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墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

徒然草 第二十五段 飛鳥川

2006-07-02 20:55:52 | 新訳 徒然草

 飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび・悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ。桃李もの言はねば、誰とともにか昔を語らん。まして、見ぬ古のやんごとなかりけん跡のみぞ、いとはかなき。
 京極殿・法成寺など見るこそ、志留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族のみ、御門の御後見、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門・金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ。金堂は、その後、倒れ伏したるままにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、その形とて残りたる。丈六の仏九体、いと尊くて並びおはします。行成大納言の額、兼行が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。

 されば、万に、見ざらん世までを思ひ掟てんこそ、はかなかるべけれ。

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<口語訳>

 飛鳥川の淵瀬 常ない世であるから、時移り、事去り、楽しみ・悲しみ行き交いて、華やかであった辺りも人住まぬ野原となり、変わらぬ住家は人改まる。桃李もの言わねば、誰とともに昔を語ろうか。まして、見ぬ古の止むことなかっただろう跡のみが、いたく儚い。
 京極殿・法成寺など見ると、「志留マリ、事変」であった様子は哀れである。御堂殿の作り磨かせられて、荘園多く寄せられ、我が一族のみ、御門の御後見、世の固めにて、行末までと思われおかれた時、いかなる世にも、こればかりあせ果てるとは思われたか。大門・金堂など近くまであったが、正和の頃、南門は焼けた。金堂は、その後、倒れ伏したままで、とり建てる事もない。無量寿院ばかりが、その形として残る。一丈六尺の仏九体、いたく尊く並びおられます。行成大納言の額、兼行が書いた扉、なお鮮かに見えるのが哀れである。法華堂なども、まだあるようだ。これもまた、いつまでかあろう。そればかりのなごりすらない所々は、おのずから、粗末な礎ばかり残るもあるが、さだかに知る人もない。
 然れば、全てに、見れぬような世までを思い定めるのこそ、儚かろう。

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<意訳>

 飛鳥川の淵瀬のように常などない世であるから、時は移り、事は去り、楽しみ悲しみが行き交う。
 華やかであった辺りも人の住まない荒れ野となり、変わらずにある家は住む人が改まる。
 桃李もの言わねば、誰とともに昔を語ろうか。
 まして、遠い過去の止むことのなかったはずの繁栄の跡はとても儚い。

 御堂殿が、贅を尽くして造らせた京極殿や法成寺などを見ると、その志は残るのに荒れ果てた有様は哀れである。荘園を多く寄進され、我が一族のみが天皇の後見役にして天下の固めである、その行く末までもと思われていた繁栄の時、いかなる時代にこのように荒れ果てると思われただろうか。
 大門や金堂などは最近まであったが、正和の頃に残っていた南門も焼けた。金堂はその後も倒れ伏したままで、再建するすべもない。
 無量寿院ばかりがその形を残し、一丈六尺の仏が九体とても尊く並んでおられる。行成大納言の額、兼行の書いた扉などが、なお鮮かに残っているのは哀れだ。
 法華堂なども、まだ残っているようだが、これもまたいつまで残るだろう。
 そのような痕跡すら残せなかった所は、自ずから朽ち果てた礎ばかりをさらしている。その由縁をさだかに知る人もいない。

 だから、すべてにおいて、見果てぬ先まで思い定めて生きるのは儚い事なのだろう。

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<感想>

 この第25段の兼好もちょっぴりおセンチが入っている。
 おセンチ混入のおセンチ法師で、そのおセンチはすでにメートル級!
 もはやこのおセンチぶりに対抗できるのは、ミリ単位のミリ法師ぐらいではなかろうか?
 ぶっちゃけここまでおセンチだと、もはや兼好法師ではなく「おセンチ法師」と改名しても特に何ら別に問題すらないようにさえ思われる。俺が高校生なら、「古典」の答案用紙に『徒然草』の作者は「おセンチ法師」と解答したいぐらいだ。まぁ、確実にバツだろうけど。

 ところで、この段に登場する京極殿や法成寺を建てたという「御堂殿」とは誰であろうか?

