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墨汁日記

墨汁Aイッテキ!公式ブログ

徒然草 第三十段 人の亡き跡

2006-07-17 18:13:07 | 新訳 徒然草

 人の亡き跡ばかり、悲しきはなし。
 中陰のほど、山里などに移ろひて、便あしく、狭き所にあまたあひ居て、後のわざども営み合へる、心あわたたし。日数の速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我賢げに物ひきしたため、ちりぢりに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。
 年月経ても、つゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸は気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
 思い出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪に摧かれ、古き墳は犂かれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。

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<口語訳>

 人の亡きあとばかり、悲しいのはない。
 中陰のあいだ、山里などに移って、便わるく、狭い所に数多相居て、後のことども営み合う、心あわただしい。日数のはやく過ぎるほどで、なににも似ない。最後の日は、とても情なく、たがいに言う事もなく、かしこげに物とりまとめ、ちりじりに行きわかれる。もとのすみかに帰ってだ、さらに悲しい事は多かろうはず。「しかじかの事は、あぁ畏ろしい、あとのため忌むことになる事だ」など言えるのこそ、これほどの中でなんだかと、人の心はなお勝手に思える。
 年月経ても、少しも忘れるのではないけど、去る者は日々に遠くなると言えることならば、そうは言えども、その際ばかりは覚えてないのだな、根拠もない事言って、ふと笑う。骸は人気少ない山の中におさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉ふり埋まって、夕べの嵐、夜の月のみが、言問う友であった。
 思い出して偲ぶ人あろううちこそありだろう、それもまたほどなく失せて、聞き伝えるばかりの末々は、哀れとかは思う。然るは、あと問うことも絶えれば、いずれの人と名をすら知らず、年々の春の草のみが、心あろう人は哀れと見るはずを、果ては、嵐にむせぶ松も千年を待たず薪にくだかれ、古き墳は鋤かれて田となった。その形すらなくなるのが悲しい。
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<意訳>

 人の死ほど悲しいものはない。

 四十九日の葬儀の間、不便な山寺に集まって、狭い所で多くの人による法事の毎日。慌ただしくて日にちばかりがはやく過ぎ去り、あまり経験できない体験だ。
 葬儀の最後の日はなんだか情ない。もう互いに語る言葉もなくなり、とりつくろって荷物とりまとめ、ちりじりに帰宅する。
 帰宅して一人になれば、故人が思い出されて悲しくなるはず。
 なのに「今回の事は不吉だ。良くない事の前兆かもしれない」などと家人に語る。人の死に直面しながらなんなのだろう、人の心はとても勝手だと思う。

 何年たとうと少しも死んだ人を忘れない。だが、去った人の記憶は日々に薄れていくと人は語る。そんなこと言うけど、臨終の際を忘れられるのだろうか。どうでもいい突っ込みを入れて笑う。
 遺体は人気のない山奥に埋められ、しかるべき日にでもならなきゃ墓を詣でる人はない。墓はやがて苔むし枯れ葉に埋まり、夜風と月だけが友となる。

 死者を思い出す人があるうちならともかく、彼らもほどなく消え失せる。
 死者を聞き知るだけの子孫までくらいは先祖をありがたいとも思うだろうけど、その子孫すら死に絶えてしまったなら死者の名すら誰も知らなくなる。
 心ある人なら春の草が萌える様子にさえ感動するだろうが、誰のものとも知れない墓に涙する人はいない。
 嵐に堪える松も千年を待たずに枯れ薪にされる。
 古い塚はやがて鋤かれて畑となる。
 形すら残せない人の死が悲しい。
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<感想>

