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CLASSIC ROCKを聴こう! PLUS

1960年から1980年代のロックを紹介していきます。またPLUSと言うことで、ロック以外の話題も!

ランダムにレコード紹介、その9 全く聴いたことのないシングル盤

2018年11月08日 | JAPANESE
助手:博士〜、たっ たっ たっ たっ 大変です!

博士:一体どうしたと言うのじゃ? 久々の登場に、かなり気合が入っているじゃないか。

助手:それがですね、今日古〜いシングル盤の収納ボックス整理していたら、こんなの見つけました。

博士:オォ〜、これは中村晃子が年に出したシングル盤、“なげきの真珠”ではないか! 少し前にオークションで買った洋楽シングル盤セットに間違って紛れ込んでいたのかのう〜


オォ〜、キレイなお方じゃ。

助手:レコードなしのEPのペラ・ジャケで、しかも当時これ買った人は多分彼女の大ファンでピンナップとして壁にでも張っていたと思われる画鋲の突き刺した跡がジャケの四隅に見受けられる中々気合いの入ったものですね〜。

でっ、これどうします? 

歌謡曲なので、当研究所にはちょっと場違いな気がしないでもないので、廃棄処分にしましょうか?

博士:バッカモーン! 中村晃子といえば1967年に“虹色の湖”を大ヒットさせ、翌年1978年に出たシングル、“砂の十字架”も連続ヒットさせたのじゃ!
この“なげきの真珠”は同じ作詞作曲家のチームによる第3シングルにあたる。

助手:なるほど。単なる歌謡曲じゃなく、バックの演奏にエレキのビート・バンドを従えた、女性版一人GSってやつですね。

博士:GS(グループ・サウンズもしくはグループ・サウンド)って言葉は、ロックンロールに変わる新しい名称として、60年代の中頃登場した和製エレキ・ビート・バンドに対する総称じゃよ。

だから、彼女は女性版一人GSのパイオニアの一人と言ってもいい存在じゃよ。

助手:わかりました。取り敢えずこのペラ・ジャケは保管しておきましょう。

ところで、博士はこの歌聴いたことあるのですか?

博士:不覚にも聴いたことはない。メロディーを覚えているのは“虹色の湖”と “砂の十字架”だけじゃのう〜

Wikiによると1971年にボーリングのスポ根連続ドラマ、美しきチャレンジャーの主題歌も歌っていたとなっておるが、ドラマの主人公の新藤恵美に心が奪われてしまったのでこれまた全く覚えておらん。

ちなみに嘆きといえば、月亭可朝の“嘆きのボイン”はよく覚えておるのじゃが….

助手:それじゃ“なげきの真珠”じゃなくて全く覚えのなかった “なげきのシングル”ってことですかね?


恋に死んでしまった 真珠は、そっとひとりだけ(シングル)に なりたい〜♪




ランダムにレコード紹介、その6 ゴダイゴ

2018年11月05日 | JAPANESE
日本のロック・バンド、ゴダイゴの1980年のアルバム、Kathmandu。



なんとブルー・カラーのレコード盤が付いて来た。

70年代後期、ガンダーラ、モンキー・マジック、ビューティフル・ネームや銀河鉄道999などでヒットを連発するが、この頃になると何と無くちょっとマンネリ化したのか人気も下降していく。

シングル・カットされ風邪薬のコマーシャルに使われたComing Together In KathmanduやNamasteなんかは 今でも覚えているが、他の収録曲についてはそれぞれ個々の出来は悪いとは思わないが少しばかりインパクトに欠けていたように思う。

カトマンドゥの皆様、こんにちわ! 日本からやって来ました。

このバンドのポリシーとして、アルバムは全編英語の歌詞、シングルは日本語と英語のチャンポンとこだわりがある。

英語のタイトルばっかり。

しかし一般的な日本人のリスナーにとっては全編英語の歌詞で歌われると一発で虜になるようなサビのパートでもない限り、中々取っ掛かりを見いだすことが出来ないんじゃないかと….

もしアルバムにも半分ぐらいに日本語の歌詞をつけて歌われたなら、曲に対する共感がもっと得られたのではないか….

と少しばかりエラソーに言ってみる。

ところで、近所に2軒のインディアン・レストランがある。どちらもそれぞれネパール人のオッチャンが経営しているようだ。

わざわざカトマンドゥに出向かなくともネパールの人結構日本に住んでるみたい。

Coming Together In Kathmanduが出た1980年からすでに38年経ち、今やComing Together In Japanと様変わり。

カトマンドゥの皆様、ナマステ〜! ようこそ日本へ。

ランダムにレコード紹介、その3 元気ですか〜!