「この世をば わが世ととぞ思ふ 望月の 欠けたることの なしと思へば」で有名な、そう、今まで内緒にしてきたが、「御堂殿」の正体は「藤原道長」である。最高に栄華を極めた史上最高の朝臣、その藤原道長が御堂殿なのである。
 道長は出家した後、「御堂殿」とか「御堂関白」などと呼ばれた。
 かなり仏教に入れこんでいたらしく、死後は私有財産として持っていた荘園のほとんどを寺に寄進した。
 兼好は、この段で平安時代に繁栄のかぎりを極めた「藤原道長」の住居跡の衰退した様子を哀れに語る。
 この段の舞台のひとつ「京極殿」は道長の邸宅。「法成寺」は、出家した道長が自分のために開いたお寺で、壮大な敷地を持つ豪華な寺であったらしい。しかし、その法成寺もすでに兼好の生きた時代には寺門は全て焼け落ち、本堂も崩れ落ちたままで再建のメドすらたってはいなかった事が、本文から読み取れる。
 さらに兼好の時代から600年以上もすぎた現在の京都には、もはや京極殿と法成寺は残っていない。寺町通りに「法成寺跡」の石碑だけが残るそうだ。
 ちなみに、藤原氏は「吉田神社」の氏子で最大のスポンサーだった。そういう関係からも、藤原氏の衰退は兼好にとって全くの他人事とは思えなかったのだろう。

 第25段は、詩歌からの引用が多くかなりおセンチな描写で、栄華を極めた者の衰退をもの悲しく語る。『徒然草』後半の兼好と比べるととても解りやすい無常観でやや物足りなくも感じるが、『徒然草』は兼好の精神的な成長の物語でもある。だから、この段はこれでいいのだろう。

 行け兼行!
 進め兼行!
 明日はどっちだ!
 あぁ、そっちは昨日だよ。

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<解説>

『飛鳥川の淵瀬』
 奈良県にある川の名前。語呂が良いので良く歌に詠まれた。
 淵瀬は、川の深いところと浅いところ。
 飛鳥川は、流れが速くてしょちゅう流れを変えていたらしい。

『桃李もの言はねば』
 漢詩からの引用。桃や李は、毎年咲くのになんにも語らないよねということ。

『京極殿』
 藤原道長の邸宅。道長が死んで13年目に焼失したと伝えられる。

『法成寺』
 藤原道長の建てた寺。出家後の道長が住んでいた。
 この世に出現した「極楽」とまで言われたほどすごい寺であったらしい。

『志留まり、事変じにける』
 漢文からの引用なので解りにくい一節。
 志はとどまり、状況は激変してるみたいな意味か。

『御堂殿』
 藤原道長。

『正和の比』
 正和の頃(1312年~1317年)、正和は年号。

『無量寿院』
 阿弥陀堂、道長はここで亡くなったと伝えられる。

『丈六の仏九体』
 一丈六尺(約4・8メートル)の仏像が9体、無量寿院に安置されていた。

『行成大納言の額』
 藤原行成の書いた額、行成は能書家。

『兼行が書ける扉』
 源兼行が扉に書いた書、兼行も能書家。

『法華堂』
 法華ざんまいする場所。


徒然草 第二十四段 斉宮

2006-06-28 19:07:59 | 新訳 徒然草

 斎宮の、野宮におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか。「経」「仏」など忌みて、「なかご」「染紙」など言ふなるもをかし。
 すべて、神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。もの古りたる森のけしきもただならぬに、玉垣しわたして、榊に木綿懸けたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮。

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<口語訳>

 斎宮の、野宮に御座います有様こそ、やさしく、面白い事の限りとは覚えた。「経」「仏」など忌みて、「なかご」「染紙」など言うのもおかしい。
 すべて、神の社こそ、捨てがたく、なまめかしいものでないか。もの古びた森の景色もただならなくに、玉垣わたして、榊に木綿懸けるなど、すごくないか。殊におかしいのは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮。

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<意訳>

 斎宮が、野宮に滞在しておられた様子は、優美でたいへん感心させられた。神域である野宮では、「経」や「仏」などの言葉を忌み「なかご」「染紙」などと言い換えられており趣きがあった。

 すべての神社は、捨てがたい自然な美しさを持つ。うっそうと古木の茂る森はただならなく、玉垣はりめぐらし、榊に御幣たなびく風景は凄まじいほどだ。
 特に趣きある神社は、伊勢、賀茂、春日、平野、住吉、三輪、貴布禰、吉田、大原野、松尾、梅宮。

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<感想>

 兼好の時代。新しい天皇が即位する度に、皇族の若い未婚の娘から「斎宮」が選ばれた。斎宮は、京都から伊勢に下り、伊勢神宮で天皇にかわり朝廷の平安を祈り天照大神を祭った。
 伊勢神宮にこもる前の斎宮が、一定期間、身を清める為にこもるのが「野宮」である。

