磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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もくじ 司馬遼太郎と龍馬

2010年01月11日 | TOP【もくじ】
もくじ 司馬遼太郎と龍馬


講座・コミュニケーション 4 大衆文化の創造

[龍馬の規範]

文藝春秋にみる坂本龍馬と幕末維新

[お田鶴さまは架空の人物]

龍馬と晋作

[龍馬は黒船を直接見なかった]

坂本龍馬伝-幕末を駆け抜けた英傑の生涯

[刀は誰から渡されたか?]

坂本龍馬の後裔たち

【司馬遼太郎・紀行文・講演・テレビ番組関連本など】

現代日本紀行文学全集 補巻 3

日本史探訪 第1集

司馬遼太郎全講演 第2巻

司馬遼太郎全講演 第3巻

■リンク記事□

「龍馬伝」と「竜馬がゆく」の違い




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勝海舟 嵐の中の日本人シリーズ1

2010年01月11日 | 読書日記など
『勝海舟 嵐の中の日本人シリーズ1』
   一色次郎・著/柳柊二・絵/あかね書房1978年

この本は小説ですね……。
弱い者の味方……「まえがき」より。下「」引用。

「勝海舟ほど痛快な生き方をした人物は、歴史の上に、もう一人、もとめることは、あるいは無理かもしれません。
 父は幕府の家来で、家柄は悪くないのですが、身分が低いので経済的に恵まれない。-略-
 勝海舟はいつも一人でたたかい、そして、いつも弱いものの味方でした。」



養子にされたことを、しばらく気づかなかった父・小吉。下「」引用。

「小吉が養子になった勝家は旗本であった。旗本というのは、江戸に住んでいて、将軍を直接守護する役目の家来たちのことである。-略-日本じゅうみんな幕府の家来に違いないが、禄高によって二通りに分けられていた。一万石以上が大名である。その下が旗本であった。-略-
 小吉が養子になった勝家は、旗本も旗本でも、御家人のほうだった。年収四十一石だから、お目見えには遠くおよばない。-略-」

盲人の金貸業は、幕府保護していたという。

ほどこしをしていた男谷検校(小吉の祖父)。下「」引用。

「この越後の盲人だけは貧しい人たちにほどこしをしたりするので、評判がよかった。」

内職をしていた勝家。下「」引用。

「麟太郎が物心ついてから、家の中にわからないことが多かった。きれいな風車がたくさんある。しかし、はいっていって手を差しのべると、
「麟太郎、いけません」
 母は、ぴしっと手を叩いた。-略-父の小吉も手伝った。-略-」

七歳の時に、江戸城へ。

大奥・阿茶の局の紹介であったという……。

麟太郎少年は、川に餅を捨てた。下「」引用。

「「もらいにいくだけでも恥ずかしいのに、落ちたものまで拾って食べなくちゃいけないのか」
 麟太郎は両手に餅をつかんで立ち上がったる
「そんな正月ならいらねえや。えいっ!」
 暗い川面へ遠く投げてしまった。暗やみの中からわびしい水音がした。事情を聞いたが、小吉は麟太郎をしからなかった。
「そんもんさ。もともと、無かったと思えばいいじゃないか」
 小吉もさすがに武士であった。」

島田虎之介を師とした麟太郎。

日本最初の兵学校をつくるために長崎へ。そのとき安政の大地震が江戸でおきた……。

「剣の達人と言われたが、海舟は生涯に一度も刀を抜いたことがなかった。」

薩長連合を知っていた海舟。下「」引用。

「幕府の中でただひとり、勝海舟だけが、薩摩と長州の間にこっそりと軍事同盟ができていることを知っていたのだ。自分の門弟坂本龍馬の働きでできた薩長連合である。海舟が知らないはずがなかった。」

これが大きな視点ですね……。勝かたる……。下「」引用。

「-略-両方で外国の力を借りるようになったら、その先はどうなると思いますか。どっちが勝っても負けても、日本は外国の支配か下に置かれてしまいます。支那を見てください。インドを見てください。日本があんなふうになってもよろしいのですか。-略-」








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坂本竜馬の手紙

2010年01月11日 | 読書日記など
『坂本竜馬の手紙』
   嶋岡晨・著/名著刊行会1982年

表題だけでなく、岩崎弥太郎などについても書かれてある……。
『坂本竜馬の手紙』というよりも、龍馬への手紙という部分が大きいのではないか?