2018年11月01日 | JAPANESE
元気ですか〜! と問われて 元気です〜!って答える。

と言ってもアントニオ猪木との会話ではない。

還暦間近かそれ以上の年齢の方で、60年第末期から70年代当初のフォークソングをかじったものなら理解できるこの言葉。

そう、日本のフォークの帝王、吉田拓郎が1972年に出したアルバム、“元気です。”


それまでフォークにさほど関心がなかった人たちまでも、レコードを買う買わないは別として、そのレコードの存在を知らしめるほどよく売れたアルバムだった。

私は当時ロック専門に聴いていたので、 和物フォークにはさほど興味も抱かずまた眼中になかった。

時は流れて2018年、最近ふらっと立ち寄ったとある中古レコード・ショップの店先のジャンク箱にあまり元気がないようにひっそり埋もれていたこのレコードを発見。

発作的に購入に至った。お値段、消費税込みで108円也!

ダメージのないしっかりしたダブル・ジャケットになんと宣伝帯までついてくる超お買得盤。

とは言え、ビートルズなど特定のレコード以外の宣伝帯はさほど値打ちはなく、無いよりはマシというレベルの存在ではあるが….

このアルバムには、 春だったね、旅の宿とか祭りの後などなど、吉田拓郎の代表曲が収録されている。

その中で、お気に入りはやっぱり“たどり着いたらいつも雨降り”かな。

このアルバムでは、カントリー調の少しテンポを落としたアレンジがなされているが、個人的には深夜ラジオなんかで聴いた鈴木ヒロミツのロックな歌唱が光るモップスのカバー・バージョンがなかなか良かったとはるかかなたの遠〜い記憶を思い起こす。

当時学校なんかで一緒だった皆さん〜!、洋楽ロック聴いてる奴なんてクラスに全くいなくてちょっとがっかりしたけど、いまでも元気ですか〜?

まあ老化現象は止めようがないけれど 、私は不毛なブログをシコシコ続けながらもなんとか“元気です。”

陽水さん、もう歯医者さんにはならないの?

2018年07月23日 | JAPANESE
学生時代には将来どのように生活し食っていくかなんてあまり考えてなく、1970年代末頃の大学時代は行き先も定まらずフラフラしていた。

その当時は4年生になると10月から会社訪問し、年末までに内定を貰う様なスケジュールだった記憶する。

もちろん真面目な人は、4月から情報を収集し8月の夏休みぐらいまでに大体のめどが付いていて、会社訪問と同時に正式内定をもらっていたような。

私のようなグウタラ人間は、どんな職業につくかと言う具体的なアイデアさえなく、会社訪問で出たとこ勝負って思っていた 。

しかも夏休みはバイトで貯めたお金で英語も喋れないのに2ヶ月弱のアメリカ海外英語研修のプログラムに参加。

帰国し9月に学校に戻ると、周りは全員がリクルート・スーツ着用。

こちらはアメリカかぶれの兄ちゃんよろしく、半袖Tシャツ、ジーンズに長髪と言う全く一人場違いな出で立ちで焦った。

その後、思いつく限り色々な会社に飛び込み訪問をかけたものの、軒並み採用不可との通知を受けることになり凹んでいた年末のある日、とある会社の求人広告情報が就職課の掲示板でふと目にとまり、結局何かのご縁なのかその会社でお世話になることとなった。

その後色々あって、不意に海外で働くチャンスがありそれを気安く引き受けたものの、まさか人生の約半分の年月を海外で働くことになるとは…

本日聴いたレコードは、お馴染み井上陽水の1972年のファースト・アルバム、断絶。


個人的には曲もよく、歌も上手く、ファースト・アルバムで陽水というアーティストが既に完成されているのには驚いた。

Side-A2曲目、タイトル曲でもある“断絶”では、これほど彼女と純愛を誓っているのに、彼女の親から結婚NGと言われフラストレートしていると歌ってる、その2曲後には“感謝知らずの女”。

思わずあの純愛は何処に行った〜?

そう思っているとSide-Bの初っぱなに純愛路線の“愛は君”、そしてその2曲後には少し皮肉めいた現実路線の“限りない欲望”そしてSide-Bの最後に“傘がない”と純愛路線によって幕が閉じるという非常に振幅の激しいアルバム。

一体どちらがその当時の陽水を語っているのだろうか?

その答えは、レコードを収納するインナーに書かれているような気がする。

(顔が怖い)

彼は、何故今歌を作って歌っているのかといえば、実家の家業を継ぐために歯科医大を受験するも、3浪という憂き目にあって今後10年計画で合格の栄光を手にするまでの繋ぎだと自虐的に述べている。

しかし、自虐的というよりは面白おかしく書いてクスッと笑ってもらうというスタンスで、レコードも愛に関して対局とも言える世界を自身のイマジネーションでそれぞれの詞を書き、エンターテイメントとしてそのアンバランスさを楽しんでもらおうと思っていたのではないかと妄想する。

ところで、もし私が最初の会社訪問で内定を勝ち取っていれば、今の私は存在しないだろう。

陽水さんも現役で歯科医大に合格していれば、当然あの驚異の名盤、“氷の世界”も生まれる事はなかったのじゃないだろうか?