 兼好は、京都の吉田神社に仕える卜部一族の出身であった。父や兄弟は朝廷で神祇官を勤めていた。「神社の子」は、兼行を理解するキーワードの一つである。
 神や天皇を敬うように教えられて育った子供が、神や天皇を敬うのは当然のこと。しかし、この文章を書いた時の兼行は、たぶんだけど、すでに法師なのである。神社の子だったんだけど、この段を書いた時には仏門の人。だから、この段を書いた時には、今の自分は一歩離れて神や天皇を見ていますよというポーズが必要だった。坊主にもポーズが必要だ。

 神道の基礎知識を持つ兼行は、神道の神域内で仏の教えは「邪教」として忌み嫌われていたのは当然に知っていただろう。
 だから、わざと間違えて逆に書いたのではないだろうか。
 本当は、「仏」が「なかご」で、「経」を「染紙」と言い換えていた。だけど、この24段の本文ではそれを逆に書いてある。どっちがどっちなんだか、よく分からないようにはぐらかしている。

 説明の為に、テキストとしている『新訂 徒然草』(岩波書店)にある解説を引こう。

『およそ、忌みことば、うち七言、仏は中子(ナカゴ)と称し、経は染紙と称し、塔は阿良良岐(アララギ)と称し、寺は瓦葺きと称し、僧は髪長と称し、尼は女髪長と称し、斎(イモヒ)は下膳(カタシキ)と称す(以下略)』(『延喜式』第五)

 そういった忌み言葉を、神社の子である兼好は良く知っていたはずだ。
 でも、今は仏門の人間であるから、神社の事なんか詳しくないよという態度を示したくて、わざと間違えて書いた可能性もある。

 だがまぁ、なんだろうとも、神社は「捨て難く、なまめかしき」神域に思えると兼好は書いている。
 まぁ、とにかく、兼好にとって神や天皇は信仰そのものだったのだろう。
 そして、どうやら、兼好は実際に斎宮が野宮にこもっているのを実際に見た事があったらしい。
 その記憶を元に、慣れ親しんだ神社の風景を思い出しつつ、昔をセンチメンタルに懐かしんで書いているのがこの段だ。

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<丸写し解説>

『斎宮』(さいぐう)
 天皇の即位の度に選定され、伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女。

『野宮』(ののみや)
 斎宮が伊勢神社に御仕えする前に心身を清め、けがれをさける為に一定期間こもった仮宮。

『玉垣』
 神社の周囲にはりめぐらした垣。材木を組み合わせて造り、屋根がついている。

『木綿』(ゆふ)
 木の繊維で造ったひも状の布。神に祈る時に供える。現在の紙製の御幣の元祖。

『伊勢』

 伊勢市の伊勢神宮。(←斉宮の目的地) 

『賀茂』
 京都市の賀茂別雷神社と賀茂御祖神社。

『春日』
 奈良市の春日大社。

『平野』
 京都市の平野神社。

『住吉』
 大阪市の住吉神社。

『三輪』
 奈良県桜井市三輪町の大神神社。

『貴布禰』
 京都市の貴船神社。

『吉田』
 京都市の吉田神社。(←兼行の本家)

『大原野』
 京都市の大野原神社。

『松尾』
 京都市の松尾神社。

『梅宮』
 京都市の梅宮神社。

参考「新訂 徒然草」西尾 実・安良岡康作校注 岩波書店

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<読解のために>

 占いで斎宮に決まると宮中内に設けられた初斉院で約一年間、つづいて嵯峨野の野の宮で約一年精進潔斉し、決まってから三年目の九月に天皇に「別れの」をさしてもらい、伊勢に旅立った。『源氏物語』<賢木>では、六条御息所の娘が斎宮になり、親子で野の宮で潔斉しているところを源氏が訪ねる場面や、「別れの」をさしてもらい出発する場面などが語られている。

 伊勢では、斎宮寮に居住し、天皇に代わって天照大神を祭った。日常生活は、仏事を避け、斎宮忌詞という特殊な言葉遣いをし、潔斉に務めた。『伊勢物語』<六九>では、斎宮と昔男との恋が語られている。

 天皇の交替か両親の死、および本人の過失などがあると任を解かれて帰京した。帰京後に入内して女御になった場合に斎宮女御と呼ばれることもあり、『源氏物語』では六条御息所の娘が、史上では徽子女王が村上天皇に入内してこの名で呼ばれた。