 兼好の時代の京都の貴族は、親類縁者が死ぬとホンキで49日の間、山寺などにこもって死者の供養をしたらしい。という当時の状況が、この段からうかがえる。
 そうなると貴族の葬式なんてのは葬式の合宿みたいなもので、不便な山寺に地位ある人間達を閉じ込め寝泊まりさせ49日にわたり法事を続ける。ほぼサティアンな状況だ。
 仕事や家族ある人にとって、それはとても辛い事だ。
 当時は携帯も充電器もコンセントすらないのだ。葬式なんかに付き合っているうちに「現在」は進行形でドンドコ状況は進む、京都に帰ったら取り残されてるよ。死んだ後まで人に迷惑かけるんじゃないよとイライラもしてくるだろう。
 兼好は、せめて死んだ人の為に49日間ぐらいは喪に服してもいいんんじゃないかなとこの段で語っているが、俺はイヤだな。兼好ほど、ヒマ人じゃないよ。

 ところで。
 この段の内容は、最近の兼好をブルーにしている「亡き人」から連想して書かれたように読める。
 すなわち一般論で、最近の兼好が問題としている「亡き人」とは直接に関係がないらしい。過去の兼好が参加した親族の葬儀などの様子を思い出しながら一般論として語っているように読める。
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<解説>

『人の亡き跡』
 死者がこの世に残した痕跡。
 人の死んだあと。
 人の死。

『中陰』
 四十九日。

『後のわざ共』
 法事の数々。死者への供養。

『我賢げ』
 小賢しげ、格好つけて、すましてなどの意。


徒然草 第二十九段 静かに

2006-07-12 19:22:07 | 新訳 徒然草

 静かに思へば、万に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。
 人静まりて後、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる中に、亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし。手慣れし具足なども、心もなくて、変らず、久しき、いとかなし。

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<口語訳>

 静かに思えば、すべてに、過ぎた時の恋しさのみがしかたない。
 人静まって後、長き夜のなぐさみに、何となくに具足とりしたため、残し置くまいと思う反古など破り棄てる中に、亡き人の手習い、絵かき遊んだ、見い出たこそ、ただ、その際の心地する。このごろある人の文でも、久しくなって、いかなる際、いつの年だったと思うは、哀れだよな。手慣れた具足なども、心もなくて、変わらず、久しい、いたく悲しい。
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<意訳>

 静かに思うと、過ぎた過去のみがやるせない。

 人の寝静まった後、長い夜のなぐさみにと何となく整理なんかしてみる。
 残しておくものかと思う書き損ないなんかを破り捨てているうちに、亡くした人の残した習作や落書きなどを見つけてしまった。
 ただ、それが、その当時の気持ちに舞い戻らせる。
 まだ生きている人からの手紙でも、古い物だと、いつどんな時にもらったのかなと考えてしまうのは哀れだよね。そこいらに置いてある物でさえも、心もなく当時のままの姿を長く残す。
 それがひどく悲しい。
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<感想>

 この段の兼好も情緒不安定気味。
 かなりのセンチメンタル・ブルー色の法師で、おセンチの原因はたぶん「亡き人」で確定であろう。

 兼好は、どうやら出家してする事も無くヒマになって、感情を悲しみにとらわれていた時期があったらしい。
 それが最近の『徒然草』から読み取れる、兼好の近状だ。この時の兼好の推定年齢は37歳以上。

 その原因は、思いつきの文章や落書きなどをやりとりしていたほどに親しい人を亡くした事らしい。それが、最近の兼好をブルーにさせている原因らしいのだけど「亡き人」が誰なのかは、まだ分からない。
 とにかく、この段は親しい人を亡くして、なんとなく悲しみにくれている兼好を想像しながら読めば、何が言いたいのか自然とわかるはずだ。
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<解説>

『反古』
 書き損じの手紙など。

『具足』
 十分に備わっている事。不足ない状態にある事。完全装備。
 それが、手まわりの道具や、武装を表す言葉となった。
 この段では、手まわりの道具という意味で使われる。


徒然草 第二十八段 諒闇

2006-07-10 20:38:27 | 新訳 徒然草

 諒闇の年ばかり、あはれなることはあらじ。
 倚廬の御所のさまなど、板敷を下げ、葦の御簾を掛けて、布の帽額あらあらしく、御調度どもおろそかに、皆人の装束・太刀・平緒まで、異様なるぞゆゆしき。

