「そうは思わないか?」
死神が言う。
「そうかも」
「だよなぁ。愛に本当もクソもミソもない。だろ?」
「かも」
「よって、『本当の愛』は否定された!」
「オイ!」
「そうは思わないか?」
死神が言う。
「そうかも」
「だよなぁ。愛に本当もクソもミソもない。だろ?」
「かも」
「よって、『本当の愛』は否定された!」
「オイ!」
死神は言った。
愛を否定してみせようと。
その前に『本当の愛』を否定してみせると語りだした。
そして、死神は言葉の迷宮にハマった。
死神は、誰もが同じ意味を共有しているつもりでも実はされていない言葉があるんだと説明しながらも、意味を共有できていない言葉に自分ではまりこんだ。
死神は『本当の愛』という言葉を否定しようとして、まず『本当』の意味を解体しようとして、つまづいた。
死神は勘違いしていたのだ。
本当は、『愛』なんかより、『本当』なんていう普通の概念の方がよほど手に負えない化け物のような言葉なのだ。
誰もがふつうに平気で使っているのに、誰もが同じ意味で使っているのかが疑問な言葉。それこそ『本当』。
『本当』の意味は本当にあいまい。
『本途』とか『本統』などの当て字もある。
古語辞典に『本当』の項目はないから新しい言い回しなのだろうけど語源は分からない。
何が本当なのか分からない。
辞書を引く。
偽の反対なら真。
偽りの反対は誠。
虚の反対は実。
虚偽の反対なら真実。
悪の反対は善。
悪いの反対は良い。
なのに『本当』に対応する反対語は無い。
また、嘘の反対語もない。
本当と嘘は対応してない。
本当と嘘はそれぞれ別の概念であるらしい。
素直に考えると、『本当』の反対は『嘘』のような気もするけど、本当の反対はない。ただ『本当』が本当にあるだけ。
もう、ただ『本当』は本当であるのだ。
それ以外の意味はない。
あえて、言い換えるなら、『当たり前』が、『本当』の意味に近いだろう。
なら、『本当の愛』は『当たり前の愛』という意味か?
かもしれないな。
なら、否定はできない。
当たり前を否定するのは無理だ。てか、しても無意味だ。
当たり前は、当たり前だと思う人の数と同じ程ある。
それぞれの当たり前がそれぞれのスタンダード。
けっして、誰にとっても標準な当たり前となる事はない。
同じ物に対する姿勢でも、個人の見方で生き方まで変わる。
例えば、欲望。
自分の欲望に対するとらえ方1つで、生き方まで変わる。
前向きに生きるなら、自分の欲望を否定してはいけない。欲望に遠慮しちゃいけない。欲望を認めるのが前向きな生き方だ。
良く言われるシンキングな考え方にしても、ポジとネガは、欲望に対する姿勢の裏返し。
欲望に対して前向きな思考方法がポジで、裏を向いているのがネガ。
同じ物をどう扱うかで、生き方まで変わる。
どっちにしろ欲望からは逃れられない。
まぁ、なんにしろ。
死神が口を開いた。
「愛に本当もクソもない!」