 なお、斎宮制度は天武天皇の時代に整備され、後醍醐天皇の時代に廃れた。

 「全訳読解古語辞典」 三省堂 より抜粋。


徒然草 第二十三段 衰へ

2006-06-26 19:03:04 | 新訳 徒然草

 衰へたる末の世とはいへど、なほ、九重の神さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ。
 露台・朝餉・何殿・何門などは、いみじとも聞ゆべし。あやしの所にもありぬべき小蔀・小板敷・高遣戸なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣に夜の設せよ」と言ふこそいみじけれ。夜の御殿のをば、「かいともしとうよ」など言ふ、まためでたし。上卿の、陣にて事行へるさまはさらなり、諸司の下人どもの、したり顔に馴れたるも、をかし。さばかり寒き夜もすがら、ここ・かしこに睡り居たるこそをかしけれ。「内侍所の御鈴の音は、めでたく、優なるものなり」とぞ、徳大寺大政大臣は仰せられける。

__________________________________

<口語訳>

 衰えた末の世とはいえども、なお、宮中の神びた有様こそ、世付かず、めでたいものである。
 露台・朝餉・何殿・何門などは、すごいとも聞こえるはず。下賤の所にもあるはずの小蔀・小板敷・高遣戸なども、めでたくこそ聞こえる。「陣に夜の設せよ」と言うのこそすごかった。夜の御殿でだ、「かいともしとうよ」など言う、まためでたい。上卿の、陣にて事行える様子はさらにである、諸司の下人どもの、したり顔になってるのも、おかしい。そればかり寒い夜もすがら、ここ・かしこに眠り居るのこそおかしかった。「内侍所の御鈴の音は、めでたく、優なるものである」とだ、徳大寺大政大臣は仰られたそうだ。

____________________________________

<意訳>

 朝廷の権威おとろえた末世とは言え、今なお、宮中の神々しい様子だけは世間と異なり、素晴らしいものである。

 宮中では廊下を「露台」、食堂を「朝餉」と呼んだ。
 ただ「なんとか殿」とか「なんとか門」など言っているのを聞いただけで、格好よく思えた。
 粗末な家にもあるような窓や板の間でさえ、宮中では、「小蔀」とか「小板敷」とか「高遣戸」などと呼ぶ。すごく素晴らしく聞こえた。
 宮中の詰め所で、「陣に夜の設けせよ」と言ってるは、格好よかった。
 夜の寝殿で、「明かりに火を灯せ」と言うのも、素晴らしかった。
 儀式の責任者である上卿が、詰め所で指揮をとる様子は、素晴らしかった。
 従う諸司の下級役人達の、したり顔で任務行う姿も、可笑しかった。
 これ以上ない寒い夜ふけに、あちこちで仮眠をとっている役人達の姿も、可笑しかった。

「内侍所の鈴の音は、めでたく優しい」

 と、徳大寺大政大臣は仰られたそうだ。

____________________________________

<感想>

 『徒然草』は、前段から新機軸を展開し始めた。この段は、その新機軸2回目である。

 分かりやすいようにカテゴリに分けてみよう。

 序段から18段までが、「青春・苦悩編」。
 兼好が、出家に至るまでの苦しい胸の内が書いてある。

 19段から21段までは、「出家ほやほや編」。
 出家したての兼好の、ホヤホヤ産みたての気持ちが書かれている。
 世を捨てて、季節を愛で空を眺める境地に自分で自分ながらやや感動している。

 そして、いきなり兼好は22段から過去の回想に戻る。
 出家して、捨て去ったはずの過去を、いきなり懐かしく語り出したのだ。
 何故。

 兼好は、出家前は朝廷の役人で宮中に出勤していた。前段と、この段では、宮中生活の回想が書かれている。でも、なんで捨てたはずの過去を懐かしく思い出すのだろう?
 もしかしたら。
 兼好は未練たらしいのだろうか!

 未練たらしいうんぬんは洒落として、どうやら兼好は、ややエキセンドリックな上に、ブルーがかりセンチメンタルな気分に♪ジャァーニィとなっているらしい。

 なぜ、センチメンタル?

 そのワケは先を読まないとわからない。

 分からないんだけど、とりあえずカテゴリに分けてみよう。『徒然草』は、第22段から「センチメンタル編」である。
 乞うご期待!

