こちらは原三渓が1902年(明治35年)に建てた自宅の門。「鶴翔閣」と呼ばれています。
彼の居宅はこの三渓園の基となった建物です。現在は貸出施設となっているため、見学
は出来ませんでした。
前号でご紹介した通り原三渓は明治の豪商で明治期に生糸の貿易で財を成した人物。
出自は岐阜県。本名は原富太郎。1885年東京専門学校(現早稲田大学)に入学し
経済・政治を学び、卒業後跡見女学校の助教授となり、教え子の原善三郎の孫娘と
結婚して原姓となる。商才があったんでしょうね、個人商店であった原家を合名会社に
改組して、生糸貿易を始めて財をなしました。彼の交友の中には渋沢栄一始め、三井物産
の大番頭の益田孝、山縣有朋、團琢磨等綺羅星の如き人たちが。
原三渓は美術に造詣が深く、所謂パトロンとしてこの鶴翔閣に当時の画壇の俊才、
横山大観、下村観山等その後の巨匠を招き入れ、この地で援助をしていました。
彼は若くして茶人として造詣が深かったこともありますが、一方商才にも秀でて生糸貿易
だけでなく、富岡製糸工場を所有し、横浜興信銀行(後の横浜銀行)の頭取を務めたり
と多才でありました。
特筆すべきはあの関東大震災の後、彼は横浜復興に力を注ぎ、横浜市復興会の会長を
務め私財を投げうってこれを成したと言います。そのため稼業が左前となり、さしもの大財閥
も現在では知る人もなく、この横浜の彼の居宅であった「三渓園」に彼の名を留めるだけと
なっています。
あの頓珍菅と言われた某国の総理には福島原発の視察大旅行に行かれるより、当地に
来られ、明治の英雄の覚悟を知られた方が良かったと思うのですが。千葉の「どぜう」こと、
タヌキのとうさんにも是非早稲田の大先輩、原三渓のこの生涯は見習って欲しいものです。
「臨春閣」。豊臣秀吉の聚楽第の遺構とも伝えられた時代があったようです。
後の調査で紀州徳川の別荘「巌出御殿」の可能性が強いようです。
数寄屋造りの素晴らしい建物ですね。内部には複製ですが狩野派の画が。本物は
この敷地の記念館で見られます。
横浜の山裾に。雨にけぶる姿がなんともこの建物に相応しいような。
門には天女の姿のレリーフが。
尚、紀州家と言えば徳川吉宗。彼も幼年期にはこの建物で育ったようです。
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