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決勝は伊仏という、当たり前過ぎてつまらないようにも感じられるほどの意外な組み合わせに。0:0PKにだけはなってほしくなく、できればアンリ、デルピエロあたりのインプレーのゴールがみたいと思います。
前回前編から開いてしまい、このまま書かずになってしまうかなと思った、引退発表のナカタについての記事。
日>
思えば、ナカタについて考えたことはほとんどなかった。
たとえば、ジダンが唯一のCL優勝を引き寄せたボレーシュートをはじめ、名選手にはさまざまな名場面がついて回る。しかし私の中では、ナカタについてそんなシーンはない。
もちろんあまり日本の試合をみないということがあるにしても、好きな小野や柳沢の、反対に苦手な中村のシーンならいくつも思い浮かぶ。だがナカタについては別。位置こそ違うが何度もポジショニングのよさに唸った井原などとも違い、おお、なんでこんなところに、と驚かされたこともなかった。
私にとってナカタは、ザ・コーラルのアルバムタイトルからの思いつきでいえば"invisible MF(見えない中盤)"。どんなに動き回っていても、気になることはほとんどなかったのだ。
そこで初めて、ナカタのことというより、自分のサッカー観について考えた。
私は小野のことをよく“日本のアイマール”と呼んでいるのだが、特に中盤でボールを前線に供給するプレイヤーには、私はどうしてもかつて、ナカタとは共著を出す関係でもある村上龍氏が「シンコペーション」と表現したような、意外性のある展開を期待してしまう。
数年前、まだNHKがスペインリーグを放送していた頃、確か早野氏だったと思うが、ジダンとアイマールを比べてとアナ氏にきかれ、「まったく反対ですね。ジダンは組みたてる選手、アイマールは崩す選手なんです」といっていたのを思い出す。この点でいえば、私がみたいのはいつもアイマール型だ。今年のW杯なら好みはロシツキで、多分評価は最も高いだろうリケルメは、ビジャレアルでのプレーを含めてあまりおもしろいと思ったことはない。
ほかでも、例えばサッカーで最もエキサイティングな出来事であるミドルレンジからのシュート。ジェラードやバラックらのそれは、ほとんどリズムが前倒しになることから訪れる快感ではないか。さらにいえば、やっていることはいつも同じなのに、ほかの選手が数秒こねてから打ち上げるところを、いつも誰も準備できないうちに美しいクロスを上げる右サイドのベッカム、ゴール近くでボールを奪い、普通なら一つ前の選手に渡してから攻撃に移るところ、すぐに攻撃を始めてしまうヴィエラ、ボールを奪う前から、あるいはパスをもらう前からすでにドリブルに入っているホアキン。私がいつも好きといっている選手には、必ずそんなシンコペーションがある。
と、ここまで考えて、唐突だが、ずいぶん前に読んだ福田和也氏の『甘美な人生』という文芸評論で、柄谷行人氏の文に触れていた箇所を思い出した。
ニューアカの洗礼を浴びた世代の例に漏れず、私も柄谷氏の文章に感服してきた一人だ。「商品」を「言語」に置き換えて一つのテキストにまったく新たな命を吹き込んだ『マルクスその可能性の中心』や、近代初期にスポットを当てることで私たちの現在を解体してみせた『日本近代文学の起源』のスタイルは、自分がものを考えるベースの一部になっている。しかし福田氏によればその柄谷氏の文は、その文脈の緻密さゆえに、読者に考えさせない文だという。
この指摘は新鮮だった。一部の隙もなく進む論理。それは完璧に進むゆえに、読者に考える時間を与えず、その論理に乗って考えないまま、論理を浴びるように読書の時間が流れていく。
だからといって、私にとっての柄谷氏の文章の魅力に変わりはないのだが、魅力的なテキストの魅力の意外な機能に気づかされたこの福田氏の評は頭の真ん中の方に残っている。
私がナカタの、リケルメの魅力がわからないのは、単に自分のサッカーのみ方が幼稚なだけなのではなかったか。
私がサッカーに求めた「幼稚な意外性」は、見かけはまったく逆ではあるものの評論においての「完璧な論考」であり、それにとらわれるとほかがみえなくなるという点でまったく似通っている。もちろん、どんなみ方をしても構わないのだが、ものがみえなくなるのはいいことで決してない。