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<口語訳>

 諒闇の年ばかり、哀れな事はあるまい。
 倚廬の御所の様子など、板敷を下げ、葦の御簾をかけて、布の帽額あらあらしく、御調度どもおろそかに、みな人の装束・太刀・平緒まで、異様であるのがゆゆしい。

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<意訳>

 天皇が喪に服せられる諒闇の年ほど、哀れな事もあるまい。

 天皇が籠られる「倚廬の御所」の様子など、床板を下げ、葦の御簾かけ、布の帽額は荒々しく、家具などもおろそかで、仕える人間の着物から太刀や平緒に至るまで、異様でおごそかである。
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<感想>

 諒闇とは、父母などの大事な人が亡くなった時に天皇が喪に服す事で、その期間は1年とされていた。
 最初にまず、天皇は倚廬の御所でお過ごしになられる。古くは13ヶ月であったが、後に13日間に短縮されたとテキストに書いてあるので、古くは喪があけるまでずっと天皇は倚廬の御所に居たのだろう。
 倚廬の御所は、地下にいる死者に少しでも近づく為にわざわざ床を低く造ってある。その御所にかけられる御簾も薄墨色の粗末なもので、調度なども簡素なものばかりであったそうだ。
 倚廬の御所では天皇のお側にお仕えする者達すら、薄墨色と黒の装束に身を包んでいたようである。その倚廬の御所の異様な様子を「ゆゆしき」と、兼好はこの段で語っている。

 さて。
 この段で、大事な人を無くして諒闇しちゃった天皇とは誰の事であろうか?

 驚くなかれ、いや驚け!
 なんと、前の27段で即位したばかりの後醍醐天皇である!
 この第28段は、後醍醐天皇の産みの母である藤原忠子が亡くなって、後醍醐がゴダイゴと諒闇しちゃている様子をゆゆしく書いているのだとほぼ本命で推測されている。

 前の27段では、先代の引退した天皇のさびしい隠居生活に哀れを感じ、この28段では、時の天皇の喪に服す様子に哀れを感じている。
 どうやら、いまの兼好はなんだって哀れで悲しいらしい。
 ちなみに、後醍醐天皇の母が亡くなられたのは、1319年。
 この年の兼好の推定年齢は37歳である。

 この段を書いた時の兼好はなにがなんでも悲しかったらしい。
 だけど、しかし、たった1段で推定年齢がひとつ上がっているけど、兼好はいったい幾つの時に、最近の『徒然草』を書いたのだろう?
 そんな事は、学者だって分からない。だが、なにがなんでも悲しんだよという胸の内だけは読めば分かる。
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<解説>

『諒闇』(りゃうあん)
 父母などの大事な人の喪に天皇が服す期間。
 この段で書かれているのは、全段の繋がりなどからして1319年11月15日に、後醍醐天皇の母が亡くならた時のものと推定されている。その期間は1年。

『倚廬の御所』(いろのごしょ)
 父母の死から13日間、天皇が喪に服し過ごす仮の御所。

『葦の御簾』
 御簾はすだれで、たいてい高貴なお方がその陰に潜んでいる。
 通常、高貴なお方は竹のすだれを使った。
 葦のすだれは貧乏臭いのである。

『布の帽額』(ぬののもかう)
 御簾の外側、潜んでいる高貴なお方の反対側の一般大衆から見上げる側の上部に横長にはった布が「布の帽額」。
 それが、諒闇の時は荒々しい濃いねずみ色であったそうだ。

