磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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坂本竜馬-平和と統一の先駆者-

2010年01月07日 | 読書日記など
『坂本竜馬-平和と統一の先駆者-』
   池田諭・著/大和書房1968年

坂本龍馬略年譜・文献:p206~210
……読みやすい本です。



小龍が育てた若者たち……。下「」引用。

「後日、竜馬の率いる海援隊の隊員として、彼とその事業を共にし、彼を助けた近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助等、多くの人々が小竜によって見出され、その基礎をつくって竜馬の許に送りこまれた。小竜が断言してはばからなかった通り、これらの若者達は、あるいはまんじゅう屋の息子(近藤長次郎)であり、町医者の子(長岡謙吉)であり、また百姓の次男坊(新宮馬之助)であった。」

「オランダ憲法から受けた政治への開眼」下「」引用。

「竜馬とその読書法は、外国語においても変わらない。やはりこの頃、竜馬は蘭学者の許に通っていた。教材はオランダの法律概論が使われたというが、竜馬はひどくこの本に興味を持っていた。殊に、選挙によって選ばれた人達で構成する議会制度や、将軍や藩主のための政治しかない日本にくらべて人民の人民による政治という考え方には、驚きをこえて、深い感動を呼びおこした。竜馬における思想的開眼は、あとにも先にも、これ以上のものはなかったと考えられる。この時竜馬の読んだであろうオランダ憲法は、一八四八年に制定されたものである。」

「狡猾な外国商人に荒らされた甘い市場」下「」引用。

「-略-外国人は、不平等条約を楯にとって、甚だ横暴、狡猾であった。
 安政五年六月二日に開かれた港は横浜、長崎、函館であったが、貿易はどんどん盛んになっていった。取引きは、居留地の外国商人と開港場の日本商人の間で行われ、日本商人はまず見本を出して値段を定めてもらい、契約を結び、現品を全部納入してから品質検査を行い、その後はじめて代金の支払いを受けるという仕組になっていた。品物をすっかり抑えられているから、買い叩かれたり、勝手に契約破棄されても、日本商人は歩が悪かった。たとえ裁判に持ちこんだとしても、領事裁判権を持っている外人を裁くのは外人側の領事裁判所だから、どうにもならなかった。
 反対に日本商人が品物を買い入れる時は、一切現金引換えで、商品の相場も外国商館で教えてもらうほかに手はなかったから、何時の場合も不利だった。」

無位無官の者達こそが……。下「」引用。

「玄瑞が竜馬を通じて瑞山に送った手紙の一節にある「無位無官の者達が団結して倒幕の運動をおこす以外にない」という意見も、松陰の立場から生まれたものである。竜馬と玄瑞は、この地点において接触し、竜馬は玄瑞のこの立場を全面的に受け入れたふしがある。」

西郷と桂小五郎に激怒した龍馬。下「」引用。

「この時、竜馬はよほど両者の態度にがまんがならず、激しく怒ったとみえて、後に中島作太郎に、「僕はこれで、めったに怒ったことはないが、あの時ばかりは、心の底から、激怒したよ」と語ったという。」

龍馬、象二郎共に死を覚悟していたという。

「竜馬を失った平和コース」 下「」引用。

「十月十四日、全く同時にスタートした平和コースと武力コースは、竜馬と慎太郎の死によって、大きく均衡が崩れてしまった。竜馬の平和コースが、戦う態勢なしに、ただ平和を願望するというものではなかったことは、改めていうまでもない。和戦両様の構えをとっての平和コースであり、武力コースが平和コースに活を入れることを、十分に知りつくしていた竜馬でもあった。-略-」

--おかしな表現のようにボクには思えるが……。

時代背景もずいぶん異なるのに、現代と一致させたいのだろうか?

龍馬の時代には、平和学さえなかった……。

その龍馬をそれで非難するのも、何だかなあーと思うけど……。

しかし、人殺しをさけたかった龍馬と勝海舟を否定することはできないとも思う……。

デモクラシーと「共和制」を望んだ勝海舟、その弟子の龍馬……。

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坂本龍馬伝-幕末を駆け抜けた英傑の生涯

2010年01月07日 | 読書日記など
『坂本龍馬伝-幕末を駆け抜けた英傑の生涯 これ1冊ですべてわかる- 別冊歴史読本』
     佐藤實・編/新人物往来社2009年