ナカタやリケルメの完璧なボール供給は、考えさせたり、感服させないという点ですごいのではないか。
3日の夜、仕事を頼んでいるOBのI君とナカタのことをメールで話し、ネットで読んだ引退声明も含めナカタの発言についても触れた。その時は、「おれは今、自分が毎日毎日強くなっていくのがわかるんだ」という辰吉丈一郎や「おれは野球がへただから」という新庄剛史らのそれと比べて、ナカタの発言にはポエジーが欠けていてつまらないといったのだが、それは確かにそう思う。
そうした発言を含む、ピッチ外での行動などどうでもいいし、MBAを取ろうが実業家になろうがそんなことはいい。
私にとっては、ナカタが十数年にわたってピッチでみせたもの、それを自分がほとんどみていなかったことの方が重要で、これからたまに考えてみることがありそうだ。
考え始めた時、ナカタはもうそこにはいないのだけれど。
前回前編から開いてしまい、このまま書かずになってしまうかなと思った、引退発表のナカタについての記事。
日>
思えば、ナカタについて考えたことはほとんどなかった。
たとえば、ジダンが唯一のCL優勝を引き寄せたボレーシュートをはじめ、名選手にはさまざまな名場面がついて回る。しかし私の中では、ナカタについてそんなシーンはない。
もちろんあまり日本の試合をみないということがあるにしても、好きな小野や柳沢の、反対に苦手な中村のシーンならいくつも思い浮かぶ。だがナカタについては別。位置こそ違うが何度もポジショニングのよさに唸った井原などとも違い、おお、なんでこんなところに、と驚かされたこともなかった。
私にとってナカタは、ザ・コーラルのアルバムタイトルからの思いつきでいえば"invisible MF(見えない中盤)"。どんなに動き回っていても、気になることはほとんどなかったのだ。
そこで初めて、ナカタのことというより、自分のサッカー観について考えた。
私は小野のことをよく“日本のアイマール”と呼んでいるのだが、特に中盤でボールを前線に供給するプレイヤーには、私はどうしてもかつて、ナカタとは共著を出す関係でもある村上龍氏が「シンコペーション」と表現したような、意外性のある展開を期待してしまう。
数年前、まだNHKがスペインリーグを放送していた頃、確か早野氏だったと思うが、ジダンとアイマールを比べてとアナ氏にきかれ、「まったく反対ですね。ジダンは組みたてる選手、アイマールは崩す選手なんです」といっていたのを思い出す。この点でいえば、私がみたいのはいつもアイマール型だ。今年のW杯なら好みはロシツキで、多分評価は最も高いだろうリケルメは、ビジャレアルでのプレーを含めてあまりおもしろいと思ったことはない。
ほかでも、例えばサッカーで最もエキサイティングな出来事であるミドルレンジからのシュート。ジェラードやバラックらのそれは、ほとんどリズムが前倒しになることから訪れる快感ではないか。さらにいえば、やっていることはいつも同じなのに、ほかの選手が数秒こねてから打ち上げるところを、いつも誰も準備できないうちに美しいクロスを上げる右サイドのベッカム、ゴール近くでボールを奪い、普通なら一つ前の選手に渡してから攻撃に移るところ、すぐに攻撃を始めてしまうヴィエラ、ボールを奪う前から、あるいはパスをもらう前からすでにドリブルに入っているホアキン。私がいつも好きといっている選手には、必ずそんなシンコペーションがある。
と、ここまで考えて、唐突だが、ずいぶん前に読んだ福田和也氏の『甘美な人生』という文芸評論で、柄谷行人氏の文に触れていた箇所を思い出した。
ニューアカの洗礼を浴びた世代の例に漏れず、私も柄谷氏の文章に感服してきた一人だ。「商品」を「言語」に置き換えて一つのテキストにまったく新たな命を吹き込んだ『マルクスその可能性の中心』や、近代初期にスポットを当てることで私たちの現在を解体してみせた『日本近代文学の起源』のスタイルは、自分がものを考えるベースの一部になっている。しかし福田氏によればその柄谷氏の文は、その文脈の緻密さゆえに、読者に考えさせない文だという。
