この俺がマクドナルドに行けば、店員の女の子は俺に、愛らしい0円の笑顔をむけてくれたり、ごいっしょにポテトなどをすすめてくれる。
だが、その俺が、帰宅途中に、駅でその彼女に出会ったとしても、彼女はポテトもすすめてくれないし、0円の笑顔も向けてくれない。
シカトされるだけ。
当たり前の話で、彼女は仕事だから、お金を貰えるから、どんなお客にでも笑顔で接してくれるのであって、一歩店を出たら、もう関係ない。
彼女にとって、マクドナルドの店員である事は、ある意味で演技である。
しかし、演技をしているのは、彼女だけでない。
お客である俺も、お客さんらしい演技をしているから、マクドナルドで買い物できるのだ。
もしもであるが、この俺が、店員に包丁を突きつけて、
「ハンバーガーのセットを出せ!!」
と、要求したならば、たとえ金を払うつもりでいても、確実に強盗と間違えられる。
なぜなら、明らかにふるまいが強盗で、ぜんぜん客らしくないからだ。
買い物をしたいなら、客らしいふるまいをしないと警察に通報されかねない。
ようするにだ!
じつは、男も女も、男の役割や女の役割を演じているだけに過ぎない。
と、俺は思っている。
てか、あらゆる人間関係は、互いになんらかの役割を演じる事で成り立っているのではないのかなと、俺は思う。
すべては、子供のやるごっこ遊びと同じで、構成員が常に何らかの役割りを演じる事でしか、人間の共同体は維持できないんじゃないのと思っている。
男や女なんてのも、役割分担にすぎないと思う。
ただ、男とか女とかってのは、最も初期から子供に要求される役割分担なので、ついつい、男である事や女である事が自分の本質だと勘違いしやすい。
では、
だいたい、どのくらい、人間のオスメスには性差があるのかと考えてみる。
明らかに、肉体は違う。ホルモンも違うそうだ。
肉体的な男女の違いは、確実にある。
では、精神的に人間のオスとメスはどれだけ違うのだろうか?
俺は精神的には、人間のオスメスは、ほとんど違いが無いと考えている。
男らしい言動も、女らしい言動も、しょせんは身に付いた『らしさ』である。らしさに本質は無いと思う。
とはいえ、脳の仕組みやホルモンは違うんだから、身体だけでなく精神にも性差があるはずなんだけれども、その性差は、動物としての人間にどれほど影響を与えるものなんだろうか?
それは、人間のオスメスで、考え方がまるきり変わってしまうほどの違いだろうか?
例えば、男に比べて、女は海馬体が発達していて右脳と左脳の連絡が良いと言われている。だが、そんなことで男と女は決定的に違ってしまうのか?
男と女の脳ではたしかに違いがある。
だが、その違いは、ほとんど個人の訓練次第でどうでもなるような違いとしてしか現れない。
そんなの、確実な性差とは言えないと思う。
有名なところでは、地図が読めない女・人の話を聞かない男ってのがあるけど、地図が読めない男や、人の話を聞かない女なんかはいくらでもいる。
女の子の方が男の子より言語能力が優れていると言われるが、それだって、おしゃべりな男の子もいるし、無口な女の子もいる。
男の子の方が空間把握能力が優れていると言われる。
だが、それも個人差で、女の子でも空間把握能力が優れている子は当然にいて、精神的能力というものは性差よりも個人差の方が大きい。
だいたい、男女の違いを語られる脳の部分は、ほとんどが新脳皮質であり、根本的・動物的である旧脳皮質に男女の違いがあるとはあまり聞かない。
性差なんてのは、しょせん全てジェンダーじゃないの?
なにもかも演技なんだよ。
らしくふるまってんだけじゃねーの?