大河ドラマ「龍馬伝」見どころガイド
インタビュー 鈴木圭(チーフ・プロデューサー)/ロケだより
……というのがありますね。



「岩崎弥太郎の登場で、知られざる龍馬像が見えてきます」 下「」引用。

「龍馬を主役に、新しいドラマを創ろうと試行錯誤していたとき、岩崎弥太郎の存在が非常に気にかかりました。史実としては、龍馬との接点はわずかで、しかも龍馬の人生の後半で関わったくらいです。岩崎弥太郎は、有名ですが評伝は少なくて、詳しい人生は知らない人が多いでしょう。そこはドラマですから、フィクションで創ることができます。-略-」

「龍馬のピストル」下「」引用。

「龍馬は、生涯ふたつの銃を手にしたが、ひとつ目の銃は、高杉晋作から上海みやげとして贈られた、「スミス&ウエッソン・第2型アーミー」32口径の6連式。龍馬は、これを肌身離さず餅歩き、寺田屋事件では、実際に使用して難を逃れたが、逃走中に紛失。次に手にした銃は、薩摩藩から贈られた「スミス&ウエッソン・第1型1/2ファースト・イッシュー」と呼ばれる22口径の5連式。この銃は近江屋で龍馬が暗殺された際、その遺体のそばに転がっていたが、引き金が引かれた形跡はなかったという。」

龍馬のピストル

黒船は見ていない龍馬。下「」引用。

「龍馬が黒船を見物に来たという記録がないので、「龍馬は来ていません」と答えると、私の意見より、司馬先生の著作の方を圧倒的に支持する方々は、私の浅学を憐れんでくれる。-略-象山の足跡を龍馬に置き換えたものであろうということまで説明することにしている。-略-嘉永6(1853)年6月3日、ペリーが率いる黒船が来航すると、品川にあった土佐藩邸周辺の警備のために駆り出されている。」

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西郷隆盛にいったという「世界の海援隊」は改竄だという……。下「」引用。

「まず、新官制擬定書は龍馬が作成したものではなく、龍馬の委託により尾崎三良(おざきさぶろう)(当時、戸田雅楽(とだうた)、三条実美(さんじょう実美家士)が起草したものである(『尾崎三良自叙略伝』上巻)。尾崎によれば、起草した日にちは大政奉還当日の十月十四日である。
 しかも、この前後、龍馬が西郷たちに会った形跡はない。そして西郷は小松・大久保とともに十月十七日帰京し、これが永遠の別れとなった。龍馬の代わりに尾崎が西郷に会ってはいる。-略-新官制擬定書の起草者である尾崎の証言は「世界の海援隊」の逸話が虚構であることを示している。」

そして、新官制擬定書は5種類あるという。そして、龍馬の名前が、「参議」のなかにあるのもあるという。

龍馬を顕彰する銅像やモニュメントは多い(写真「維新の門」高知県梼原町)

龍馬の遺言でお龍の妹起美と結婚した菅野覚兵衛……。





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會津士魂(三)龍馬暗殺の巻

2010年01月07日 | 読書日記など
『會津士魂(三)龍馬暗殺の巻』
   早乙女貢・著/新人物往来社1985年

いさましい剣は、被害者からみれば残酷な剣であり、人の命を奪ってもきた……。こんなもので、平和はつくれるはずがない……。それは旧約聖書の時代からわかっていることですね……。それが現実でしょうね……。
--この本は小説でしょうね……。



西郷吉之助は龍馬遭難で医者を送る。下「」引用。

「医者は木原泰雲といい、薩摩の藩医だった。秘密主義の薩摩では医者はもとより、領内から上京してきている。使用人なども一切、土地の者は使われなかった。その点は、大阪や江戸でも同じである。」

氷酒というのが出てくる……。でも、雪がふっているから、そのまま呑んでいるだけのようだけど……。

この小説では、岩倉が孝明帝毒殺したという説をとっているようだ……。

当時からも謎だった龍馬暗殺。下「」引用。

「坂本龍馬の暗殺は、当時から謎とされた。姉小路卿暗殺と双璧をなすものだ。したがって、諸説紛々としている。近時はさらに、それに輪がかけられた観があるが、推論と称するもの、異説をなすものが多い。龍馬暗殺の謎の新説を弄するのは、龍馬の名が通俗的に高くなりすぎたからである。」

佐々木只三郎……。下「」引用。

「「--完璧であった」と、佐々木只三郎は言った。「誰も、われらの仕業と気づいた者は居らぬ」
 龍馬誅戮以来、二日経っていた。只三郎は斬り込みのときもそうだったように、其の後の行動にも、日ごろと変わった様子はない。剣の自信と強固な信念が、軽率な振舞いをさせなかったのである。(野望の薩長同盟を斡旋した奸物を斬った!)」