『木戸孝允覚書』などより“痴情”の意味を考える著者……。下「」引用。

「わたしらが命がけで奔走しているのは、単に薩摩藩・長州藩のためではない。日本全体のためである。あなた方は、つまらぬ私情にこだわって、いったい何をしているのか、と竜馬は激昂し、肺腑をつくことばを叩きつけた。
「“痴情”という表現が、じつに効いていると思うんです」と、わたしは竜馬に言った。「両藩の対立感情をうまくとらえていますね。そんな、ねちねちと夫婦の痴話喧嘩みたいことを、いつまでやってる場合ではないぞ--そういう意味だったのでしょう」

今もあきれたものですね……。一部のパトロンのため、一部の人間のため……。国民の生活が第一など、とても思えません……。

もし、龍馬が生きていたら……、舌打ち? 下「」引用。

「「はあ……。しかし、結局、竜馬さんの死後、維新戦争になりましたね。あれは……」
「馬鹿なことをしたものよに」竜馬は舌打ちした。
「これで、もとの木阿弥よ。『天下の公論』は踏みにじられ、日本は官僚国家、軍国主義への道をつき進む。何が近代化じゃ、人殺しどもが」-略-」

高杉も温泉地へ。下「」引用。

「女づれで温泉地などに旅行した志士は、竜馬だけではない。「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という粋な唄を作った高杉晋作は、藩からもらった洋行費一千両で、なじみの芸者おうのを身請けし、伊予は島後の温泉場に遊んでいる(慶応元年四月)。だが、おうのは公認の女房ではない。お竜は、竜馬が手紙のなかでもはっきり「妻」と呼ぶ存在である。-略-」

十歳年上の河田小龍。下「」引用。

「ちなみに、小竜は竜馬より十歳ほど年長で、安政元年(一八五四)の大地震後の仮宅が坂本家から近かった。その小竜から吹きこまれた壮大なヴィジョンを、竜馬は彼独特のホラ話にしたてて武内らに日ごろ喋っていたと想像される。-略-」

お龍の評……。下「」引用。

「なかなかの美人だが、「善悪ともになし兼ねまじき女」と評されるほどの、危険な情熱的気質を内にたくわえていた。-略-」

「禁門の変」で焼け出されたお龍……。下「」引用。

「「禁門の変」で洛中に火災がつづき、お竜たちが住みかを失うと、竜馬は、お竜を寺田屋に、また母親を尼寺に預け、君江や弟たちは海舟のもとで面倒を見てもらえるように、とりはからった。」

「変貌する竜馬像」 下「」引用。

「デモクラシー史観と皇国史観による〈像〉が…」

しかし、江戸時代人の坂本龍馬に皇国史観などあるはずがないし、デモクラシーは当時も知識人は知っていた……。

演劇……。下「」引用。

「ところで、ここに一つの証言がある。国立劇場公演パンフレットに寄せた成沢昌茂の回想文で、それによると成沢は昭和十四年、中学生のころ新築地劇団の公演を見て、「戦争意識など(演出に)全くなかったし、『弱者の敗北』と言うモチーフが貫かれていた」と感じた。ところが、その後彼自身ドサ廻りの劇団員となり、地方都市で何回か「海援隊」を上演するうち、いつのまにか「戦争に勝ち抜くためには、身分差別もなく滅私奉公、大きな犠牲の上に立ってこそ、勝利がある」というふうにテーマが曲げられ、戦意昂揚激として演出されていた、というのだ。」