人生って不思議ですね。

はらいそとは?

2018年06月29日 | JAPANESE
英語で天国もしくは楽園という意味のParadiseはポルトガル語では、Paraiso(パライソ)である。

それが宣教師経由で日本に伝わり少しなまって“ハライソ”と発音さたそうな。

そして1978年、ハリー・細野とザ・イエロー・マジック・バンド名義でたアルバムに“はらいそ”と名付けられた。

ジャケ表

ジャケ裏

二つ折りのインナー、内側の見開きに歌詞と演奏メンバーなどが記載されている。

村井邦彦率いるアルファー・レーベルからのリリース

買った当時は、あまりピンとこなかった。

何しろ、海外のロックをそのままコピーして日本語で歌うような直輸入ロックではなく、古今東西のオールディーズを鍋に掘り込み、電子音楽のスパイスを効かせたごった煮のような感じで、ゆる〜く展開する各楽曲は、当時私のような聴き手にはなかなか焦点が定まりにくく、一聴した感想は何かのジョークかと思えた。

しかしレコード棚からこのアルバムを取り出して改めて聴いてみると、40年前にレコーディングされたとは思えないほど古さを感じなかった。

ヒーリング・ミュージックと言えば良いのだろうか、本当にリラックスできる。

古文で出てくる四面楚歌をもじった中華フレイバーの“四面道歌”やその他の細野晴臣作オリジナル曲もいいが、ジャパニーズ・ルンバ、安里屋ユンタやフジヤマ・ママなどカバー曲のとぼけた感じがすんばらし〜!

この後、坂本龍一、高橋幸宏らとイエロー・マジック・オーケストラを結成し、世界に打って出るわけだが、このアルバムは決してイエロー・マジック・オーケストラの前座的作品ではない独立したアルバムであることを付け加えておきたい。

なるほど40年経ってようやくその価値が分かったってことは、自身が 鈍感人間と呼ばれる故だとも言える。

なんと日本盤には珍しいライナー・ノートが付いていたではないか! やっぱり、私の様な理解に苦しむリスナーに救いの手をって事かな?

ディランを聴く、その7 おまけ

2018年05月24日 | JAPANESE
さっき、Yahoo!ニュースをサーフしていたら、「文氏 米朝の「仲介」に懸命」なるタイトルがサイトに踊っていた。

しかし文氏に米朝とくると、不意に上方落語協会の前会長、桂文枝師匠が人間国宝の故桂米朝師匠の「仲介」に懸命と思えてしまって苦笑。

故桂米朝師匠の一番弟子にこれまた故桂枝雀師匠がいたが、子供の頃テレビの大喜利かなんかで小米と名乗っていたまだ髪の毛がふさふさしていた頃の師匠を思い出す。

せっかちな気性であるため、あまり落語を進んで鑑賞することがなかったが、米朝師匠と枝雀師匠だけは別格でテレビとかラジオでよく聞いた覚えがある。

この枝雀師匠の、ツルツルした風貌をみるとあるアーティストを思い出す。

先ほどディランのガラガラ声について語っていたのだが、不覚にもこのお方を忘れていた。

ディラン、トム・ウェイツに並ぶ、私的三大ガラガラ声アーティストの一人、憂歌団の木村充揮である。

お気に入りは、1977年の「生聞 59分」というライブ盤と1983年にフォーライフに移籍後のアルバム、リラックス・デラックスである。

(「生聞 59分」のジャケ)

「生聞 59分」ではブルースと加山雄三のカバーにオリジナル、「おそうじオバチャン」「嫌んなった」「イコマ」(イコマは悲しい女町〜♪って大阪から東の方向に見える生駒山の事かね?)「俺たちゃ憂歌団、ヤクザな憂歌団〜」などなど、非常に楽しめる。

リラックス・デラックスの方もなかなかよろし〜 日本語でのカバー、Under The Board Walk(渚のボード・ウォーク)には完全にやられてしまった。

80年代当時、車内のカーステで聴くために、それぞれカセットテープを買っていたのだが、いつの間にか何処かに行ってしまって残念ながら今手元にはない。

それらを今CDで買い直そうにも、通販のサイトでは新品では全く手に入らない状態。

ツタヤかユー・チューブでお世話になるかな。

助手:博士! カエルの歌が嫌ならこれはどうですか? 博士の心境にピッタリ!

博士:いやになった〜 ♪
もう〜ダメさ  ♪
だけど腐るのはやめとこう〜 ♪
日の出を見るかも ♪
この俺だって〜 (ゲロゲロ)♪

朝早いのは無理!