『御調度』
 家具などのこと。

『皆人の装束』
 天皇にお仕えする人達の装束。
 諒闇しちゃている時は、薄墨色がメインの装束だったらしい。

『太刀』
 諒闇している時は、黒うるし塗りのさやにおさめられた。

『平緒』
 太刀をぶら下げる飾りひも、これも諒闇してる時は薄墨色であったらしい。

『ゆゆしき』
 神々しいほどになんだかすごいという意味の言葉。
 現代語にすると、「あまりに神々しく、なんだかとにかくものすごい。だから、それが、恐ろしくてなんだか怖くもあり、不吉な感じさえするけど、とにかくその神々しさだけはただごとではなくて、美しくすらある」という意味の言葉。


徒然草 第二十七段 御国

2006-07-06 20:40:34 | 新訳 徒然草

 御国譲りの節会行はれて、剣・璽、内侍所渡し奉らるるほどこそ、限りなう心ぼそけれ。
 新院の、おりゐさせ給ひての春、詠ませ給ひけるとかや。

 殿守の とものみやつこ よそにして 掃はぬ庭に 花ぞ散りしく

 今の世のこと繁きにまぎれて、院には参る人もなきぞさびしげなる。かかる折にぞ、人の心もあらはれぬべき。
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<口語訳>

 御国譲りの節会行われて、剣・曲玉、鏡 渡し奉られる時こそ、限りなく心ぼそいものだ。
 新院が、退位なされての春、詠まれましたとか。

 殿守の とものみやつこ よそにして 掃はぬ庭に 花ぞ散りしく
(殿守の 供の奴 他所に居て はらわぬ庭に 花が散り敷く)

 今の世のこと忙しいのにまぎれて、院には参る人もないのがさびしげである。こんな時にだ、人の心もあらわれるはず。
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<意訳>

 国ゆずりの宴おこなわれ、花園上皇が「三種の神器」を後醍醐天皇におゆずりになられた時は限りなく心細く思えた。

 花園上皇が退位なされた年の春に詠まれた歌とか。

『殿守の とものみやつこ よそにして 掃はぬ庭に 花ぞ散りしく』

 新天皇の世になり、忙しいのにまぎれて誰も参られない寂しいご様子がうかがえる。こんな時にこそ、人の心もあらわれるはず。
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<感想>

 この第27段で語られる「御国譲りの節会」は、後醍醐天皇が皇位を継ぎ、花園天皇が退位した時の様子だと推定されている。この段も、兼好おとくいのあいまいな文章で、誰がどこで何をしたのか良く分からないが、抜粋されている短歌から推定はほぼ間違いないと思われる。

 兼好が生きていた鎌倉時代末期、皇族や貴族は2派の派閥に別れて交互に天皇を出し合いつつシノギをけずっていた。ところが、その新しい天皇は、鎌倉幕府が選んだ。
 2派に別れた京都の貴族社会と、それを天皇選出という形でコントロールする鎌倉の幕府。これが当時の政治状況だ。
 鎌倉幕府は、あくまで関東地方にあらわれた軍事政権で、日本を代表する政権ではなかった。幕府は「侍」の親分でしかなかったのだ。
 鎌倉時代までは、まだ日本の正当な政府は京都の朝廷で、外交や一部のまつりごとは朝廷が行った。「元寇」も、朝廷のかたくなな態度によって招き寄せたのである。

 かわりばんこに派閥で天皇を出し合った時代。
 持明院統の花園天皇の退位は1318年2月26日と伝えられており、その時に新天皇となったのが大覚寺統の後醍醐天皇。この後醍醐天皇を中心にして、鎌倉幕府討伐が起こり、南北朝のややこしい政治状況を生んで、現在の日本の子供を「日本史」嫌いにさせる元凶となった。

 1318年の、兼好の推定年齢は36歳。
 この段を書いた時の兼好は36歳かそれ以上だったらしい。
 兼好の出家は30歳と推定されるから、すでに出家済みなのは間違いない。
 36歳か、俺も今年で37才だ。
 それはともかくとして、ともかくだ。
 この段の文章も、なんとなくブルー入ってるように読める。なんか、嫌な事でもあったのかという文章だ。