少年天皇で官軍ではなかった? 下「」引用。

「天皇が天皇自身の叡知と責任で政治を行なう場合、その軍は官軍と呼ばれる。だが、践祚したばかりの少年天皇には、この複雑きわまる問題をさばく能力があるはずがない。幼帝という表現には異論があるとしても、この間において天皇自身の誰の掣肘(せいちゅう)をもうけない判断裁決に関わる勅旨がどこにあるか。
 もしも、天皇にその叡知があったならば、薩摩や岩倉らの暴挙を許すはずはないのだ。小御所会議の陰謀が行われた、ということは天皇御出御を記録の誤りでないとするならば、天皇の一言の意見もはさめない雰囲気であり、それは、天皇に岩倉らが掣肘を加えたゆえとの見方を肯定しなければならなくなる。」

武器なんかが活躍しだしたら、関係のない人たちも巻き込まれますね……。

大変な情況になるということも理解できない人たちも世の中にはいる、小説だけにしてもらいたいものですね……。








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上杉鷹山の危機突破法 生きる知恵と生きぬく戦略

2010年01月07日 | 読書日記など
『上杉鷹山の危機突破法 生きる知恵と生きぬく戦略』
   童門冬二・著/広済堂出版2001年

「上杉鷹山の戦略と発想」(1993年刊)の改題



勘違いの重臣たち……。下「」引用。

「一、粗末な食事を続けられ、絹もやめて、木綿など着ていらっしゃいますが、そんなことは児戯(じぎ)に類することで、政治の根本にはなんらかかわりがありません。そんな小さなことばかりやっていないで、もっと大きなことをなさらなければ、日本の他の大名に笑われます。忠臣として、われわれも恥ずかしい思いをいたします。」

古今東西、にたようなものですね……。

「米沢藩の“藁科グループ”」 下「」引用。

「細井平洲は浜町に「嚶鳴館(おうめいかん)という塾を開いていた。藁科松伯はその日、自分の感動を率直に継げて、即日入門した。-略-多くの藩士が教えを聞きに来た。-略-上杉藩では“菁莪社中(しゃちゅう)”とよんだ。いまなら“藁科グループ”ということだろう。」

名古屋の中西淡淵を師とした細井平洲。

外国に鷹山を紹介した内村鑑三……。下「」引用。

「“ヨーロッパに追いつけ、追いこせ”という凄まじいスピードで、富国強兵策をとってきた日本は、外国からみれば、エコノミックアニマルのかたまりであり、やがて軍事大国として世界の脅威になるだろうとみられていた。内村は、
「日本人は必ずしもそういう存在ではない。弱い者や苦しむ者に対しては、つねにやさしく、温かく、温もりをもって接してきた民族だ」
 ということを強調するために、わざわざ英文でこの本を書いた。-略-」

借財した原因は、あの吉良上野介。鷹山の先代の藩主は吉良家からの養子……。下「」引用。

「借財が莫大なものになった。上杉家の財政が傾いたのは、吉良上野介の経営指導もかなり影響しているという。」

JFKも鷹山も3つの壁に挑戦した。下「」引用。

「それは「物理的な壁」「制度的な壁」「心の壁」-略-いちばん壊しにくいのは「心の壁」である。」

江戸幕府の改革の失敗原因……。下「」引用。

「乱暴ないい方だが、江戸時代の幕府三大革命はすべて成功してない。部分的な成功はあっても、市民の支持という点では、どの改革も失敗している。
 それは改革の目的が、「民を富ませるのではなく、幕府(中央政府)だけが富むためだ」というように見抜かれたからだ。しかも、改革は期せずして重農賎商(せんしょう)主義をとったから、経済成長率はマイナスに落ち込み、市民生活は鬱陶(うっとう)しいものになる。それへ追いうちをかけて四公六民だった税率を逆に上げるから、「行革で幕府は身軽になるはずなのに、何で増税するのだ」と不満は爆発する。一揆が次々と起こった。」

倹約、倹約といいながら増税? 下「」引用。

「「倹約、倹約といわれなくても、為政者(いせいしゃ)や政府役人が率先倹約していれば、民は自然にそのことを知ってまねをする。そうならないのは、いまの倹約がみなうわべだけのみせかけだからだ。しかも、倹約を令しながら増税するとはなにごとか。国民が信用するはずがない。」