またまた小休止

2018年05月22日 | JAPANESE
歌謡曲でもななく、フォークやロックでもないシティ・ポップなるジャンルが80年代に登場し人気を博す。

レコード棚をサーフしているとこんなのが登場。

日本の兄弟ポップ・デュオ、ブレッド・アンド・バターのSurf Cityなるアルバム。

(シングル・ジャケ、表のヘタウマ系イラスト)

(シングル・ジャケ裏もヘタウマ系イラスト、アーティストの写真が見当たらない。この手のデザインが当時クールと考えられていたのかな?)

ブレッド・アンド・バターをウィキで調べてみるとなんと、1969年いシングル・デビューし、2014年までに41枚のシングルと24枚のオリジナル・アルバムを出すと言う非常に息の長い音楽活動を続けているらしい。

正にスゲ〜の一言。

このレコードについて調べてみると、1984年に出た彼等のTDKレコード時代のベスト・アルバムとの事。

(カセット・テープ・メーカーのTDKって自社でレコード制作してたのね。)

しかし買った時の記憶がないのだが何故かここにあるって感じ。

取り敢えずレコードに針を落として聴いてみる。

オォ〜! 聴いたことのあるメロディーだ。

やっぱり自分で買ったのは間違いない。

なんと34年ぶりの再会である。

私にもお洒落な昭和ポップ・ミュージックを楽しんだ青春時代があったのだ! 感涙。

もうすぐ平成の元号が終了となり、昭和はさらに遠くへと。

ますます、過去の記憶が忘却の彼方へと。

このレコード(記録)のお陰で、34年前の記憶が少しだけではあるが蘇ったことには感謝。

炊き込みご飯の季節

2017年11月03日 | JAPANESE
歌を忘れたカナリヤか? はたまたブログに興味を失ったおっさんか?

な~んて、以前にも書いたような。

赤道直下の熱帯気候であるため、晴れると外は30度を越し本当に暑いし、曇っていたり雨がパラパラの天気だと湿気が襲ってくる。

エヤコンを入れた部屋から外に出ると急激な温度変化によって汗がドドッ出てきて、シャツはビチョビチョで一気に不快指数100%となる。

と言うことで、此処のところなんとなく体がだるくブログを更新する気力も失せていた。

この地に生まれて、この地でずっと過ごしてきた人なら通常運転と感じるかもしれないが、四季のある環境で生まれ育ちその味を占めた者なら、年中常夏である環境はしばしば辛く感じる時がある。

11月になれば、気温が10度から20度のレンジで、晴れると湿度も下がってカラッとして、冬がやってくる直前の日本の気候ってとても快適だとうらやましく思う。

ちょっと冬には早いけど、今日は1974年に出た五輪真弓のライブ・アルバム“冬ざれた街”

当時日本にもこのようなお方がいたのかと、レコードを購入。

キャロル・キング(It’s Too LateやYou’ve Got a Friend)、ジョニ・ミッチェル(青春の光と影)それにロバータフラック(やさしく歌って)などアメリカの著名女性シンガー・ソング・ライターの曲をカバーしているが、やっぱり目玉は彼女のオリジナル曲、あなたを追いかけて、少女、アルバム・タイトルの冬ざれた街と煙草のけむりなどなどだろう。

ライブ・ハウスなる小ぶりの会場で腕利きのミュージシャンをバックに従えての収録。

スタジオ・アルバムよりも熱気がこもった演奏に力強く伸びやな歌唱が乗っかり、好感が持てるアルバムに仕上がっている。

ところでジャケの五輪真弓は、ヒートテックのインナー着込んでいるのではと思わせる、冬ざれた街を歩くには相応しくないような薄着のいでたちである。

真冬なのに爽やかな晩秋の雰囲気って、これいかに? 

今すぐ此処を脱出しマッタケの香のする炊き込みご飯をたらふく食いながら、日本の晩秋を楽しんでみたいなんて妄想に駆られる。

エーッと、11月3日の予想最高気温は何度だっけ?

31度で体感温度は36度なり。

ガクッ。


マナ(Manna)のChabako Trick、我が家の地味なレコード紹介シリーズ、その十五

2017年10月07日 | JAPANESE


1978年に出たLiving In The USAのジャケットで髪を短くしパーマを当てたリンダ・ロンシュタットのようなお方が写っていますね。

細野晴臣が提供したほんわかムードで落語家の柳昇さんも登場するYellow Magic Carnivalや歌謡ポップ路線の浜口倉之助や筒美京平の作品なんかを歌っています。


同じ細野晴臣作でも、以前紹介したテクノ・ロック系のサンディー(Sandii)とは違った味わいが。

このアルバム以外にも、このお方のアルバムもう一枚購入しています。全体が水色で真ん中辺りにシンプルな漫画チックに描かれたマナのイラストがあるアルバム。Tokio通信(トキョー・コール)と言うタイトルの歌謡曲っぽいのを歌ってました。

Chabako Trickのジャケットは一応写真にとってデータ化しているのですが、2枚目のアルバムは写真をとって無かったので今回画像はアップ出来ませんでした。

2枚のレコードは自宅にあるため、インターネットで何らかの画像を探したのですが、ちょっと見当たらない。

またWikiで更なる情報を集めてみようと試みるも、“ドラゴン・ボールの主題歌を歌う”と一行のみの記載。

知る人ぞ知るって感じで、地味と言うよりは希少価値あり!

