墨汁日記

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徒然草 第三十八段 名利

2006-08-07 18:36:07 | 新訳 徒然草

 名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。
 財多ければ、身を守るにまどし。害を賈ひ、累を招く媒なり。身の後には、金をして北斗を拄ふとも、人のためにぞわづらはるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。大きなる車、肥えたる馬、金玉の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金は山に棄て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
 埋もれぬ名を長き世に残さんこそ、あらまほしかるべけれ、位高く、やんごとなきをしも、すぐれたる人とやはいふべき。愚かにつたなき人も、家に生れ、時に逢へば、高き位に昇り、奢を極むるもあり。いみじかりし賢人・聖人、みづから賤しき位に居り、時に逢はずしてやみぬる、また多し。偏に高き官・位を望むも、次に愚かなり。
 智恵と心とこそ、世にすぐれたる誉も残さまほしきを、つらつら思へば、誉を愛するは、人の聞きをよろこぶなり。誉むる人、毀る人、共に世に止まらず。伝へ聞かん人、またまたすみやかに去るべし。誰をか恥ぢ、誰にか知られん事を願はん。誉はまた毀りの本なり。身の後の名、残りて、さらに益なし。これを願ふも、次に愚かなり。
 但し、強ひて智を求め、賢を願ふ人のために言はば、智恵出でては偽りあり。才能は煩悩の増長せるなり。伝へて聞き、学びて知るは、まことの智にあらず。いかなるをか智といふべき。可・不可は一条なり。いかなるをか善といふ。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰か知り、誰か伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにはあらず。本より、賢愚・得失の境にをらざればなり。
 迷ひの心をもちて名利の要を求むるに、かくの如し。万事は皆非なり。言ふに足らず、願ふに足らず。

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<口語訳>

 名利に使われて、閑かである暇なく、一生を苦しめるのこそ、愚かだ。
 財多ければ、身を守るにまずしい。害を買い、わずらいを招くなかだちである。死後には、金をもって北斗の星を支えるとも、人のためにわずらうはずだ。愚かな人の目をよろこばせる楽しみ、またあじけない。大きな車、肥えた馬、金玉の飾りも、心あろう人には、うたかたで、愚かだと見るはずだ。金は山に棄て、玉は淵に投げるべき。利に惑うは、すぐれて愚かである人だ。
 埋もれない名を後世に残すのこそ、望ましいはず、位高く、やむことないをしても、優れてる人とは言うべきか。愚かにつたない人も、家に生れ、時にあえば、高い位にのぼり、おごりを極めるもある。偉かった賢人・聖人、自らいやしい位におり、時にあわないで止むの、また多い。ひとえに高い官・位を望むも、次に愚かである。
 知恵と心とこそ、世にすぐれてる誉も残したいを、つらつら思えば、誉を愛するは、人聞きを喜ぶのだ。誉める人、誹る人、共に世にとどまらない。伝え聞こう人、またまたすみやかに去るはず。誰かを恥じ、誰かに知られる事を願う。誉はまた誹りのもとだ。死後の名、残って、とくに益ない。これを願うも、次に愚かである。
 ただし、しいて智を求め、賢を願う人のために言えば、知恵でて偽りある。才能は煩悩の増長したものだ。伝えて聞き、学んで知るは、まことの智でない。いかなるを智というべきか。可・不可は一条である。いかなるを善というか。まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もない。誰が知り、誰が伝えよう。これ、徳を隠し、愚を守るでない。もとより、賢愚・得失の境に居なければだ。
 迷いの心をもって名利の要を求めるに、かくのごとし。万事はみな非である。言うに足らず、願うに足らず。
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<意訳>

  名誉や利益に追われて、心をしずかにする間もなく一生を苦しむのは愚かだ。

 財産が多いほど敵も多くなり、身を守るのが難しくなる。わざわざ害を買い、災いをまねくなかだちとなる。自分の死んだ後に、金を天に届くまで積み上げようとも残された人々に災いを残すだけだ。
 虚栄心を満たす為に買いそろえた大きな車や宝石も、心ある人なら、うたかたの愚かな物と見るはずだ。金は山に捨てて、宝は沼に投げ捨てろ。
 金に、惑わされるのは一番に愚かな人だ。

 けっして消えない名前を後世まで残すのも望みだろう。
 高い位に立派な家柄。しかし、こんなものは優れている証拠だろうか。愚かで思慮が足りない人でも、それなりの家に生まれ、時流にのれば、奢り栄える事もある。
 逆に、過去の偉大な賢者や聖人は、自ら低い地位に甘んじてそのまま世を去る事も多い。
 名誉や官位を望むのも、次に愚かである。

 誰よりも優れた知恵や心こそ残したいものだ。
 だが、良く考えると、それは、他人の評判を聞いて喜ぶこと。誉める人もけなす人もいずれみんな死ぬ。伝え聞く人もすみやかに死ぬはずなのに、誰を恥じて誰に知られたい。誰よりも賢いという評判は反感を生むもとで、死後に名が残ってもとくに益はない。
 これを願うのも、その次に愚かである。

 ただし、本気で知を求め、賢を求める人のために言えば、知恵があるから偽りが生まれ、才能は煩悩の増長したものにすぎない。
 習い聞き、読み覚えた知識は、真の知ではない。
 なら、なにが知か。
 可も不可も、同じ流れである。
 なにが正しいのか。
 まことの賢者には、智もなく、徳もなく、功もなく、名もない。
 こんなこと誰が知り、誰が伝えよう。
 これは賢さを隠して馬鹿を装うことではない。もとより、まことの賢者は、賢さも愚かさも、損得すら問題にしていない。

 迷いのうちで、名や金を求めるなら、こんなものだ。
 すべてはみな無益で、語る必要も、願う必要もない。
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<感想>

 この三十八段の主題は「心安かに生きる為にどうしたらよいか」である。

 どうすれば、お気楽極楽にすごせるか?

