外国帰りの帰国子女は、子供達にとって明らかに異物である。
家庭に地域や学校という狭い無菌室で育った子供達にとって、異物が自分達の内部に混入すると居心地が悪い。なんとなくチクチクする。
そこで、あくまで、正義感で、多くの子供がやんわり違和感を示す。
あんたみたいな違うのが紛れ込んでいると居心地が悪いから、私らと同じになりなさいよと言葉で言うなり態度で示す。
均一の中に異物が紛れ込むと、秩序を乱す『悪』と認識されてしまう。
こうなると、たちまち不満を爆発させる場所のなかった一部の子供が嬉々として白血球の役をすすんで受け入れる。白血球は、異物を攻撃する。
異物がもし、ヨーロッパから来た外人ならどうだろうか?
居心地の悪さは一緒だけど、受け入れられない自分達が悪いのだと、仲良くなろうとするかもしれない。なにしろ、見た目が全く違うから、多少の違いは当然だと認めざるえないから。
現在では、イジメられるのはイニシェーションみたいなもんで、誰もがいじめられて当然な時代。
いじめっこがいじめられっこに簡単に転落する。学級において絶対にいじめられない立場などなく、多少の差異や失言で簡単にいじめられる。
だから、別にいじめたくはないけど、現在では、いじめられっこでない事を証明するためにいじめをするそうだ。
俺は、ドングリが背比べするような時代に育った。
今は、桃がお互いにつつきあっている時代だ。
ドングリならともかく、桃はつつかれるのはつらい。つつかれたところから腐るし。だったら、つつかれる前に、自分はつつく側の人間だと表明しておいた方が良いし、その為なら、他の桃をつつくことに躊躇は無い。自分がつつかれるよりはましだから。
現在の子供は、個の意識が、俺たちの子供時代より強いようだ。
自分が教室の一員でなく、ただの個人だと自覚すると、教室の級友はお友達でなく他人となる。自分の身は自分で守るのだ。誰も基本的に自分を守らない。
1人でも平気だもんって人間は強い人間だ。
あるいは馬鹿である。
個人である事が当たり前の国で育った人には当たり前なんだろうが、この国の子供にはまだ当たり前ではなく、たちまちのぼったはしごを外されたような気分になる。
自分の帰属集団をもたない子供は、むきだしの桃のように傷つきやすく、被害者意識も強くなる。まだ、子供が個人として生きるのが当然であるほどには、この国で人間は個人であるという意識は強いものではないようだ。お互いに個人同士であり、違うのは当然だとして認めあうレベルに達していないように思う。