私のお気に入りのグループで、Bread & Butterの兄弟のどちらかの人と結婚されたとはちょっと昔に聞いた様な。彼らのSurf Cityってレコードもそういや買っていますね。

今度帰国したら、聴いて見よ~っと。

THE SQUAREのROCKOON、我が家の地味なレコード紹介シリーズ、その参

2017年09月21日 | JAPANESE
まだまだあります。

1980年まだバンド名をTHE SQUAREと名のっていた頃の4枚目のアルバム、ROCKOON。


同じ頃にフュージョン系のカシオペアとよく比べられたこのバンド、どちらかと言えばジャズよりもポップ寄りのサウンドで親しみ易いメロディーが印象的。

ボーカルが入った曲も3曲収録されていて、それらはさらに頭に残り易いといえる。

と言うわけで、テレビ番組のタイトル曲やコマーシャルなんかに使われていた覚えがある。

今でもカシオペア共々40年近く第一線で活動しているのは古くからのリスナーとしては嬉しい限り。

Wikiによるとバンドの名前の由来は、ふと眼に留まった、マジソン・バッグ、白い文字でMADISON SQUARE GARDENと濃紺のカバンの側面に英字プリントされた例の伝説のスポーツバッグ。そして当時メンバー4人と言う事で、正方形を英語に直すとSQUARE。

それらが合わさって、THE SQUAREとなったそうな。

そう言えば、私もクラブ活動に明け暮れていた頃MADISON SQUARE GARDENが何を意味するのかも判らず。恥ずかしながらマジソン・バックを愛用していた。

もしこのスポーツ・バックにカタカナで、マジソン・スクエア・ガーデンと書かれていたならあれほど売れなかったと思うのだが。

日本人は英文字で書かれている場合、意味も良くわからず有難がる傾向があるから、良く意味不明の英字や公共の場では相応しくない表現が書かれているTシャツを結構平気で着ている。

とは言え、アメリカ人も同様で、その昔意味不明の日本語が書かれていたり、キッコーマンや吉野家のTシャツなんかを着ていたのを現地でよく見かけたし、また大昔学生時代に知り合ったアメリカの日系3世は、“ごはんパワー”と日本語で書かれたTシャツを良く着ていた。生まれた家庭にもよるが3世ともなればアメリカ人化が進んでいてほとんど日本語を喋ることが出来ない場合が多いと当時を思い起こす。

ところでROCKNOONって何の意味?

調べてみると、ROCKETとBALLOONが組み合わさった(浮かび上がったバルーンからの)空中発射ロケットだそうな。

雨の日に思う一期一会

2017年03月06日 | JAPANESE
20時間のご無沙汰でした。

ご無沙汰と言うほど時は過ぎてないのだが…

今日は朝から薄雲は掛かっていたものの、天候は晴れ。

久々に連日の雨による湿気から開放されるのではないかと思いきや、お昼を過ぎてから雲行きが怪しくなり夕方からまたもや雨。

現在は雨は降っていないものの、風は無く湿気でむんむんとするので、思わずエヤコンのスィッチをオンにする。

雨が降ると、遠くに見える高層アパート群も霞んで見えて、まるで街が泣いている様な…

オォーと、どこかで聞いたようなフレーズ。

そう、1980年、伊丹哲也とSIDE BY SIDEによる、ヒット曲“街が泣いていた”。

何でも当時開催された、第11回世界歌謡祭でグランプリを取ったとか。

当時ラジオで、シンプルなミディアム・テンポのロック・サウンドに、伊丹哲也が少し巻き舌調でうなりながら歌う哀愁のメロディーに惹かれて、ただエンディングのところで少しうなり過ぎ!とは思ったものの、ついシングル盤を即効で買いに行ったのを思い出す。

シングル盤は演奏時間は短いのに、レコード・プレーヤーで演奏する際の手間はLPとそう変わらない。そのため、扱いが結構面倒に感じるので、シングル盤をあまり買わないようにしてきた。

このシングル盤、“街が泣いている”は私にしては結構特別なコレクションになる。

ウィキによると、伊丹哲也はその後いくらかのLPやシングルを出したようだが、海外で働き始めた時期に重なったため、このシングル以降の曲は聴いたことがないという一期一会って感じになった。

