磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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広島訪問「反骨の映画監督 マイケル・ムーア」

2010年01月12日 | 読書日記など
NHK BS1 2010年1月9日

広島訪問
「反骨の映画監督 マイケル・ムーア」


広島平和記念資料館を訪問したマイケル・ムーア監督。

館内の映画2本も1時間半かけて全部見たという。

広島には丸一日、資料館には4時間いた……。

残虐なことをおこなった国の市民だというムーア監督。

追悼の意を示し、事実を知りたいと思ったという。

--ムーア監督の父・フランクさんは海兵隊員として沖縄戦に参加していたという。



日本にたいする一番古い記憶は戦争だったという。

戦争が長引けば、日本に侵攻する予定だった。

もし、そうなれば、私は生れていなかったと、ずーと考えてきたという。

……何って悲しい想像でしょう。

もし、原爆が投下されていなかったら、この私はこの世に存在しなかったなんて……。

--それが、アメリカで教えられていることです。

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でも、今、私はこう考えています。

原爆が投下されるころ、すでにもう戦争は終わりかけていたではないかと……。

そもそも何十万人もの犠牲の上に生れる価値が、この私にあるでしょうか?

わたしは、そう思いません。

--ムーア監督にとって広島訪問は忘れられないものとなっただろう……。









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日本史探訪 第1集

2010年01月12日 | 読書日記など
『日本史探訪 第1集』
   海音寺潮五郎・著者代表/角川書店1971年、同年3版

裏表紙に書かれてあります。下「」引用。

「NHKテレビ「日本史探訪」の再現」



坂本龍馬のことだけが取り上げられているわけではありません。

『宝島』の作者と松陰。下「」引用。

「明治十二年正木は英国留学中のある日、『宝島』の作者ロバート・ルイス・スティブンスンに会って松陰のことを話した。のちにスティブンスンは、「吉田虎次郎」という1文を草し、それを次のように結んだ。
「今やわれわれのまわりに、奇妙な西洋風をした貪婪(どんらん)な研究者を見る時、彼らの祖国が、この吉田虎次郎に大きな恩恵を受けたことを忘れてはならない」。」

龍馬にとって明治維新は片手間仕事……。司馬遼太郎……。下「」引用。

「坂本竜馬にとつては、明治維新を革命としましたら、革命というものは片手間だったんだということ--他の革命家たちは、西郷隆盛でも桂小五郎でも、火の粉の中で、革命そのものを達成すべくやっているのに、竜馬にとっては、それは片手間な仕事だった、ということがわかった感じなんですね。それは長崎海援隊の視点で考えればわかります。」

亀山社中……。下「」引用。

「私も亀山社中っていうのに行ってみましたがね、ちっちゃな所ですね。いわゆる長崎の坂を登って、登って、登りつめたような所に小さな家があります。その家を借りたんですね。そこでいわゆる脱藩浪士たちを寝泊まりさせて、当時は白袴を着せた。だから亀山の白袴っていうあだ名がつきましてね。まあみんな元気のいい連中だから乱暴したりしていやがられましてな。乱暴者は亀山の白袴といわれたくらいだそうですよ。」

山内一豊の軍は進駐軍と表現してあった……。

中江兆民と竜馬。下「」引用。

「中江兆民も土佐郷士なんですが、この時、大人たちのうしろにおったんです。
 竜馬は煙管(きせる)をさかんにたたいておったが、そのうち煙草がなくなったんですな。竜馬はあの土地の言葉で「中江の兄さん、煙草を買うてきておうせ」と言った。中江兆民は非常に喜んで使いに行ったんですけれどもね、そのことは兆民の生涯の思い出になっていて、よくひとに話をしておったそうです。
 こんな点から考えても兆民というのは、いわゆる自由民権運動の思想家になった人ですけれど、自分を坂本竜馬の後継者のようなつもりでおったのかもしれない。これは兆民の文章に書いてあるわけではないから証拠もないけれど、気分としてそういうことがあったにちがいない。
 その兆民の玄関番をしていたのが幸徳秋水でしょ。だから幸徳秋水にまで至る系列が、幕末のいわゆる勤王の志士竜馬から出発するというのはたしかですね。竜馬には自由民権思想というものを受け入れられる体質があった。」

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財閥断った青年たち。下「」引用。

「黒潮を見おろして、今ふるさと桂浜に立つ竜馬の銅像は、土地の青年たちが、土佐出身の財閥岩崎家の申し出を断って、自分たちだけの手で建てたものだそうである。」

土佐の若者は素敵ですね!

