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「転がる石は苔生さず」いつまでも、いつまでも転がり続け・・・
お池にハマって、さぁ大変!  by belage

MINIチャリ散歩:武蔵国分寺跡①

2012年08月05日 08時19分06秒 | MINIチャリ散歩

武蔵野の外れ、国分寺の一角にこんな木々が育つ場所が。 

 

これは何の木でしょうか。ところどころ黄色い地肌が見えます。まるでキリンさんの
ような。

そんな木々に囲まれて、草の生えた広場が。ここは国分寺の郊外。その昔聖武天皇の
詔で全国諸国に国分寺・国分尼寺が立てられましたが、ここは武蔵国の国分寺は
金堂の跡であります。

国分寺の現存するもので有名なのは奈良の法隆寺、東大寺でありますが、それに匹敵
する伽藍がここにありました。

今ではこの「金堂址」と刻まれた石碑と数本の礎石でその名残を留めるだけ。十数年前より
発掘調査がこの一帯で続けられています。
炎天下の道中を走って、この広場に暫したたずんで、遥か天平の時代に思いを馳せて。

武蔵国は古代の昔、その国域は埼玉、神奈川と千葉の一部を含む大変大きな領域で
ありました。その政治の中心は現在の京王線府中駅の近く、大国魂神社の辺りに置かれて
いました。時は下って、鎌倉幕府の成立の後は行政の中心は鎌倉に移りましたが、経済の
中心は徳川家康が国替えをして江戸城を開くまで、この府中にありました。

家康軍が2万の軍勢で関東に入った最初の地が府中。当時の江戸城は大田道灌が築いて
から随分と荒廃していて、当時城下の人口は百戸程度しかなかったという、城というより館に
近いものであったそうな。それよりなにより、問題は2万の軍勢に必要な水が当時の入り江の
突端に位置した江戸城では全く確保が出来ず、軍勢の殆どは神田川の水利事業が完了
するまでこの府中に留め置かれておりました。

今では東京の郊外の住宅地となったこの一帯がかつては関東の中心であったとは、現代の
我々には全く想像も出来ません。それくらい家康の行った江戸城都市計画というものは
日本史に燦然と残る最初にして最後の大規模プロジェクトでありました。僅か百戸程度の人口が
江戸時代の最盛期には百万を超えていたといいますから、そのスケールはとてつもないもの
でありました。

さて、金堂址から数分歩きますと、やはり同様に礎石がぽつんぽつんと残されて。

こちらは国分寺の建物群のひとつの七重の塔の跡地。

敷地の傍らには当時の七重の塔の想像図が。

この一帯は既に発掘が始まって数十年が経過していますが、まだまだその作業は始まった
ばかりの状態。あの奈良ですらまだ発掘作業が限りなくあるようで、致し方ないのですが、
もう少し分かり易い展示が出来るといいなぁとここに来ていつも思うボクであります。

 

 

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