当時、日本を離れて海外で働くってシチュエーションは、なんとなくこの曲の歌詞と重なり今聴くと感慨深いものがある。

ただ、さよならオレの女(ひと)よ~♪♪と歌うドラマのひとコマの様な状況は残念ながら当時はなかった。

あればかっこよかったんだけどね~

雨に霞む町並みを眺めてふとこの歌を思い出した、な~んて無理やりこじつけた感はあるのだが…


荒井由実アゲインです。

2016年11月25日 | JAPANESE
カシオペアつながりで、此処でまたもや登場、村井邦彦氏率いるアルファ・レコード。

ニュー・ミュージックと称されるアーティストが在籍、当時は、アルファは原盤制作中心で、国内販売の経路として、赤い鳥は東芝のリバティー・レーベル、荒井由美はこれまた東芝のエキスプレス・レーベルからレコードを出していた。

WIKIによるとその村井邦彦氏が彼女の才能を見込んでシンガー・ソング・ライターとしてデビューする事を勧めたのが始まりだったと記されている。

1973年の“ひこうき雲”、1974年の“ミスリム”そして1975年の“コバルト・アワー”を立て続けに出し、徐々に人気を獲得。


今では、3000万枚以上のアルバムを売り上げ、さらに莫大な費用をかけた派手なライブステージなどを通して、日本の音楽業界のスーパー・スターと言って間違いは無い。

当時は、海外ロック一辺倒で日本のアーティストそれほど興味が無かったのだが、ある日コバルト・アワーに収録されていた“少しだけ片思い”と言う曲をラジオかなんかで聴いて興味を持つようになった。

日本語と英語が交じり合ったサビの部分をさらりと歌う、

いつだって~♪♪
I LOVE YOU MORE THAN YOU
YOU LOVE ME
少しだけ片思い♪

今ではこんなの普通でなんとも思わないかも知れないが、これに嵌った。

これほど自然に英語が日本語の詞にフイットするとはと感じ、初期の三部作のレコードをそれぞれ購入してみようか~♪なんて気持ちが湧き出たような記憶がある。

しかしながら、1976年の次作、“14番目の月”を購入後、なんとなくそれまでの感じと少し違う印象を受け、それ以降の松任谷由美名義時代のアルバムは購入しなくなった。


初期の頃の初々しさが無くなったからなのか?

まあ、色々議論は有るかも知れないが、個人的には、彼女の全盛時代は、荒井由美の三部作と1976年のベスト・アルバム、“ユーミン・ブランド”、プラス“バンバン”に提供した“イチゴ白書をもう一度”あたりじゃないかと…


それから、彼女の作風としては、ハイトーンのメロディーが売りになっているのだが、オリジナルの楽譜通りに歌いこなすには、かなり実力を持った歌手でないと。

以前ユーチュブで、彼女がハイファイ・セットに提供した曲を一緒に歌っていた動画を目にしたことがあるが、ハイファイ・セットの山本順子はさらっと歌いこなせていたのに、本人はかなり苦しそうであった。

やっぱりライブではきついかな?

2012年彼女の40周年記念で、彼女憧れのプロコル・ハルムとのジョイント・ライブが開催され、プロコル・ハルムから影響を受けた“ひこうき雲”や“翳り行く部屋”などが歌われたそうな。

プロコル・ハルムのゲーリー爺さんは未だパワフルな歌唱は健在と聞いていたが、果たして我らがユーミンはどう立ち向かったのだろうか?

パープルのイアン・ギランが最近のコンサートでギャーと雄叫びを上げても、70年代ライブ・イン・ジャパンの頃の頭にガーンと突き刺さるような声はもう出せない。

数十年前に聴いたイメージが未だに頭に残っているのと、歌手サイドも寄る年波には勝てないって事からくるギャップで、残念に思うのは致し方ない事なのであろう。

やはり私としては、安心のスタジオ録音“ひこうき雲”、“ミスリム”そして “コバルト・アワー”を荒井由美として昔のイメージ通りに懐かしく聴き続けるのが賢明ではないかと思う今日この頃。


80年代の記憶、カシオペア

2016年11月24日 | JAPANESE
昨今のインターネットの発達により、日本の映像や音楽が海外で簡単に見聴き出来るようになった現在、日本語を含む日本固有の文化は世界的にかなり浸透し理解されてきたと思う。

ポップな日本語の単語を散りばめた曲であっても、あまり違和感を持って聴かれることはなくなり、未だ特定のミュージシャンだけでは有るが、彼らが作り出す音楽が結構海外で受けるようになってきた。

ビルボード・チャート一位を記録した、坂本九が日本語で歌う“上を向いて歩こう”を除けば、その後の長い間日本語で歌われた曲が世界で注目を集めた事例はほぼ無かったと言えたのでは...