勝海舟の父・小吉は勘定ができた……。下「」引用。

「勝部 やっぱり親父さんの小吉という人が、刀剣の売買とか夜店などにしょっちゅう出てましたからね。なんかそういう計算とか勘定とかに非常に敏感で、だから海舟という人は財政に詳しいですね。全部数で押さえていく。統計的っていうか、塾時代のお弟子に杉亨二という日本の統計学の開祖がおりますしね」

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現代日本紀行文学全集 補巻 3

2010年01月12日 | 読書日記など
『現代日本紀行文学全集 補巻 3』
   志賀直哉、他・監修/ほるぷ出版1976年

龍馬の検索していて発見した本です。
--司馬遼太郎が書いていました。



「竜馬と酒と黒潮と」司馬遼太郎・著。

土佐は僻地意識がないという……。下「」引用。

「土佐は僻地(へきち)である。しかし僻地であるという劣等感はいまもむかしも土佐人は奇跡的なほどにもっておらず、そのことが土佐気質の特徴の重要な一つであるとおもわれるのだが、これはその方言が日本語の固有なるものに近いという、お国自慢にすらかぞえる自信が大きく作用している。かれらの発音はあかるく朗々として、一声一声が不必要などに明快なことが特色である。兵隊をヘータイといわずヘイタイと言い、整理をセーリトいわずセイリという。」

今では、日本列島自体が、辺境の地という人もいますね。

日本一の酒量……。下「」引用。

「この稿の筆者が感嘆するところは、酒量および酒の事故日本一という統計的記録における土佐人の肝臓の強靱さよりも、それをひらきなおってお国自慢にして謳いのけてしまうというかれらの明色性なのである。」

「長崎で見つけた十字架の鍔」佐多稲子・著という文章もありました。







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坂本竜馬 嵐の中の日本人シリーズ 2

2010年01月12日 | 読書日記など
『坂本竜馬 嵐の中の日本人シリーズ 2』
   二反長半・著/岩田浩昌・絵/
     あかね書房1978年、1986年22刷

ほかの本とちがって、ジョン万次郎との交流がえがかれていました……。
小説で、創作も多く含まれているという……。



スーパーマン……。下「」引用。

「竜馬の考え、行動はじつにす早くて、維新のスーパーマンといってもよいほどです。勝海舟、西郷隆盛、桂小五郎、ジョン・万次郎などと交わり、大きな信頼を得て、新時代を築く中心人物となっていきました。」

万次郎との交流がえがかれている……。下「」引用。

「竜馬は、武士であり、万次郎は、漁民の出身だった。士農工商と、階級の差別がきまっている世の名で、竜馬と万次郎が、こんな会話をかわせるはずはなかった。
 しかし、そんなことをいってられないほど、土佐藩が、日本ぜんたいが、変わってきていたのだ。-略-」

通事に採用された万次郎……。下「」引用。

「竜馬が意気けんこうでいるところへ、中浜万次郎が、やってきた。土佐から江戸へ--、そしてまず第一に、竜馬をたずねてくれたのだ。-略-万次郎は、
「竜馬殿、あなたが、わたしを『通事(通訳)として、登用せよ。』と建白くださったそうですね。持つべきものは友ですね。」

万次郎と語り合い、流暢な英語に驚くアメリカ人。下「」引用。

「わたしは、日本人です。幕府の役人です。でも、アメリカに十年いた、捕鯨船の副船長までしたといいましたら、よろこびましたね。握手、握手、わたしは、手がいたくなるほどでしたよ。」

