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徒然草 第五段 不幸

2006-03-30 20:53:43 | 新訳 徒然草

 不幸に憂に沈める人の、頭おろしなどふつつかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに、門さしこめて、待つこともなく明かし暮したる、さるかたにあらまほし。
 顕基中納言の言ひけん、配所の月、罪なくて見ん事、さも覚えぬべし。

<口語訳>

 不幸に憂いに沈む人が、頭丸めるなどかたくなに思い取ったりしないで、いるかいないかに、門 差し込めて、待つこともなく明け暮らしている、そのようにあって欲しい。
 顕基中納言の言ったという、配所の月、罪なくて見る事、そうも思えるはず。

<意訳>

 不幸や悩みに、思い沈む人、
「えーい、面倒だ。頭を丸めて坊主にでもなったろう!」
 なんて、はやまらずに、とりあえず自分なんているのかいないのか分からくなるほど引きこもって、なんの期待もなしに生きていく。
 それも有りだ。

 そんなして暮らせば、島流しにされた顕基中納言が言ったとかいう。
「この島で見る月を、無実な身で見れたなら」
  という言葉の意味も分かるはずだ。

<感想>

 お嫁に行く時とかに使う「ふつつか者ですが」の、「ふつつか」は、「太い」が語源であろうかと言われる。
 「ふつつか」には、『太束』や『不束』なんて漢字が当てられてきた。
 現代語で言うなら「ふつつか」は、「図太い」とか「頑丈」、「頑固」なんていう意味が適当であろう。
 だから、お嫁に行く時に、自分から「ふつつか者ですが」なんて言ったら、「わたし図太いんですから!」と宣言しているようなもので、なんだか「鬼嫁」の気配。
 父親が、娘を結婚相手に渡す時に「こいつは、ふつつか者ですが」と差し出すのは良いけれど、自分から自分を「ふつつか」と言うのはやめておいた方が良さそうだ。

 さて、『徒然草』のテキストから受け売りで解説。
 顕基中納言(あきもと ちゅうなごん)
 顕基中納言こと、源 顕基(1000~1047)は、無実の罪で島流しにあった悲劇の人であったらしい。
 だから、配所の月は、島流しにされた配所(流刑地)で見るお月様。
 この月を、罪がない身で見れたならどんなに良いかと中納言は語ったそうだ。
 兼好は『徒然草』に参照するほど、中納言のこのセリフがお気に入りだったらしい。

 それでは、この段で兼好が言いたい事を、まとめてみよう。

 いらぬ欲望ばかりがわきあがる「現世」は、欲望という罪に捕われた「流刑地」である。
 欲望を断ち切り、「出家」をすれば、「現世」の欲望(罪)とは「無縁」となれる。
 だが、不用意に「出家」(無欲の世界へ突入)するのは危険だ。
 現実に、島流しにされた顕基中納言の言う「配所の月、罪なくて見る事」とは、「罪人」という浮き足だって落ち着かない状態から解放されて、罪のない身でなんの心配もなく、この美しい月を見てみたいという事なのであろう。
 現実に嫌気がさし、「現世」の欲望から逃れたいという気持ちでいる人間には、中納言の言いたい事が良く分かる。

 ところで、兼好は一気に『徒然草』の全部をまとめて書いたわけではない。
 若い頃から書きためていた文章を、晩年に『徒然草』として、まとめたらしい。
 序段から30段くらいまでの文章は、兼好の若い頃、兼好が出家したかしないかの頃に書かれたものではなかろうかと、「徒然草」研究家の各先生方も推測している。
 なので、まだ出家したてか、あるいは出家する前の兼好が書いたのが、この第5段なのではないだろうかと思うのだ。

 兼好は、『徒然草』の後半では、人間なんかすぐに死んじゃうんだから、出家を望むなら今すぐにしなさい、今すぐ出家しろとしつこい程に語っている。
 だが、まだこの段を書いた頃の兼好には出家にためらいがあったのだろう。

 出家を考えてはいるが、まだ出家してない。
 あるいは出家したてで、出家を後悔している。
 そんな若くて、迷っている兼好の姿が、この段からは読み取れる。

 なんにしろ、まだ人生は長いんだから「なんとかなるさ」という若者特有のお気楽さが、この段からはなんとなく感じられる。


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