『坂本龍馬のすべて』
平尾道雄・編/新人物往来社1979年
凡庸の武芸者とは思えない、文章や文字……。
--それは、そうでしょうね……。
免許や修行について。下「」引用。
「龍馬は北辰一刀流のほかに小栗流和術を修行している。その年譜を調べると師家日根野弁治から「小栗流和兵法事目録」を伝授されたのが嘉永六年(一八五三)三月で、翌安政元年(一八五四)閏七月には「同流兵法十二カ条・同二十五カ条」を伝授、さらに文久元年(一八六一)十月には「同流兵法三カ条」の免許を受けた。だとすると武芸に関するかぎり龍馬は北辰一刀流剣術より小栗流和術に年期をかけていたことになる。文久二年(一八六二)正月、長州荻の修行館で少年剣士と立ちあって三本とも打ちこまれた。知人が不信に思うと龍馬は弁解もせず「拙者が弱いから負けたのだ」とあっさり答えたそうだ。年暦は不詳だが、江戸で話術家信田歌之助(水戸藩士)を訪問、指南を求めた。三度まで首をしめられて失神したが、蘇生すると「先生もう一度」と稽古を求めるので歌之助も「もうよいではないか」と閉口したという。それもこれも伝承だが、龍馬の側面を語るものではないか。
かつて佐久間象山の洋式砲術門下生となつているし、勝海舟のもとで海軍術を修行したことは余りにも有名だ。それが龍馬の人間形成にどう役立ったか。明治維新という歴史的な舞台に在野志士として不滅の活躍をした坂本龍馬を一武芸者、または一兵学者のわくにはめて論じることは至難なことだ。もっと大きな視点から、その不可思議な足跡を検討なければなるまい。」
読書家ではないが、理論の実践家……。下「」引用。
「龍馬はたしかに読書家ではなかったと思われる。だからといって無学者だったといえるだろうか。慶応三年(一八六七)の春か夏、龍馬の書いた手紙のなかに「当時天下の人物と云へば、徳川家にては大久保一翁、勝安房守、越前にては光岡八郎(後の由利公正)、長谷部甚右衛門、肥後にては横井平四郎、薩摩にては小松帯刀、西郷隆盛、長州にては桂小五郎、高杉晋作」とある。いずれも直接接見した当代の生ける傑物。龍馬はそれらの傑物の意見を聴き、その風格に触れて影響を強く受けて自己の指針としたのである。生きた学問をしたわけで、そのすぐれた理論の実践を試みた。龍馬の本領はそれではなかったのか。-略-」
上士下士の対立。下「」引用。
「龍馬の伝記の中で、もっとも早い『汗血千里駒』(明治十六年土陽新聞掲載、東京春陽堂発行)は坂崎紫瀾の代表作であるが、上士と下士の対立から、下士の上士への抵抗、さらに反封建的身分制を基調とした平等な人権問題にうらうちされた作品といえる。この書の冒頭は「春の夜の闇はあやなし梅の花--雛の白酒・下緒の韓血(からくれない)--」と題して井口刃傷事件で始まっている。-略-」
「「龍馬暗殺事件」と今井信郎」今井幸彦・著。
--「谷干城らの反論」
中岡の瀕死の口から直接聴いた話と、「今井信郎氏実歴談」の問題点。下「」引用。
「一、夕顔という船は「いろは丸」の間違い。
二、今井は自分の外、渡辺吉太郎、桂隼之助といま一人(生存中のため名は明せず)計四人といっているが、中岡は二人といっていた。
三、信州松代藩という名札を出したというが、中岡は十津川だといっていた。
四、坂本と中岡が机をはさんでいたというが、机はなかった。
五、六畳の間に書生が三人いたというが、そのようなものはいなかった。
六、坂本と言葉を交わしてから斬ったというが、そのようなことで人は斬れぬ。二人で手札を見ようとしている所へ、コナクソと叫んで斬り込み、まず中岡にかかってきた。」
もくじ
日露戦争のころ、皇后の夢まくらに坂本龍馬が立ったことについて書かれてあった。
--新聞記事を読んでいた皇后……。下「」引用。
「この“奇夢”には悲しい物語がまとわりついている。龍馬暗殺後、妻のお龍は高知、京都、東京を転転とし、料理屋の仲居までしたらしいが、最期には落ちるところまで落ちぶれて、横須賀で、子供相手に飴を売る一文あきないのドッコイ飴屋、行商人の女房となった。作家の基司山治によれば、その頃のお龍は大酒を飲み、酔うと夫婦喧嘩の末に「バカにするない、私は坂本龍馬の……」とタンカを切ったという。
このことを同じ長屋に住む文筆の立った鈴木清次郎が知り、おりょうから聞き書きをして、一篇の物語として横須賀のある新聞に投稿、それが明治三十七年の始めごろ連載された。
鈴木は、自分の書いた新聞記事をまとめて、葉山御用邸に避寒のために滞在していた皇后陛下に献上する。
基司は坂本龍馬が皇后の夢枕に立った、という話を唐突すぎるとして長い間、おかしいと思っていたが、この鈴木清次郎の子供から手紙を貰い、当時の事情、情報伝達のルートを知り、昭憲皇太后が龍馬の夢をみる理由が突然の奇跡ではなく、鈴木清次郎の書いた記事を読んだためと推測している。」
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