先日毎日新聞でこの記事を見て、ナンシー関の"聞く猿"を思い出した。
記事
神奈川県小田原市の市立小で昨年1月、20代の男性教諭が当時担任をしていた6年の男子児童の背中に「僕は、女子更衣室に侵入しようとして失敗したおバカさんです」と書いた張り紙をしていたことがわかった。児童が侵入しようとした事実はなく、同市教育委員会は同6月、「不適切な行為だった」として教諭と校長を訓告処分にした。
同市教委によると、教諭は昨年1月30日昼ごろ、同じクラスの女児に「(男児が)更衣室に入ろうとしている」と言われ、事実確認をしないまま張り紙をした。後で女児は事実と異なることを言ったと認めた。男児の保護者が翌日抗議し、校長は「教師としてあるまじき行動だった」と謝罪した。児童はショックで約1カ月間欠席。3月上旬から登校し、卒業した。
教諭は市教委に「軽い気持ちでやってしまった。男児の心を傷つけたと深く反省している」と話したという。市教委から報告を受けた県教委は懲戒処分には当たらないと判断したという。県教委はこの点について「児童や保護者への影響、教諭の反省状況などを総合的に考慮した」と説明している。(7月3日11時39分、毎日新聞)
ナンシー関は以前週刊朝日でコラム/けしごむ版画を書いていた人。おしくも2002年に亡くなった。週刊朝日はかっていなかったけど、必ずこの人のコラムは立ち読みしていた。辛口コラムとよくいわれているけど、私は洞察力が鋭く、切れるコラムニストだと思う。辛口といわれる人の中には多数、とんちんかん、うざい、うるさいなどの言葉でもまた言い換えられる人がいるが、ナンシー関のコラムはそういうものとは違い鋭く正直なのだ。
私は、エッセイ、コラムといはれるものはまず本では買わない。特に、芸能人、有名料理家などが書く"ステキな私の生活"や"私の自分探し" や"私と猫"などというたぐいのどうでも良い御託の垂れ流しには600円どころか、古本屋で50円すら払う気はない。例え、私の好きな作家が書いたものでも、そんな手ぬきな仕事にお金は払えない。そんな私が、この人のエッセーだけは全て持っている、そしてどれも思わずニヤニヤするほど面白い。 話題が古いと感じる人もいるかもしれないが、たいていは覚えていることなので懐かしさ半分で楽しめる。
長くなったが、ナンシー関の"聞く猿"と上記の記事の関係。
"聞く猿"の中で、ナンシー関はこう書いている。"小学校から高校までの自分が知っている先生のなかで、この人は会社勤めができないだろうなと思われる先生を私は直ぐに7人は挙げることができる" (注: 記憶で書いているので、一字一句同じではない)。いかに"先生"と呼ばれる種のひとたちが"学校"という特殊な環境でしかいきられないかという話だったと思う。確かに、"先生"よばわりされている人たち(弁護士、政治家、作家、医者)には、他とは違う空気が漂う。この毎日新聞の記事やその他いろいろな先生がらみの不祥事、さらに私の小学校から高校までの先生などを見ているとやっぱりちょと違うなと思う。 そういう事するか?それが仕事?というような事を平気でやってのける。時々おもうけど、"先生"たちは世間が思う"先生"像に僻癖しているのでは? なかには、すごい先生もいるさ、夜回り先生とかヤンキー先生とか金八先生とか、でもほとんどの人は教師ではなく教員だろう。4大出ただけでいきなり"先生"呼ばわり。これはいくらなんでも荷が重いと思う。人口のほとんどか小学校出ただけという時代だはあるまいし、4大出の22才、しかも実社会経験0、が"師"になれるか? やっぱり、"先生"ドラマに毒されていると思う、"先生"も一公務員、市役所の受け付けの人と何ら変わりはなし。私たちも時代にあわせて"先生"像をかえるべきでは?
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神奈川県小田原市の市立小で昨年1月、20代の男性教諭が当時担任をしていた6年の男子児童の背中に「僕は、女子更衣室に侵入しようとして失敗したおバカさんです」と書いた張り紙をしていたことがわかった。児童が侵入しようとした事実はなく、同市教育委員会は同6月、「不適切な行為だった」として教諭と校長を訓告処分にした。
同市教委によると、教諭は昨年1月30日昼ごろ、同じクラスの女児に「(男児が)更衣室に入ろうとしている」と言われ、事実確認をしないまま張り紙をした。後で女児は事実と異なることを言ったと認めた。男児の保護者が翌日抗議し、校長は「教師としてあるまじき行動だった」と謝罪した。児童はショックで約1カ月間欠席。3月上旬から登校し、卒業した。
教諭は市教委に「軽い気持ちでやってしまった。男児の心を傷つけたと深く反省している」と話したという。市教委から報告を受けた県教委は懲戒処分には当たらないと判断したという。県教委はこの点について「児童や保護者への影響、教諭の反省状況などを総合的に考慮した」と説明している。(7月3日11時39分、毎日新聞)
ナンシー関は以前週刊朝日でコラム/けしごむ版画を書いていた人。おしくも2002年に亡くなった。週刊朝日はかっていなかったけど、必ずこの人のコラムは立ち読みしていた。辛口コラムとよくいわれているけど、私は洞察力が鋭く、切れるコラムニストだと思う。辛口といわれる人の中には多数、とんちんかん、うざい、うるさいなどの言葉でもまた言い換えられる人がいるが、ナンシー関のコラムはそういうものとは違い鋭く正直なのだ。
私は、エッセイ、コラムといはれるものはまず本では買わない。特に、芸能人、有名料理家などが書く"ステキな私の生活"や"私の自分探し" や"私と猫"などというたぐいのどうでも良い御託の垂れ流しには600円どころか、古本屋で50円すら払う気はない。例え、私の好きな作家が書いたものでも、そんな手ぬきな仕事にお金は払えない。そんな私が、この人のエッセーだけは全て持っている、そしてどれも思わずニヤニヤするほど面白い。 話題が古いと感じる人もいるかもしれないが、たいていは覚えていることなので懐かしさ半分で楽しめる。
長くなったが、ナンシー関の"聞く猿"と上記の記事の関係。
"聞く猿"の中で、ナンシー関はこう書いている。"小学校から高校までの自分が知っている先生のなかで、この人は会社勤めができないだろうなと思われる先生を私は直ぐに7人は挙げることができる" (注: 記憶で書いているので、一字一句同じではない)。いかに"先生"と呼ばれる種のひとたちが"学校"という特殊な環境でしかいきられないかという話だったと思う。確かに、"先生"よばわりされている人たち(弁護士、政治家、作家、医者)には、他とは違う空気が漂う。この毎日新聞の記事やその他いろいろな先生がらみの不祥事、さらに私の小学校から高校までの先生などを見ているとやっぱりちょと違うなと思う。 そういう事するか?それが仕事?というような事を平気でやってのける。時々おもうけど、"先生"たちは世間が思う"先生"像に僻癖しているのでは? なかには、すごい先生もいるさ、夜回り先生とかヤンキー先生とか金八先生とか、でもほとんどの人は教師ではなく教員だろう。4大出ただけでいきなり"先生"呼ばわり。これはいくらなんでも荷が重いと思う。人口のほとんどか小学校出ただけという時代だはあるまいし、4大出の22才、しかも実社会経験0、が"師"になれるか? やっぱり、"先生"ドラマに毒されていると思う、"先生"も一公務員、市役所の受け付けの人と何ら変わりはなし。私たちも時代にあわせて"先生"像をかえるべきでは?