____________________________________

<解説>

『九重』
 漢語で、宮中・皇居のこと。

『神さび』(かむさび)
 神々しいありさま。「さび」は接尾語で、らしく振る舞うの意。

『世づく』
 男女関係に理解・適応した状態。
 世間並みであること。
 この段では、世俗にそまるの意。

『露台』(ろだい)
 渡り廊下。

『朝餉』(あさがれひ)
 天皇が簡単な食事をとる場所。

『何殿』
 なんとか御殿。
 宮中にある建物を指す。

『何門』
 宮中に多数ある門。

『いみじ』
 すごいとかすてきの意。

『あやし』
 この段では、卑しい者や、身分低い者を指す。

『小蔀』(こじとみ)
 小窓。

『小板敷』
 板の間。

『高遣戸』
 高いところにある遣戸。

『陣』
 宮中で、政務や儀式を行う人間がいる場所。

『夜の設』(よるのもうけ)
 夜の備え。

『夜の御殿』
 天皇の寝所。

『かいともし とうよ』(かいともし 疾うよ)
 「かいともし」は、油を浸した芯をもつ灯籠そのものか、あるいは、「火気灯し」と言っている。
 「とうよ」は「疾くせよ」を省略したもの。とにかく、「明かりに点火、早く!」と言っている。

『上卿』
 宮中行事の運営責任者。

『諸司の下人』
 各係受け持ちの下級役人。

『内侍所』(ないしどころ)
 三種の神器のひとつ「八咫鏡」を納めているところ。

『御鈴の音』
 天皇が内侍所の「八咫鏡」を参拝する時に、内侍所にひかえた女官が、三度鈴を鳴らしたと言う。
 この鈴の音を聞けるのは、天皇自身か、ごくお側に控える高官達だけ。兼好は聞いた事がなかっただろう。

『徳大寺大政大臣』
 兼好が、官職についていた時の「大政大臣」。

 衰へたる末の世とはいへど、なほ、九重の神さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ。
 露台・朝餉・何殿・何門などは、いみじとも聞ゆべし。あやしの所にもありぬべき小蔀・小板敷・高遣戸なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣に夜の設せよ」と言ふこそいみじけれ。夜の御殿のをば、「かいともしとうよ」など言ふ、まためでたし。上卿の、陣にて事行へるさまはさらなり、諸司の下人どもの、したり顔に馴れたるも、をかし。さばかり寒き夜もすがら、ここ・かしこに睡り居たるこそをかしけれ。「内侍所の御鈴の音は、めでたく、優なるものなり」とぞ、徳大寺大政大臣は仰せられける。

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<口語訳>

 衰えた末の世とはいえども、なお、宮中の神びた有様こそ、世付かず、めでたいものである。
 露台・朝餉・何殿・何門などは、すごいとも聞こえるはず。下賤の所にもあるはずの小蔀・小板敷・高遣戸なども、めでたくこそ聞こえる。「陣に夜の設せよ」と言うのこそすごかった。夜の御殿でだ、「かいともしとうよ」など言う、まためでたい。上卿の、陣にて事行える様子はさらにである、諸司の下人どもの、したり顔になってるのも、おかしい。そればかり寒い夜もすがら、ここ・かしこに眠り居るのこそおかしかった。「内侍所の御鈴の音は、めでたく、優なるものである」とだ、徳大寺大政大臣は仰られたそうだ。

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<意訳>

 朝廷の権威おとろえた末世とは言え、今なお、宮中の神々しい様子だけは世間と異なり、素晴らしいものである。

 宮中では廊下を「露台」、食堂を「朝餉」と呼んだ。
 ただ「なんとか殿」とか「なんとか門」など言っているのを聞いただけで、格好よく思えた。
 粗末な家にもあるような窓や板の間でさえ、宮中では、「小蔀」とか「小板敷」とか「高遣戸」などと呼ぶ。すごく素晴らしく聞こえた。
 宮中の詰め所で、「陣に夜の設けせよ」と言ってるは、格好よかった。
 夜の寝殿で、「明かりに火を灯せ」と言うのも、素晴らしかった。
 儀式の責任者である上卿が、詰め所で指揮をとる様子は、素晴らしかった。
 従う諸司の下級役人達の、したり顔で任務行う姿も、可笑しかった。
 これ以上ない寒い夜ふけに、あちこちで仮眠をとっている役人達の姿も、可笑しかった。

「内侍所の鈴の音は、めでたく優しい」

 と、徳大寺大政大臣は仰られたそうだ。

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<感想>

 『徒然草』は、前段から新機軸を展開し始めた。この段は、その新機軸2回目である。

 分かりやすいようにカテゴリに分けてみよう。

 序段から18段までが、「青春・苦悩編」。
 兼好が、出家に至るまでの苦しい胸の内が書いてある。

 19段から21段までは、「出家ほやほや編」。
 出家したての兼好の、ホヤホヤ産みたての気持ちが書かれている。
 世を捨てて、季節を愛で空を眺める境地に自分で自分ながらやや感動している。

 そして、いきなり兼好は22段から過去の回想に戻る。
 出家して、捨て去ったはずの過去を、いきなり懐かしく語り出したのだ。
 何故。

 兼好は、出家前は朝廷の役人で宮中に出勤していた。前段と、この段では、宮中生活の回想が書かれている。でも、なんで捨てたはずの過去を懐かしく思い出すのだろう?
 もしかしたら。
 兼好は未練たらしいのだろうか!

