風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ。
されば、白き糸の染まんことを悲しび、路のちまたの分れんことを歎く人もありけんかし。堀川院の百首の歌の中に、
昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして
さびしきけしき、さる事侍りけん。
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<口語訳>
風も吹き過ぎずうつろう、人の心の花に、馴れた年月を思えば、哀れと聞いた言の葉ごとに忘れないものだから、我が世の外になりゆくならいこそ、亡き人の別れよりも勝って悲しきものだ。
然れば、白い糸の染まることを悲しみ、路の岐のわかれることを嘆く人もあったのか。堀川院の百首の歌の中に、
昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして
( 昔見た 妹の垣根は 荒れてたよ つばなまじりの すみればかりで)
さびしい景色、然る事あったのでしょう。
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<意訳>
人の心の花は、風も吹き過ぎぬうちに移ろいゆく。
慣れ親しんだ月日を思うなら、愛おしく聞いた言葉の数々を忘れるはずはない。なのに、だんだんと忘れて行く自分が亡き人との別れよりも強く悲しい。
取り返しがつかないからこそ、白い糸の染まる事を悲しみ、道が左右に別れる事を嘆く人もいるのか。
堀川院の選んだ百首の歌に、『昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして』という歌があるが、そのさびしい景色に共感を覚える。
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<感想>
うわっ!
前段の25段をはるかにしのぐ、超メートル級のおセンチぶりで、そのスケールは30センチ物差しではもはやセンチメンタルが足りなすぎて、巻き尺が必要だ。「メートル法師」と書いた張り紙でも背中に張ってやろうか。
しかし、なんだろねぇこのおセンチっぷりは、解読している俺の方がなんだかアチコチ痒くなってくるよ。
第26段の主題は、亡き人である。
解りにくい内容なので解説しよう。
人の心は移ろいやすい。
大事な事でもすぐ忘れる。
でも、亡き人と過ごした日々の記憶だけは忘れるもんか!
なのに、ボロボロと亡き人の記憶が抜け落ちて行く。
それが、亡き人の死よりも数倍悲しい。
もはや、亡き人がいない以上は忘れたら取り返しがつかない。
亡き人がいた、その庭だけが最後の記憶なのにその庭が荒れていたよという歌に共感を覚える。
ちゅう内容がこの段。
ね、おセンチでしょ。
巻き尺も必要でしょ。
兼行は、出家して精神的に自由になった引き換えに過去の記憶に束縛された時期があったらしい。忙しい時には考えないような事もヒマだとつい反芻しちゃたりするからね。
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<解説>
『白き糸の染まんことを悲しび、路のちまたの分れんことを歎く人』
漢詩からの引用。
白い糸は染めたら取り返しがつかない、別れ道で一本の道を選べばその道以外の道はもう歩けない。選択するたびに捨ててしまうもう片方の選択、その捨てられた選択の儚さを嘆いているというのが本来の意味らしい。だが兼好は、取り返しがつかないという事に注目して引用しているようだ。
『堀川院の百首の歌の中に』
堀川って天皇を引退して坊主になった人が、100人の人間にお題をつけて歌を詠ませた。その歌の中にという意味。
『昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして』
まず「妹」は、萠ぇ~のイモウトではない。
イモと読む。男が愛する女を呼びかける時に使った。妻・愛人・恋人系が当時の「妹」だ。「イモ~ォ!」と叫びながら昔の男は愛する女性に近づいて行ったらしい。なんだか神秘的でさえある。
次に「つばな」だが、ちがやという花であるらしい。
それで、「菫」はスミレと読むそうだ。
良く知らないけど、とにかく昔の人は、ちがや咲きほこりポツポツとスミレが咲いている状態を庭の手入れが行き届いていないと感じたのだろう。
ようするに、むかし愛した女んちの垣根がボーボーだったyo!
という意味の歌らしい。
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