武市瑞山が、龍馬をねらう……。下「」引用。

「坂本龍馬にとってはまさに百八十度の転換である。土佐勤王党の武市瑞山は、にがにがしく思った。
「これでは、勤王党が分裂するぞ。竜馬は生かしておけん。」
 竜馬をねらわせさせた。しかし、社会情勢は、目まぐるしく時々刻々、変わっていくのだ。-略-」

お良とお龍のことが書かれてあった……。

「解説」二反長半(にたんおさなかば)・著。下「」引用。

「しかし、その筆法は、小説としての形式をとりましたので、いわゆる伝記というものではありません。私の想像も多く加わっています。-略-」










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人物日本の歴史 19 維新の群像

2010年01月12日 | 読書日記など
『人物日本の歴史 19 維新の群像』
   奈良本辰也、他・著/小学館1974年、1975年3刷

いろいろな人のことが書かれてあった……。



■目 次■
概説 奈良本辰也  13
勝海舟 勝部真長  33
坂本竜馬 三好徹  73
高杉晋作 奈良本辰也  111
近藤勇 早乙女貢  153
榎本武揚 南条範夫  193
徳川慶喜 綱淵謙錠  235


久坂玄瑞……。下「」引用。

「久坂玄瑞などは、幽閉されていた真木和泉を釈放させるために、朝廷の命令をもってするのである。志士や浪人の行動も勝手放題だった。尊攘のレッテルだけあれば、なんでもできたのである。白昼に商家を襲って、軍資金を強要し、承諾しなければこれを斬るといったたぐいの行動もあった。
 また、安政の大獄に働いた幕府役人はには、かたっぱしから天誅を加えた。そうして天誅を加えられた人々の首は、連日のように三条河原にさらされるのである。-略-」

岩倉具視。下「」引用。

「岩倉具視は、このとき三十八歳、和宮降嫁問題に賛成して動いたことが志士にたちにねらわれる原因だった。岩倉にして、すでにそうであるとすれば、その他の人々について語ることは不必要であろう。京の町は、宮廷の内も外も、ただ尊攘の一色なのである。」

剣術修業をした勝海舟。下「」引用。

「本当に修業したのは、剣術ばかりだ。全体、おれの家が剣術の家筋だから、おれのおやじも、骨折って修業させようと思って、当時剣術の指南をしていた島田虎之介という人についた。-略-」

「海舟が禅を学んだ黄檗宗の寺、東京向島」

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社長であった龍馬。下「」引用。

「薩摩藩の保護をうけるようになった坂本龍馬は、兵庫時代の仲間を集めて「社中」を創設した。いまの用語でいえば「会社」であり、彼はその「社長」であった。」

幕府の小栗はフランスと結んだ。下「」引用。

「小栗はフランスと結んで反幕派の撃滅を考えていた。
 このフランスと結ぶという考え方は、龍馬らの開明派にとっては、亡国の危険を含むものであった。列強の東洋各国に対する植民地化は、つねにその手を使っていたからだ。」

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偽造をしてた薩長。下「」引用。

「-略-龍馬は繰り返し、
「薩摩はすでに百万両を偽造し、長州はそれに習ったと聞いている。土佐がさらに百万両を偽造したとしても、合計三百万両。大政奉還のようなかつてない大事業のあとで、三百万両くらいの偽造を処理できないようでは、心細い話じゃないか」と言って呵々(かか)大笑いした。さすがの後藤も、二の句がつげなかったという。」

松陰の名を使った長州藩。下「」引用。

「この場合、松陰の推薦する人間を持ち手居ることが最良の手段だった。松陰の名によって、彼らは用意に他藩の士のなかにはいっていくことができる。そこで十分な情報をつかむであろう。しかも彼らは軽輩だ。彼らの行動に対して、藩の当局はなんらの責任をとる必要がないのである。周布政之助(すふまさのすけ)の政治だった。
 このような内外の政治が渦巻いている江戸に晋作のような男を送り出すことは、高杉家としてはずいぶん心配なことであったろう。松陰は、晋作が久坂らといっしょに江戸にあることを期待していたが、晋作の江戸行きがなかなか実現しない理由は、そこにあったのだ。」







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