 未練たらしいうんぬんは洒落として、どうやら兼好は、ややエキセンドリックな上に、ブルーがかりセンチメンタルな気分に♪ジャァーニィとなっているらしい。

 なぜ、センチメンタル?

 そのワケは先を読まないとわからない。

 分からないんだけど、とりあえずカテゴリに分けてみよう。『徒然草』は、第22段から「センチメンタル編」である。
 乞うご期待!

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<解説>

『九重』
 漢語で、宮中・皇居のこと。

『神さび』(かむさび)
 神々しいありさま。「さび」は接尾語で、らしく振る舞うの意。

『世づく』
 男女関係に理解・適応した状態。
 世間並みであること。
 この段では、世俗にそまるの意。

『露台』(ろだい)
 渡り廊下。

『朝餉』(あさがれひ)
 天皇が簡単な食事をとる場所。

『何殿』
 なんとか御殿。
 宮中にある建物を指す。

『何門』
 宮中に多数ある門。

『いみじ』
 すごいとかすてきの意。

『あやし』
 この段では、卑しい者や、身分低い者を指す。

『小蔀』(こじとみ)
 小窓。

『小板敷』
 板の間。

『高遣戸』
 高いところにある遣戸。

『陣』
 宮中で、政務や儀式を行う人間がいる場所。

『夜の設』(よるのもうけ)
 夜の備え。

『夜の御殿』
 天皇の寝所。

『かいともし とうよ』(かいともし 疾うよ)
 「かいともし」は、油を浸した芯をもつ灯籠そのものか、あるいは、「火気灯し」と言っている。
 「とうよ」は「疾くせよ」を省略したもの。とにかく、「明かりに点火、早く!」と言っている。

『上卿』
 宮中行事の運営責任者。

『諸司の下人』
 各係受け持ちの下級役人。

『内侍所』(ないしどころ)
 三種の神器のひとつ「八咫鏡」を納めているところ。

『御鈴の音』
 天皇が内侍所の「八咫鏡」を参拝する時に、内侍所にひかえた女官が、三度鈴を鳴らしたと言う。
 この鈴の音を聞けるのは、天皇自身か、ごくお側に控える高官達だけ。兼好は聞いた事がなかっただろう。

『徳大寺大政大臣』
 兼好が、官職についていた時の「大政大臣」。


徒然草 第二十二段 何事

2006-06-23 20:48:13 | 新訳 徒然草

 何事も、古き世のみぞ慕はしき。今様は、無下にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる、うつくしき器物も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。
 文の詞などぞ、昔の反古どもはいみじき。ただ言ふ言葉も、口をしうこそなりもてゆくなれ。古は、「車もたげよ」、「火かかげよ」とこそ言ひしを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮人数立て」と言ふべきを、「たちあかししろくせよ」と言ひ、最勝請の御聴聞所なるをば「御請の廬」とこそ言ふを、「講廬」と言ふ。口をしとぞ、古き人は仰せられし。

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<口語訳>

 何事も、古き世のみが慕わしかった。今様は、無下にいやしくこそなって行くようだ。かの木の道の匠の造る、うつくしき器物も、古代の姿こそ風情あると見える。
 文の詞などだぞ、昔の反古共はすごかった。ただ言う言葉も、口おしくこそ成り持って行くのだ。古は、「車もたげよ」、「火かかげよ」とこそ言ったのを、今様の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言う。「主殿寮人数立て」と言うべきを、「たちあかししろくせよ」と言い、最勝請の御聴聞所になるのをだよ「御請の廬」とこそ言うのを、「講廬」と言う。口おしいぞと、古き人は仰られた。

