激怒したよ」と語ったという。」
龍馬、象二郎共に死を覚悟していたという。
「竜馬を失った平和コース」 下「」引用。
「十月十四日、全く同時にスタートした平和コースと武力コースは、竜馬と慎太郎の死によって、大きく均衡が崩れてしまった。竜馬の平和コースが、戦う態勢なしに、ただ平和を願望するというものではなかったことは、改めていうまでもない。和戦両様の構えをとっての平和コースであり、武力コースが平和コースに活を入れることを、十分に知りつくしていた竜馬でもあった。-略-」
--おかしな表現のようにボクには思えるが……。
時代背景もずいぶん異なるのに、現代と一致させたいのだろうか?
龍馬の時代には、平和学さえなかった……。
その龍馬をそれで非難するのも、何だかなあーと思うけど……。
しかし、人殺しをさけたかった龍馬と勝海舟を否定することはできないとも思う……。
デモクラシーと「共和制」を望んだ勝海舟、その弟子の龍馬……。
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