この指摘は新鮮だった。一部の隙もなく進む論理。それは完璧に進むゆえに、読者に考える時間を与えず、その論理に乗って考えないまま、論理を浴びるように読書の時間が流れていく。
だからといって、私にとっての柄谷氏の文章の魅力に変わりはないのだが、魅力的なテキストの魅力の意外な機能に気づかされたこの福田氏の評は頭の真ん中の方に残っている。
私がナカタの、リケルメの魅力がわからないのは、単に自分のサッカーのみ方が幼稚なだけなのではなかったか。
私がサッカーに求めた「幼稚な意外性」は、見かけはまったく逆ではあるものの評論においての「完璧な論考」であり、それにとらわれるとほかがみえなくなるという点でまったく似通っている。もちろん、どんなみ方をしても構わないのだが、ものがみえなくなるのはいいことで決してない。
ナカタやリケルメの完璧なボール供給は、考えさせたり、感服させないという点ですごいのではないか。
3日の夜、仕事を頼んでいるOBのI君とナカタのことをメールで話し、ネットで読んだ引退声明も含めナカタの発言についても触れた。その時は、「おれは今、自分が毎日毎日強くなっていくのがわかるんだ」という辰吉丈一郎や「おれは野球がへただから」という新庄剛史らのそれと比べて、ナカタの発言にはポエジーが欠けていてつまらないといったのだが、それは確かにそう思う。
そうした発言を含む、ピッチ外での行動などどうでもいいし、MBAを取ろうが実業家になろうがそんなことはいい。
私にとっては、ナカタが十数年にわたってピッチでみせたもの、それを自分がほとんどみていなかったことの方が重要で、これからたまに考えてみることがありそうだ。
考え始めた時、ナカタはもうそこにはいないのだけれど。
今回のナカタに関するコメント。実に「らしく」他分野の思想とリンクさせての考察、大変面白いものでした。
彼のサッカー人としての経歴は、それは素晴らしいもので日本のサッカー史においても名を残すであろう人だと思います。
彼のサッカーとは何だったのか?と、検証することもサポーターを含む日本サッカー界全体にとっても必要でしょう。
では、「力を持った公人」としては、どうだったのか・・・と。あれだけ、メディアに発信してた彼はもはや「私人」ではないでしょう。
映画スパイダーマンで脇役の一人がいいことを言ってました。「大いなる力には、大いなる責任が伴う」と。では、彼はどうだったのかと・・・?
私も自分の生きる指針のためにも、今回の彼の件、よく考えたいと思ってます。
私にとってナカタという選手は、常に大人なサッカーを教えてくれる、
そんな選手でした。自分のサッカーの見方が偏ったモノだとしても、今の日本人選手に大切な大事なモノを残していった事は確かだと思います。見えない中盤、確かにその通りですね。例のオシム的な人物が一番好きなタイプだろうなあ。
>同級生Mさん
「公人」としてのナカタは、一部報道をみる限りではうまく機能していたとはいえないようです。ただし、彼がジダンやリケルメ、ベッカム、ひいてはWBCのイチローとは違うかたちでチームを建設しようとしたのも、結果はどうあれ確かでしょう。
各メンバーとの関係については、当事者以外がわからないことはわからないままにしておこうと思います。
>関係者M(DSR-250)さん
なるほど、「大人のサッカー」。フィジカル面もメンタル面もそしてファンもきっと、日本のサッカーに欠けているのはそこのところなのかもしれません。
でも、代表戦も含めて、日本のサッカーはニュースくらいしかみないので何ともいえないのが正直なところです。
音楽だって映画だってほとんど海外のものにばかり触れているのだからサッカーだって、といいたいところですが、そう言い切るだけの何かがあるわけでなし。同じテレビ画面に映るものなら、みていて気持ちのいい方を選んでいるだけです。
ナカタには15年ほど前のサッカー部顧問時代のやつらと同学年という思いはありましたがそれだけ。W杯が終わっても、ナカタのいないオシムジャパンもニュースくらいですませ、アーセナルの新スタジアムやカンプノウにばかり心は行っていそうです。
東西サッカーについては、また飲みながら話しましょう。