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<意訳>

 何事でも、古い世は慕わしい。
 最近は、無駄に下品になっていくように見える。
 木の匠が造った美しい器も、古風な姿に趣がある。

 文章も、昔の人の文は、書き損じですらすごい。

 朝廷で使う言葉も、無様に成り果てていく。

 古くは、「車もたげよ」、「火かかげよ」と言った。
 今の人は、「もてあげよ」、「かきあげよ」と言う。

「主殿寮人数立て(主殿を守る者よ数たてよ!)」と言うべきを、
「たちあかししろくせよ(松明を白くせよ!)」と言う。

 僧を集め、天下太平を祈る「最勝請」の儀式の時、天皇の御座席は「御請の廬」と言うはずであったが、今では「講廬」と言っている。
 情けないことだと、古老は仰られた。

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<本人による感想>

 や、どもっ。俺が吉田兼好です。
 って、自分で自分を吉田兼好と認めてどうするw

 てなわけで、俺は、京都「吉田神社」の神祇官一族の出身ではあるんだけどさ、吉田家の一員だったんだけどね、でも、吉田家が吉田って改名したのは、南北朝の争いが済んだ後の、俺がとっくに死んだ後なのさ。
 俺は、吉田神社の神祇官一族の吉田家が、吉田に改名する前の、まだ卜部家と名乗っていた頃に分家をした祖父の孫だから、あくまで俺は「卜部 兼好」なんだよ。だから、他人から吉田呼ばわりされるいわれは一つもないし、だいたい俺は牛丼一筋かっての。あー、それは「吉野家」か。

 ところで、みんなついてきてるかな?
  今夜はビンビン飛ばすよ。ビュンビュンと!

 でさ、俺は坊主だからさ、世も捨てちゃってるから、出家した時に名字もすてちゃった。当時は、健康保険証も住民票も戸籍もないからさ、名字なんて、なくてもなんともなかった。
 で、俺の坊主のハンドルネームが、「兼好(けんこう)」なわけよ。
 なんだよ名前そのまんまかい!
 みたいな、しかるべきツッコミもあろうかとも思うが、そこはそこ、あそこはあそこで、ここはここ。

 実は俺って「かねよし」だったのよ。「卜部兼好(うらべ かねよし)」が出家前の名前で、字だけ同じで読み方のみ変えて出家した。だから、坊主である俺にゃ名字はない。捨てたからね。ぜひ、「けんこう」と気楽に呼んでくれたまえ。照れくさかったら「兼好法師」と呼んでもいいし、なんだったら「吉田兼好」でも許す。

 さて、今日は、自分で自分の文章を解説でもしてみようかな。
 本人だから鋭いよ。えぐっちゃうよグリグリ。

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<本人による解説>

 まぁ俺は昔っから、レトロがマイブームだったわけ。
 ちゅーか、古きにあこがれてた。
 そんでもって、当時の朝廷の格式や風俗なんて嫌いだった。
 だってだって、世は、お侍の時代なんだもん。鎌倉末期ですから!
 当時の京都朝廷の下級貴族なんて、侍から木の端ぐらいに思われていたんだよ。まだ、かろうじて文化の中心は京都にあったけど、すでに朝廷や天皇は鎌倉幕府の傀儡にすぎなかった。

 憧れるのは平安京の時代。
 俺は神社の子だからさ、純粋に天皇だけは尊敬していた。
 嫌いなのは、すでに朝廷なんて木の端なのに、それを理解せずに朝廷にしがみつく連中や、その連中のやることなすこと。
 すでに昔の優雅な物腰も言葉遣いも忘れ果て、何の実権もないくせに、貴族でございますみたいな顔してノホホンとしている連中は、許しがたいほどの馬鹿に見えた。

「かの木の道の匠が造れる、うつくしき器物も、古代の姿こそをかしと見ゆれ」
 と、この段にゃ書いてあるんだけど、これってどういう意味なんだっけ?
 俺さ、一応本人なんだけどさ、なにぶんにも700年前のことなんで、どんなつもりで書いたのかもう忘れちゃったよ。
 今になって読み返すと、かの木の匠って、どの木の匠だよと思うな。かの木の匠がどの匠なのか正確に思い出せないので、美しき器物がなんであったのかも、まったく思い出せない。我ながら謎の多い文章だ。

 この段の後半は、俺が朝廷に仕えていた頃に、古老から聞いたむかし話を書いてある。
 昔はこんな言いまわしをしたんだ。やっぱり昔はいいよね。という感動を、古老から聞いた話を思いだしながら書いたんだっけ。