性同一障害は、世間から押し付けられるジェンダーを、認められないが為に起こる病気だと思う。
何事も訓練である。
例えば、よく男の人は、チンコ以外に感じないと言う人が多い。
だが、性感帯にオスメスの違いは無い。
男だって訓練次第で乳首や首筋が性感帯になる。
鍛錬すれば男だってぞくぞくっとするのだ。
あーん。
だが、その俺が、帰宅途中に、駅でその彼女に出会ったとしても、彼女はポテトもすすめてくれないし、0円の笑顔も向けてくれない。
シカトされるだけ。
当たり前の話で、彼女は仕事だから、お金を貰えるから、どんなお客にでも笑顔で接してくれるのであって、一歩店を出たら、もう関係ない。
彼女にとって、マクドナルドの店員である事は、ある意味で演技である。
しかし、演技をしているのは、彼女だけでない。
お客である俺も、お客さんらしい演技をしているから、マクドナルドで買い物できるのだ。
もしもであるが、この俺が、店員に包丁を突きつけて、
「ハンバーガーのセットを出せ!!」
と、要求したならば、たとえ金を払うつもりでいても、確実に強盗と間違えられる。
なぜなら、明らかにふるまいが強盗で、ぜんぜん客らしくないからだ。
買い物をしたいなら、客らしいふるまいをしないと警察に通報されかねない。
ようするにだ!
じつは、男も女も、男の役割や女の役割を演じているだけに過ぎない。
と、俺は思っている。
てか、あらゆる人間関係は、互いになんらかの役割を演じる事で成り立っているのではないのかなと、俺は思う。
すべては、子供のやるごっこ遊びと同じで、構成員が常に何らかの役割りを演じる事でしか、人間の共同体は維持できないんじゃないのと思っている。
男や女なんてのも、役割分担にすぎないと思う。
ただ、男とか女とかってのは、最も初期から子供に要求される役割分担なので、ついつい、男である事や女である事が自分の本質だと勘違いしやすい。
では、
だいたい、どのくらい、人間のオスメスには性差があるのかと考えてみる。
明らかに、肉体は違う。ホルモンも違うそうだ。
肉体的な男女の違いは、確実にある。
では、精神的に人間のオスとメスはどれだけ違うのだろうか?
俺は精神的には、人間のオスメスは、ほとんど違いが無いと考えている。
男らしい言動も、女らしい言動も、しょせんは身に付いた『らしさ』である。らしさに本質は無いと思う。
とはいえ、脳の仕組みやホルモンは違うんだから、身体だけでなく精神にも性差があるはずなんだけれども、その性差は、動物としての人間にどれほど影響を与えるものなんだろうか?
それは、人間のオスメスで、考え方がまるきり変わってしまうほどの違いだろうか?
例えば、男に比べて、女は海馬体が発達していて右脳と左脳の連絡が良いと言われている。だが、そんなことで男と女は決定的に違ってしまうのか?
男と女の脳ではたしかに違いがある。
だが、その違いは、ほとんど個人の訓練次第でどうでもなるような違いとしてしか現れない。
そんなの、確実な性差とは言えないと思う。
有名なところでは、地図が読めない女・人の話を聞かない男ってのがあるけど、地図が読めない男や、人の話を聞かない女なんかはいくらでもいる。
女の子の方が男の子より言語能力が優れていると言われるが、それだって、おしゃべりな男の子もいるし、無口な女の子もいる。
男の子の方が空間把握能力が優れていると言われる。
だが、それも個人差で、女の子でも空間把握能力が優れている子は当然にいて、精神的能力というものは性差よりも個人差の方が大きい。
だいたい、男女の違いを語られる脳の部分は、ほとんどが新脳皮質であり、根本的・動物的である旧脳皮質に男女の違いがあるとはあまり聞かない。
性差なんてのは、しょせん全てジェンダーじゃないの?
なにもかも演技なんだよ。
らしくふるまってんだけじゃねーの?
性同一障害は、世間から押し付けられるジェンダーを、認められないが為に起こる病気だと思う。
何事も訓練である。
例えば、よく男の人は、チンコ以外に感じないと言う人が多い。
だが、性感帯にオスメスの違いは無い。
男だって訓練次第で乳首や首筋が性感帯になる。
鍛錬すれば男だってぞくぞくっとするのだ。
あーん。