彼らは捏造するか、一点に焦点をあてて、全部がそれであるかのようにいうペテン師の手法をつかうか、罵倒するしかないんでしょうね……。

都合の悪いことは言わない書かない、闇教育、権威主義……。

そうしないと、こんなことはやっていけないでしょうね……。

古今東西……、ボクがやったとしても、そうなるでしょうね……。

--龍馬なら、こういうかもしれませんね。

「方向性がまちがっているぜよ!」










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私説 坂本龍馬

2010年01月11日 | 読書日記など
『私説 坂本龍馬』
   山本有二・著/金高堂1989年

「序文」を、当時の内閣総理大臣海部俊樹が書いている。
著者も政治家のようだ……。私説というのがピッタリきますね。



吉田茂と土佐自由党……。下「」引用。

竹内綱は一八三九年の生まれで竜馬より四歳年下である。後に明治二十三年、帝国議会において衆議院議員となった土佐自由党の志士である。
 竹内綱は、自由民権運動のため、しばしば投獄されている。茂は五男でもあるし、不安定な家におくよりもということで、父竹内綱の親友吉田建三の養子に三歳のときに行くのである。
 このような事情の影響が、吉田茂の少年期も竜馬同様あまりぱっとしないのである。「小学校のとき、いつもいじめる子供と、いつも助けてくれる子供がいた」と吉田茂自身述懐している。-略-」

城山三郎が高知県人を評しているという……。下「」引用。

「三方を山脈によって遮られ、わずかに南の荒海に展けた土地。それは日本の辺境というより、一つの別天地の趣きがある。黒潮と太陽をわかち合い、人々は血で濃く結ばれている。その土地を後に、海路はるかに出て行く者には、他の土地出身者では味わえぬ別の感慨があるに違いない。
 はるばる出かける彼等の眼にあるのは、阪神、そして東京のみ。雄藩土佐の他は、群小諸藩でしかなく、在るのは天下国家のみ」と。」

一流大学に入学できない坂本龍馬……。下「」引用。

「思うに、受験戦争だの塾だのとペーパーテストの成績に狂奔している昨今、非常に無駄を親も子供もしているのである。一時のテストがよくても、竜馬にはなれない。竜馬が現代に生きていたら一流大学など絶対にいけなかったであろう。」

強い味方と暗殺者……。下「」引用。

「暗殺されるような人間は、かなり強い敵を作って行ったはずである。しかし、それなるが故に、強い味方も多勢できるのである。」






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坂本龍馬のすべて

2010年01月11日 | 読書日記など
『坂本龍馬のすべて』
   平尾道雄・編/新人物往来社1979年

凡庸の武芸者とは思えない、文章や文字……。
--それは、そうでしょうね……。



免許や修行について。下「」引用。

「龍馬は北辰一刀流のほかに小栗流和術を修行している。その年譜を調べると師家日根野弁治から「小栗流和兵法事目録」を伝授されたのが嘉永六年(一八五三)三月で、翌安政元年(一八五四)閏七月には「同流兵法十二カ条・同二十五カ条」を伝授、さらに文久元年(一八六一)十月には「同流兵法三カ条」の免許を受けた。だとすると武芸に関するかぎり龍馬は北辰一刀流剣術より小栗流和術に年期をかけていたことになる。文久二年(一八六二)正月、長州荻の修行館で少年剣士と立ちあって三本とも打ちこまれた。知人が不信に思うと龍馬は弁解もせず「拙者が弱いから負けたのだ」とあっさり答えたそうだ。年暦は不詳だが、江戸で話術家信田歌之助(水戸藩士)を訪問、指南を求めた。三度まで首をしめられて失神したが、蘇生すると「先生もう一度」と稽古を求めるので歌之助も「もうよいではないか」と閉口したという。それもこれも伝承だが、龍馬の側面を語るものではないか。
 かつて佐久間象山の洋式砲術門下生となつているし、勝海舟のもとで海軍術を修行したことは余りにも有名だ。それが龍馬の人間形成にどう役立ったか。明治維新という歴史的な舞台に在野志士として不滅の活躍をした坂本龍馬を一武芸者、または一兵学者のわくにはめて論じることは至難なことだ。もっと大きな視点から、その不可思議な足跡を検討なければなるまい。」