愛民の鷹山……。下「」引用。

「「民を指導する者は、必ず民の親と同じ立場に立たなければならない」
 という“愛民”の思想だ。鷹山はこれを掲げた。-略-」

異能を掘り起こせ。下「」引用。

「鷹山にすれば、
「いまは上杉家にとってノーマルな状態ではない。異常事態である。したがって、異常なときには、それぞれの人間が身にひそめている異能を掘り起こし、それを発揮してもらいたい」
 ということである。」







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上杉鷹山の経営学-危機を乗り切るリーダーの条件-

2010年01月07日 | 読書日記など
『上杉鷹山の経営学-危機を乗り切るリーダーの条件- PHP文庫』
   童門冬二・著/PHP研究所1990年

「経営革命の祖・上杉鷹山の研究」(1982年刊)の改題。



裏表紙に書かれてあります。下「」引用。

「江戸中期ね幕府への領地返上を考えるほどの財政危機に瀕していた米沢藩を、斬新な藩政改革と藩士の意識改革で見事に甦らせた上杉鷹山--希代の名藩主として誉れの高い鷹山とは、いったいどのような男だったのか? そして、その経営手腕とは?
故ジョン・F・ケネディをはじめ、多くの実力経営者やトップリーダーが、尊敬する人物として名を挙げる上杉鷹山の、組織と人間の管理術の要諦を探る。」

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「-略-「経営改革というのは、たんにバランスシートに生じた赤字ゼロにすることではない。改革を進めるには、人づくりが大切だ。人づくりを無視した改革は決して成功しない」といったことと、同時に、「客に対するサービス精神を何よりも経営の根幹に置くべきである」という企業精神が今日的だからだ。」

「愛の改革」 下「」引用。

「二宮金次郎や上杉鷹山は、自分の信ずるところに従って、共に「愛の改革」を行った人である。」

火だねを捜そう……。下「」引用。

「絶望的な職場は譬えてみれば冷えた灰だ。しかし、その灰の中をよく探して見れば、必ずまだ消えていない小さな火ダネ運動を起こせば必ずその職場は活性化する。そしてその組織は生き返る」

JFKは知っていたが、記者たちは知らなかった上杉鷹山。

藩収入の90%を占めていた人件費。

トラブルメーカーを登用した鷹山。下「」引用。

「「職場の問題児」
 を登用した。
「トラブルメーカーのほうが、イエスマンよりもよほどパワーを持っている」
 と判断したためであった。」

「生きた金」は逆に惜しみなく使っている鷹山。

「給与のベースダウンも実施」

吉良上野介に乗っ取られた上杉家。下「」引用。

「元禄十五年(一七○二)の十二月十五日未明に、吉良上野介は赤穂浪士によって討たれた。この時、米沢藩の中では、
「吉良上野介を恨んでいる連中が多かったので、この知らせを受けると、悲しむ人間はほとんどなく、むしろいい気味だと口に出して言う者さえいた」
 と言われるような反応を示した。。
 どうして、こんなことを言われたのか。五大藩主綱憲は吉良上野介の息子である。」

俗説では、吉良上野介の屋敷で茶をもらってから苦しみ死んだ。毒された四代目の藩主綱勝……。

食いものした吉良。下「」引用。

「吉良上野介は米沢藩を食いものにした。自分の贅沢な生活費のほとんどを息子に言い付けて、上杉家から支出させたからである。
 それでなくても江戸の藩邸は、奥方を中心として生活が贅沢になっていた。-略-
 特に吉良家から養子が入ることによって、すべてにわたって贅沢が崇じ、種々な建物が建てられたり、そういう贅沢を取りしきる役所が新しく設けられたり、またそういう役所に勤める役人が増員したりした。同時に諸行事がすべて派手におこなわれ、緒寺社への寄付までどんどん増えた。」

名前……。下「」引用。

「上杉鷹山というのは号であって、彼は幼名を松三郎、また直松といった。諱名(いみな)は治憲(はるのり)である。鷹山というのは、隠居して後、五十二歳のときに自らつけた号である。」

CPであっただろうという……。下「」引用。

「それを改革の目的のひとつに含めたのは、鷹山が、もともと弱い立場にある人々に優しい気持を持っていたからだが、実はもっと身近なところに理由があった。
 それは、鷹山が上杉家を継いでから結婚した娘の幸(よし)が、生まれてすぐの心身障害児であったからである。幸は今でいうCP(小児まひ)にかかったのかもしれない。-略-
 鷹山は、この幸と結婚することになっていた。そして、結婚は、鷹山が十七歳のときにおこなわれた。幸も十七歳である。」







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