此処東南アジアでは、華僑が多いため洋楽を除けば、昔から北京語もしくは広東語で歌われる歌謡曲が多く、数多くの日本の演歌やポップ・ソングなんかも翻訳され広く歌われていた。

そのため、当時日本から海外に進出をもくろむミュージシャンは、歌モノは出来るだけ避け、インストで勝負することになった。

テクノ系ではイエロー・マジック・オーケストラ(ボーカルが付いた歌もあったが、それらは特に感情を込めた歌ではなく、電子系のフィルターを通した楽器の一種のような感じだった)、電子音楽系では喜太郎や冨田勲などが独特の世界観を持って海外に進出した。

その中で80年代に活躍したバンドがカシオペアである。

デビューしてイギリスで演奏したり、後にモントルー・ジャズ・フェティバルなんかでも演奏し、結構ヨーロッパで人気があったようだが、此処東南アジアでも結構知られた存在だった。

なにしろ、当時彼らのカセットやCDがショップで普通に売っていたし、ナイト・クラブ・トロピカーナ(古っ~!、多分永住している60代以上の日本人で無いと知らないと思う。何故って、25年ほど前に店を閉めたからね)のカバー・バンドなんかも、時折彼らのヒット曲“朝焼け”を軽快に演奏していたのを覚えている。


1980年作サンダー・ライブ、超ハイテク演奏にぶっ飛ぶ、オン・タイムでレコードは買っていない。シンガポールでCD購入


1982年作ミント・ジャム、海外向けに、ライブでベストアルバム作成、オン・タイムでレコードは買っていない。シンガポールでCD購入


1984年作サウンドグラフィー、スタジオのベスト・アルバム、オン・タイムでシンガポールでカセット購入


1984年作ダウン・アップビート、スタジオ録音でだが一発取りと聴いてぶっ飛ぶ、オン・タイムでシンガポールでカセット購入


1985年作スゥート・サファイア、野呂一生初のソロ、オン・タイムでシンガポールでカセット購入


1988年作ワールド・ライブ88、この後活動停止。オン・タイムでシンガポールでCD購入。その後メンバー・チェンジしため興味をなくし、カシオペア打ち止めとなる。

やっぱり、サンダー・ライブから固定された最強のメンバーの演奏でないとね。

メンバー・チェンジした後は何かチョット違うような...

まあ、当時の彼らの繰り出した精密機械のような超ハイテク演奏が、現在のクール・ジャパンなるイメージの土台を作ったのではないかと…

今日の結論

おじいさんになると、昔のことをホントよく喋りだすようになるって、今は無き父親を見続けてきてよく思ったものだ。

いざ、自分がその年齢に近づくと、あら不思議! 昔のこと自動的に喋りだすね~

最近のことはあまり覚えていないのに、数十年前のことをパッと思い出す。


入れ違いとなった尾崎豊

2016年11月23日 | JAPANESE
80年代の佐野元春について書けば、当然このお方も登場させなければならないのだが、実は83年の11月急に海外駐在の辞令が下った。

そのため、その後の80年代は、私にとって日本の音楽事情に関する情報がまったく入らない空白の時代となってしまった。

とは言え、仕事関連でたまに帰国したりして、その際日本のアーティストのテープなどを結構買った。

以前は英米のロック中心聴いていたのが、いざ日本を離れると如何いうわけか、日本の歌が恋しくなる。

当時、尾崎豊の存在はまったく知らなかった。

何しろ、私が出国した83年の12月にシングル“15の夜”とアルバム“十七歳の地図”でのデビューとなり、私とはまったくの入れ違いだった。


その後ある日本の新聞記事のコラムで、尾崎豊を見直そうと言う記事を偶然読んだことから、いつか帰国した時に買ってみようと思った。

と言うわけで、彼のデビューCDアルバム、“十七歳の地図”を買ったときは、彼は既に亡くなっていた。

アマチュアの自主制作ではなく、プロの制作者が絡んでいるので鑑賞に堪えられるものだとは予想はしていたが、CDを購入し初めて聴いた時は本当に驚いた。

ゲゲー! 高校生でこれだけの創造性に溢れたレベルのアルバムが作れるのかと。

私の高校時代の生活とは比較対象にならない。もちろん、私のほうが普通で、彼が特異な存在だったと事は、言うまでもないことだった…

10代が終わるまでにさらに内容の濃いアルバム“回帰線”と“壊れた扉から”を1985年連続して出していた事にも驚いた。


お次はどうなったのか?

日本のアーティストによく有る、自身の活動が一応完結したと認識した時点で、お決まりの海外での充電期間となる。

佐野元春もアメリカに行き、帰国後最新のヒップホップ・ミュージックなどを取り入れポジティブな新境地を目指したのだが、同じくアメリカから戻った尾崎豊の場合は、少し状況が違ったように思える。

帰国してから、レコード会社を代え、心機一転かと思ったのだが、完成までに結構時間を要したアルバム第4作目の“街路樹”が1988年に出たわけだが、アメリカで生活していた影響が見受けられなかったように思う。


作風としては、以前から続く日本的なもので、さらに内向的になったと感じた。

サウンド的にはパワー全快である。

しかし、文才のなさからうまく書き示すことが出来ないのだが、多分精神的な疲弊からくる絶望感とか無力感、それとも徒労感とか何となく重苦しいネガティブなイメージばかりを感じた。

