墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

シリアとジェンダー

2007-10-26 18:22:03 | 駄目
 俺にも、知り合いがいる。3人ほどいる。
 その知り合いのうちの1人が、つい先日、海外のシリアに旅立った。
 あのシリアである。
 って言うか、俺はシリアがどこらへんにあるのか知らない。
 だけど、きっとどっかにシリアはあるから知り合いは旅立ったのだと思う。
 慣れない海外旅行で、知り合いが、生水を飲んでお腹をこわしたり、オオアリクイに襲われたり、未知の風土病で倒れていたりはしないかと、すごく心配だ。
 だが、そんな事はどうでも良い。
 俺には、もっと大切な言いたい事がある。
 言おう。

 いま、知り合いがシリアにいる。

 言うだけ言ったら気がすんだので、本題に入ろう。

 人間は男に産まれるのでない。男になるのだ。
 こう言うとかっこいいけど、実際にはなると言うより、させられる。

 人間だって動物だから、生物的なオスメスの区別は当然ある。この生きもんとしてのオスメスの違いを、セックスと言う。
 それと区別して、生物的なオスメスとは関係ない、男やら女らしいふるまい・かっこうをすることをジェンダーと言う。

 男が射精したり、声変わりすること。
 女が子供を産んだり、お乳が大きくなること。
 これらはセックスの違いによる、生物的な自然の行いである。

 だけども。
 自分のことを、男が「俺」と言い、女が「私」と言う。
 男がふんどしをしめて、女がスカートをはく。
 などは、生物的には本来はどうでも良いことであり、べつにちょっと恥ずかしいけれども、男が「わたし」と言ったり、女が「おれ」と言ったりとか、あるいは、男がスカートをはいたり、女がふんどしをしめたりしても、命に別状はない。
 こんなことで人間は死にはしないし、スカートをはいたからと男が女になることも絶対にない。
 こういう、命に別状も無く、やろうと思えば男でも女でも出来る程度の男女の違いは全てジェンダーである。それが、ジェンダーなのだ。

 生物的なオスメスの違いは絶対である。見た目を変えられたとしても内容はもう絶対に覆せない。
 だが、ジェンダーなんか、冗談みたいなもんである。屁である。おならプーだ。社会的な男や女など、ところ変われば品かわる。いい男やいい女の地域差はものすごく大きい。

 あなたは、動物園の猿山を見学して、全ての猿の性別を確実に区別することが出来るだろうか?
 見た目の性差が少ない猿だと、発情期や育児中でない限り、その行動ではなかなか区別できないと思う。
 人間も、本来の生物としての性差は、その程度のものだと思うのだ。俺は、男も女も、生殖のとき以外は生物的にはほとんど変わらない生き物だと思っている。
 例えば、言葉を理解する前の赤ん坊なんかオスメス区別つかないが、親の言うことを理解しはじめると、とたんに男の子や女の子らしくなる。
 社会が、世間が、親が、男らしさや女らしさを、子供に刷り込むのではないかと俺は思う。いや、そうだろう。そうでないですか? 


金曜の朝

2007-10-26 05:47:03 | インポート
 夜中に雨が降ったようだが、今はやんでいる。風は弱く、外に出ると昨日の朝より暖かく感じる。ぎりぎりでいつもの時間の通勤電車に乗り込むと、座席がホカホカで暖かい。両隣に座った人はどちらも居眠りしている。


違うという事

2007-10-26 01:41:10 | 駄目
 外国帰りの帰国子女は、子供達にとって明らかに異物である。
 家庭に地域や学校という狭い無菌室で育った子供達にとって、異物が自分達の内部に混入すると居心地が悪い。なんとなくチクチクする。

 そこで、あくまで、正義感で、多くの子供がやんわり違和感を示す。
 あんたみたいな違うのが紛れ込んでいると居心地が悪いから、私らと同じになりなさいよと言葉で言うなり態度で示す。
 均一の中に異物が紛れ込むと、秩序を乱す『悪』と認識されてしまう。
 こうなると、たちまち不満を爆発させる場所のなかった一部の子供が嬉々として白血球の役をすすんで受け入れる。白血球は、異物を攻撃する。

 異物がもし、ヨーロッパから来た外人ならどうだろうか?
 居心地の悪さは一緒だけど、受け入れられない自分達が悪いのだと、仲良くなろうとするかもしれない。なにしろ、見た目が全く違うから、多少の違いは当然だと認めざるえないから。

 現在では、イジメられるのはイニシェーションみたいなもんで、誰もがいじめられて当然な時代。
 いじめっこがいじめられっこに簡単に転落する。学級において絶対にいじめられない立場などなく、多少の差異や失言で簡単にいじめられる。
 だから、別にいじめたくはないけど、現在では、いじめられっこでない事を証明するためにいじめをするそうだ。
 俺は、ドングリが背比べするような時代に育った。
 今は、桃がお互いにつつきあっている時代だ。
 ドングリならともかく、桃はつつかれるのはつらい。つつかれたところから腐るし。だったら、つつかれる前に、自分はつつく側の人間だと表明しておいた方が良いし、その為なら、他の桃をつつくことに躊躇は無い。自分がつつかれるよりはましだから。
 現在の子供は、個の意識が、俺たちの子供時代より強いようだ。
 自分が教室の一員でなく、ただの個人だと自覚すると、教室の級友はお友達でなく他人となる。自分の身は自分で守るのだ。誰も基本的に自分を守らない。
 1人でも平気だもんって人間は強い人間だ。
 あるいは馬鹿である。

 個人である事が当たり前の国で育った人には当たり前なんだろうが、この国の子供にはまだ当たり前ではなく、たちまちのぼったはしごを外されたような気分になる。
 自分の帰属集団をもたない子供は、むきだしの桃のように傷つきやすく、被害者意識も強くなる。まだ、子供が個人として生きるのが当然であるほどには、この国で人間は個人であるという意識は強いものではないようだ。お互いに個人同士であり、違うのは当然だとして認めあうレベルに達していないように思う。

071025