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関宿城博物館など(追記あり)

2012-04-10 06:53:23 | 息子と娘のこと
息子とのドライブコースに「関宿城博物館」が仲間入り。

最近、何度か行って来た。

元の関宿城は、土手の下の低い位置にあったそうなんですが、
博物館として、スーパー堤防の上に立派なお城が立っています。



土手からの眺めはとてもいい!
平日でも、車の中で昼食を食べている人が結構いた。

長い橋(管理橋?)を渡って、中之島公園と
関宿水閘門とかいう橋のようなものを歩いて、
江戸川をしばらく眺めてきた。




息子は、カワウが潜るのをずーっと見てた。

1/3に縮めて復元されたトラス橋。


(案内板より)
よみがえる江戸川橋梁
 この橋は、1907年(明治40年)に総武鉄道の小岩~市川間で横断する江戸川に、3連の100フィート・ポニー形ワーレン・トラス橋として架設されていた江戸川橋梁です。
 その後、1926年(大正15年)に江戸川から撤去され、1928年(昭和3年)に3連のうち2連が横浜市の生糸検査所引き込み線で大岡川橋梁として使用されました。
 日本の鉄道橋梁の歴史において貴重な土木遺産である本橋は、1994年(平成6年)に大岡川からも撤去されましたが、1999年(平成11年)ふるさとの江戸川に人道橋として復元した物で、イギリス系トラス橋の遺構として貴重な物です。
 この復元工事では、橋長を100フィート(30.2m)から、1/3の33フィート(10.1m)と縮め、当時の原材料を利用しています。
 また、明治時代と同じ趣に配慮し、リベット締め工法を採用し、当時の姿をそのままに蘇らせたものです。
建設省 江戸川工事事務所


土手の下にある「関宿城跡」。


2/3の部分は土手の下に埋まってしまっているとか。
当時は平屋の城だったって、どんな城だろうな。


(案内板より)
関宿城の歴史
 関宿城の歴史はおよそ長禄元年(1457)、簗田満助の手によって、茨城県総和町水海より現在の地に築城されたのが始まりと言われている。当時は城と言っても平屋の建物が配置されているだけであった。
 簗田氏の支配は満助から持助まで六代続いていたが、やがて関宿も戦国の動乱に巻き込まれ、北条氏との激しい戦いののちに、ついに北条氏の手に落ちてしまう。その後、すぐ豊臣・徳川連合軍の関東攻めにあい、北条が守る関宿城は連合軍の手に落ち、天正18年(1590)徳川家康関東入封の折り、家康の実弟である松平康元が関宿城に2万石にて入城する。以後、城主は松平・小笠原・北条・牧野・板倉・久世・牧野久瀬と城主が交代したが、宝永2年(1705)久世重之以後明治にいたるまで関宿は代々久世氏の治める領地となった。
 明治2年(1869)藩籍奉還後、関宿城の所管は明治政府の手に移り、同5年にはその所管が政府から陸軍省へ移され廃城と決定され、同8年また城の所管が陸軍省から再び政府に移動したのをきっかけに、親藩・譜代七家二十三人の大名を輩出した関宿城は同年までに全て破却されるに至った。
 現在城跡として残っているのは全体の一部で、約3分の2は、明治以降何回となく繰り返されてきた河川改修により、堤防の下に埋もれてしまっているが、当時の城の大きさは、本丸・二の丸・三の丸だけでも約6000坪あったといわれている。
野田市教育委員会


関宿城跡から博物館



(2012/4/10追記)
関宿関所跡




関宿城博物館周辺の位置関係



駐車場にはトイレ、おみやげやさんもあります。
ここは、ドライブ&散策にはとてもいいところです!!
休館日があるので確認してね。

前にちらっと博物館に入ったことがあるけど、
今度は息子と一緒に入れたらいいなあ。

周辺スポット千葉県立関宿城博物館公式ホームページ

羽生のスカイスポーツ公園もそうだけど、
土手の上って眺めもいいし、出かけるのにとてもいい場所。
でも、見下ろす町が過去に洪水で被害を受けたりしたのかなあと思うと複雑。
だからこそ、二度と堤防には壊れないでほしい。