アルバムの中で、唯一アップ・テンポで明るい曲調の “遠い空”でさえ遥か彼方の遠い空に映る今にも消えそうな希望を見つめる内容。ガンバレーと鼓舞するような雰囲気はなかった。

一体アメリカで何があったのか、何を見てきたのか? と思わずにはいられない。

尾崎豊自身はこの作品の出来に満足していないし、わざとヒット・シングルを収録していないなんてどこかで読んだ記憶も有るのだが、私としては如何いう訳か、このアルバムが彼の出したアルバムの中で特に引っかかるのである。

他のアルバムと比べて、内容が同ベクトルに統一され、トータルで非常に濃い心情が味わえた。

発売されてからかなり年月が経過し、30歳半ばになった人間が初めて聴く場合は時代のギャップがあり客観的になれる。

曲に感情移入して意識を共有して聴くには、歳をとり過ぎた。

もしオン・タイムだった80年代に順番に聴いていれば、また違った感情が出てくるのかも知れない。

ロックは、やはり獲れたてピチピチで聴くのがよい。

Systemの中のディスコ・ティック、その意味は?

2016年11月22日 | JAPANESE
60年代の後半、グループ・サウンズの連中が、英米のヒット曲を日本語でよくカバーしていた。

しかしながら、英語の歌詞を直訳して歌うとなるとまったく曲のメロディーやリズムにフィットしない場合が多く、かなり意訳する必要があった。

ビートルズのオブラディ・オブラダは、シンプルに訳すと、“デズモンドは市場に屋台を持っていて、モリーはバンドのシンガー。デズモンドはモリーに、君の顔は素敵だと言うと、モリーは彼の手を握ってこういった。オブラディ・オブラダ~...”となる。

一方、ザ・カーナ・ビーツのドラマー、アイ高野は、出だしから “太郎が花子になんたらかんたら~”と歌った。

何でデズモンドが太郎で、モリーが花子になってしまったのか?子供心ではあったが“チョットそれは違う!”と言う違和感があった…

カバーでさえこれなのだから、ロックの自作曲の場合、英語で歌うべきなのか、それとも日本語なのかと言う議論が70年当初自然に巻き起こった。

内田裕也は英語でロックを歌うべきだと言い、一方日本語派といえば“はっぴいえんど”達であった。

内田裕也プロデュースのフラワー・トラベリン・バンドは、1970年カナダに進出し、日本人による英語版ロックは一定の成果を挙げた。

また日本語派もロックのリズムやメロディー日本語の歌詞が何とかのるよう試行錯誤の上工夫を凝らし、始めは少し違和感があったものの、それも徐々に解消され、その後登場したキャロルの巻き舌歌唱によって、その手の論争は手打ちとなった。

そのような土台の上に、新たなロック系シンガー・ソングライター、佐野元春が登場し、日本語を散りばめたロック・サウンドはさらに完成形に近づいたと思う。

当時は、彼の存在は知らなくて、初期三部作の後に出た1983年発売のベスト盤、NO DAMAGEで知ることとなり、日本のロックも進化したものだと思った。


初期三部作、1980年のBACK TO THE STREETと1981年のHEAT BEATは売れなかった


三枚目の1982年のSOMEDAYでようやく火がついた。


ベスト・アルバム、NO DAMEGEは、新しい創作活動を始めるため、アメリカ出発の置き土産であったようだ。

さらに驚いたのが、彼の帰国後、1984年に出したのがアルバム、VISITORSだった。


VISITORS

その土地の住人ではなく、ビジターとしての感覚で、現地の最新サウンドを持ち帰り日本語の歌詞を当てはめた冒険的なハイブリッドだった。

すなわち、過去三部作のポップ・ロック路線継承ではなく、当時一般的にはほとんど浸透していなかった黒人ヒップ・ホップ系のミュージックで、今でこそラッパーが撒き散らす日本語によるヒップホップ・ミュージックは、普通に認識されるが様になったが、当時、始めてこの手の耳慣れないミュージックに染まったアルバムを聴いて、私も含めて今までのファンはかなり惑ったのではないかと思う。

Complication Shakedownと言う曲のサビの部分が印象的でいまでも良く覚えているフレーズ。

愛をこめてコミュニケーション・ブレイク・ダウン~
I'll keep walkin' on this complication shake down~

Physicalなダンス
Mentalなダンス
Systemの中のディスコ・ティック
Systemの中のディスコ・ティック

Systemの中のディスコ・ティックのSystem(体制)の意図するところが未だに良くわからないが...

だけど、韻を踏んで曲全体に大胆に日本語を放り込んだなと感心! 訳のわからないところがまたよいのかも?

今日の結論

革新的になるには、相手に完全にわからせるより半分意味不明で置いておく、そして過去を捨てるぐらいの気概が必要じゃないかと...