 まぁ、昔はいーよ。本当に優雅で。平安京に生まれていたら、絶対に人生変わっていたと若い頃は真剣に思っていた。


徒然草 第二十一段 万

2006-06-21 20:31:48 | 新訳 徒然草

 万のことは、月見るにこそ、慰むものなれ、ある人の、「月ばかり面白きものはあらじ」と言ひしに、またひとり、「露こそなほあはれなれ」と争ひしこそ、をかしけれ。折にふれば、何かはあはれならざらん。
 月・花はさらなり、風のみこそ、人に心はつくめれ。岩に砕けて清く流るる水のけしきこそ、時をも分かずめでたけれ。「沅・湘、日夜、東に流れさる。愁人のために止まること小時もせず」といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。嵆康も、「山沢に遊びて、魚鳥を見れば、心楽しぶ」と言へり。人遠く、水草清き所にさまよひありきたるばかり、心慰むことはあらじ。

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<口語訳>

 万のことは、月見るにこそ、慰むものだ、ある人が、「月くらい面白いものはあるまい」と言ったのに、またひとり、「露こそなお哀れだ」と争ったのこそ、おかしかった。折りにふれれば、何かは哀れでないか。
 月・花は更である、風のみこそ、人の心をつくはず。岩に砕けて清く流れる水のけしきこそ、時をも分けずめでたかろう。「沅・湘、日夜、東に流れ去る。愁人のためにとどまることしばらくもせず」という詩を見ましたのこそ、哀れでした。嵆康も、「山沢に遊び、魚鳥を見れば、心楽しむ」と言う。人遠く、水草清い所にさまよい歩いてるくらい、心慰むことはあるまい。

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<意訳>

 たいていの事は、月さえ見れば慰められる。
 ある人が「月ほどすばらしいものはあるまい」と言ったら、またある人が「露こそ哀れだ」と言いだして、争っていたのが可笑しかった。
 季節にふれれば、何もが哀れではないだろうか。

 月や花は言うまでもなく。
 風こそ、人の心をつく。
 岩に砕ける清流も、季節を選ばず素晴らしい。

「河は、日夜、海に流れる。愁う人のためにとどまる事しばらくもない」
 という詩を見た時、哀れを感じました。

 嵆康という詩人も、「山沢に遊び、魚鳥を見れば、心楽しむ」と言う。

 人里遠い、水や木の美しい所をさまよい歩くぐらい、心慰む事はない。

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<感想>

『折節の移り変わるこそ、ものごとにあはれなれ。』

 これは、『徒然草』第19段の出だしであるが、ようするに季節の移り変わりは、根本的に哀れであると言っている。
 いかにも出家者の好きそうなセリフだ。
「季節」は、出家者の好きな「無常」そのもの。
「無常」とは「常は無い」ということで、「常」とは、一定の状態がいつもあるという事だ。
 この世に「常」な事などないと断言するのが「無常」だ。
 これは、ある意味で真理。人は生まれりゃ必ず死ぬし、赤ん坊は成長して子供になり、若者は中年となる。最後にゃ誰もが老いてたいてい死ぬ。
 川は流れ去り、二度と同じ流れをつくる事はない。
 岩すら何万年もかけ砕けて砂となる。
 常に移り変わる「無常」の代表は「河の流れ」や「季節」であり、移りゆく「季節」は、「無常」そのもの。
 そういう「無常」であるものに、哀れを感じる感性は出家者特有のものだ。
 兼好は、20段で「空の名残り」を語った。空は、目に見えてみるみる変化していく「無常」なもの。
 そして、この第21段では、河の流れをメインに語る。河の流れも「無常」だ。

 18段までの兼好の文章は未練たっぷりで、出家しても現世の「欲望」を諦めきれるのだろうかと不安げだったが、19段からふっきれる。むしろ「無常」や「遁世」を楽しんでいるかのようだ。そう思ったので、19段から兼好は出家したと俺は読む。だが、勝手な俺の見解なので誰にも推奨はしない。

 せめて、カテゴリ分けだけでもしてみよう。
 1段から18段までが、出家を迷っていた若い兼好。
 19段からが、出家した兼好。

 カテゴリに名前をつけよう。

 1~18段が、「青春・苦悩編」
 19段からが、「出家ほやほや編」

 この、「出家ほやほや編」は短い。すぐ終わる。

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<簡単な解説>

『沅・湘、日夜、東に流れさる。愁人のために止まること小時もせず』
 昔の中国の詩人による漢詩の抜き書き。沅・湘は、川の名前。

『嵆康』
 昔の中国の詩人。

『山沢』
 山と沢。あるいは山間部の湿地。
 この段の場合は、山の中の谷の底の清流をイメージすると良い。

『水草』
 水と草。金魚鉢の水草ではない。