お気楽に生きる為のステップ1
 金は無用の争いをも招きかねないので、山に捨てた方が良い。

お気楽に生きる為のステップ2
 名誉や名声を求めても、生まれついて高い家柄にある人間にかなうはずもないので、身の程をわきまえ高望みはしないほうが良い。

お気楽に生きる為のステップ3
 人に抜きん出た学歴や知識を誇っても、あんたの賢さを知っている人間がみんな死んじまえば、後に何も残らない。また、あんたが死んじまえば名前が残ってても意味はないし、後からいらんこと言われるもとだから、誉められたいだけなら知識なんて求めない方が良い。

おまけ
 それでも、賢くなりたいというあなたにだけそっと教えるなら、そもそも馬鹿も利口も単なる世間がつくった価値観にすぎない。本当に賢い人間は、馬鹿とか利口とかそんなもの問題にもしていない。
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 兼好は、この38段でかなり激しい調子で希望いだく事を否定している。希望など、万事みな非であり、語る必要すらないと結論する。
 これは、遁世者である兼好法師にとっては当然の結論であろう。

 ただ遁世者である兼好は、同時代の出家者とは少し違う感覚で仏教をとらえていたようだ。
 この当時の出家者にとって仏の教えは「魂の救い」を得る為のものであった。とりあえず目指すは極楽浄土であり、最終目標は涅槃であり悟りである。 
 自分自身が悟りを得て仏になる事を最終目標として、死後の安泰を願い仏の教えに従う。

 ところが、ここで思い出してもらいたいのは、もともと兼好は神社の子なのだ。生粋の神道の信者で心から天皇を崇拝していた。
 こんな兼好は、下手すると地獄や極楽さえ信じていなかった可能性すらある。兼好が死んで行った場所は、地獄でも極楽でもなくきっと「黄泉の国」だったのだろう。
 では、兼好は何を望んで仏の教えを学んだのか。たぶん現実世界での「心の救い」のためである。

 兼好は、貴族の階段を上りながらもリタイヤした落ちこぼれ貴族であった。だが当時の貴族社会そのものが没落しかけている事もちゃんと見破っていた。だから、これ以上つきあいきれないよなと思ったし、落ちこぼれてもどうでもいいやと思ったのだろう。
 だが、当時の京都には伝統ある世間体が残っていた。
 チクチクと突き刺さる近所親戚両親兄弟の針視線にリタイヤを選んだ兼好の心はズタズタにされた。
 ズタズタになった兼好は、仏の教えに「心の救い」を求めた。
 それに、とりあえず「法師」にさえなっとけば、身分も前歴もチャラになって、たんなる1人の法師となれる。

 『徒然草』第1段からのテーマのひとつに「生まれた以上は無駄な希望が多いよね」というのがあった。
 この38段は、それに対するとりあえずの結論だろう。この世への希望を捨てなければ、心穏やかな境地へは行けないぞと兼好はこの段で結論した。
 あらゆるこの世への未練を断ち切れてこそ、心は穏やかに安定する。
「希望を捨て、怖れを捨て、孤独を愛せ」というやつだ。
 何も望まずに孤独に満足するなら、一人きりなら、生理的欲求以外の希望は生まれない。あとは怖れさえ捨てられれば、心はたしかに安定する。
 若い兼好は、世間への期待や希望が、心の苦しさを生むと見破った。
 だが、どうすれば希望を捨てられるのか、その方法が分からない。だけど、どうも仏の教えにはそのあたりの答えやノウハウがあるらしいと判断して、神社の子である兼好は出家したのだと俺は考える。

 という事なんだけど、兼好が曲者なのは、でも、女への愛欲だけは捨てきれないよねと断定まではしないまでも、におわせちゃうところである。
 この段だけではなく、段を無視して連続で読むなら、兼好はこの段の前あたりで、亡くした人(たぶん女)の事を思い出して悲しみ、こんな女は良いよねとか語っている。

 段を無視して、連続して読むなら、結局のところ、無理無理、私は女性への欲望だけは捨てきれません。恋する心こそ最高なんですと言っているようにすら読める。
 そして、この段では、金や出世や知識欲まで激しい語調で切り捨てているくせに、女性の魅力についてはまったく否定していないし触れようともしない。

 ま、なんにしろ38段で一区切りついた。
 だから「おセンチ無常編」はこれで終わり、39段からは「疾風怒濤編」となる。
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<受け売り>

『名利』(みゃうり)
 名誉と利益。

『閑かなる暇』(しずかなるいとま)
 心を落ち着ける余裕。

『まどし』
 貧しい、この段では不十分の意。

『金玉の飾り』(きんぎょくのかざり)
 つい、キンタマのかざりと読みたくなるが「きんぎょくのかざり」と読むように。
 金は金銀貴金属。玉はキラキラ宝石。
 金銀珊瑚宝石の飾りの意。
 でも、キンタマの飾りがもし実在するならどんな物だか見てみたい。

『うたて』
 もとは「うたかた」からきている言葉だと言う。
 いたたまれない気持ちをあらわす副詞。

『人の聞き』
 世間の評判。

『可・不可は一条なり』
 可・不可と区別されるものは、たんなる良いか悪いかの区別にすぎず、同じ流れの物であると言っている。例えば正義や悪なんて、敵味方の立場によってコロコロと変わってしまう。同じ物を、違う価値観で良いとか悪いとか判断することを言っている。「荘子」思想の要約である。


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