読書家ではないが、理論の実践家……。下「」引用。

「龍馬はたしかに読書家ではなかったと思われる。だからといって無学者だったといえるだろうか。慶応三年(一八六七)の春か夏、龍馬の書いた手紙のなかに「当時天下の人物と云へば、徳川家にては大久保一翁、勝安房守、越前にては光岡八郎(後の由利公正)、長谷部甚右衛門、肥後にては横井平四郎、薩摩にては小松帯刀、西郷隆盛、長州にては桂小五郎、高杉晋作」とある。いずれも直接接見した当代の生ける傑物。龍馬はそれらの傑物の意見を聴き、その風格に触れて影響を強く受けて自己の指針としたのである。生きた学問をしたわけで、そのすぐれた理論の実践を試みた。龍馬の本領はそれではなかったのか。-略-」

上士下士の対立。下「」引用。

「龍馬の伝記の中で、もっとも早い『汗血千里駒』(明治十六年土陽新聞掲載、東京春陽堂発行)は坂崎紫瀾の代表作であるが、上士と下士の対立から、下士の上士への抵抗、さらに反封建的身分制を基調とした平等な人権問題にうらうちされた作品といえる。この書の冒頭は「春の夜の闇はあやなし梅の花--雛の白酒・下緒の韓血(からくれない)--」と題して井口刃傷事件で始まっている。-略-」

「「龍馬暗殺事件」と今井信郎」今井幸彦・著。
--「谷干城らの反論」
中岡の瀕死の口から直接聴いた話と、「今井信郎氏実歴談」の問題点。下「」引用。

「一、夕顔という船は「いろは丸」の間違い。
二、今井は自分の外、渡辺吉太郎、桂隼之助といま一人(生存中のため名は明せず)計四人といっているが、中岡は二人といっていた。
三、信州松代藩という名札を出したというが、中岡は十津川だといっていた。
四、坂本と中岡が机をはさんでいたというが、机はなかった。
五、六畳の間に書生が三人いたというが、そのようなものはいなかった。
六、坂本と言葉を交わしてから斬ったというが、そのようなことで人は斬れぬ。二人で手札を見ようとしている所へ、コナクソと叫んで斬り込み、まず中岡にかかってきた。」

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日露戦争のころ、皇后の夢まくらに坂本龍馬が立ったことについて書かれてあった。
--新聞記事を読んでいた皇后……。下「」引用。

「この“奇夢”には悲しい物語がまとわりついている。龍馬暗殺後、妻のお龍は高知、京都、東京を転転とし、料理屋の仲居までしたらしいが、最期には落ちるところまで落ちぶれて、横須賀で、子供相手に飴を売る一文あきないのドッコイ飴屋、行商人の女房となった。作家の基司山治によれば、その頃のお龍は大酒を飲み、酔うと夫婦喧嘩の末に「バカにするない、私は坂本龍馬の……」とタンカを切ったという。
 このことを同じ長屋に住む文筆の立った鈴木清次郎が知り、おりょうから聞き書きをして、一篇の物語として横須賀のある新聞に投稿、それが明治三十七年の始めごろ連載された。
 鈴木は、自分の書いた新聞記事をまとめて、葉山御用邸に避寒のために滞在していた皇后陛下に献上する。
 基司は坂本龍馬が皇后の夢枕に立った、という話を唐突すぎるとして長い間、おかしいと思っていたが、この鈴木清次郎の子供から手紙を貰い、当時の事情、情報伝達のルートを知り、昭憲皇太后が龍馬の夢をみる理由が突然の奇跡ではなく、鈴木清次郎の書いた記事を読んだためと推測している。」







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