 ちなみに、今年の11月13日で37才である蠍座な俺は、勝手に最近の兼好の文章を「センチメンタル編」と決めつけている。
 どういうことだろう。
 ようするにセンチメンタルで、ブルー入っているなら「センチメンタル・ブルー」と言う事なのだ!
 その上に、兼好は法師だ。
 要するに「センチメンタル・ブルー法師」!!
 長い、長すぎるネーミングだが、この段の兼好は「センチメンタル・ブルー法師」と断言しても過言ではないほどに華厳の滝である。
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<解説>

『御国譲りの節会』
 天皇が皇位をゆずる時に臣下の者達に酒宴を賜る儀式。
 この段で書かれるのは、持明院統の花園天皇が大覚寺統の後醍醐天皇への譲位(1318年2月26日)なされた時の事だと、抜粋された短歌などから推定される。

『剣・璽、内侍所』
 草薙の剣・八坂瓊の曲玉・八咫の鏡。三種の神器のこと。

『新院』
 先代の天皇、花園上皇を指す。
 すでに、引退した上皇がまだ生存している場合に「新院」と呼ぶ。
 この時にはまだ、大覚寺統で後醍醐天皇の父である後宇多法皇と、持明院統で花園上皇の父である後伏見法皇が本院として存在していた。

『おりゐ』
 退位。

『殿守の とものみやつこ よそにして 掃はぬ庭に 花ぞ散りしく』
(お掃除の 役人どもは よそに居て 掃かない庭に 花がちらばる)
 レレレッ。
 殿守は、主殿寮という宮内省に属する役所。掃除や雑務を担当した。
 とものみやつこの「とも」は、お供のともだろう。「みやつこ」は漢字で書くと御奴でやっこさんのこと。下級役人や、役所に仕える下僕を意味する。「殿守の とものみやつこ」は、「主殿寮に 仕える下級役人さん」という意味。

『今の世』
 新天皇である後醍醐天皇と、その父であり院政を行う後宇多法皇による大覚寺統の時代。

『院』
 引退した花園上皇のお屋敷。


徒然草 第二十六段 風

2006-07-04 20:37:58 | 新訳 徒然草

 風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ。
 されば、白き糸の染まんことを悲しび、路のちまたの分れんことを歎く人もありけんかし。堀川院の百首の歌の中に、

昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして

さびしきけしき、さる事侍りけん。

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<口語訳>

 風も吹き過ぎずうつろう、人の心の花に、馴れた年月を思えば、哀れと聞いた言の葉ごとに忘れないものだから、我が世の外になりゆくならいこそ、亡き人の別れよりも勝って悲しきものだ。
 然れば、白い糸の染まることを悲しみ、路の岐のわかれることを嘆く人もあったのか。堀川院の百首の歌の中に、

 昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして
( 昔見た 妹の垣根は 荒れてたよ つばなまじりの すみればかりで)   

さびしい景色、然る事あったのでしょう。

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<意訳>

 人の心の花は、風も吹き過ぎぬうちに移ろいゆく。
 慣れ親しんだ月日を思うなら、愛おしく聞いた言葉の数々を忘れるはずはない。なのに、だんだんと忘れて行く自分が亡き人との別れよりも強く悲しい。

 取り返しがつかないからこそ、白い糸の染まる事を悲しみ、道が左右に別れる事を嘆く人もいるのか。
 堀川院の選んだ百首の歌に、『昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして』という歌があるが、そのさびしい景色に共感を覚える。

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<感想>

 うわっ!
 前段の25段をはるかにしのぐ、超メートル級のおセンチぶりで、そのスケールは30センチ物差しではもはやセンチメンタルが足りなすぎて、巻き尺が必要だ。「メートル法師」と書いた張り紙でも背中に張ってやろうか。
 しかし、なんだろねぇこのおセンチっぷりは、解読している俺の方がなんだかアチコチ痒くなってくるよ。

 第26段の主題は、亡き人である。
 解りにくい内容なので解説しよう。

 人の心は移ろいやすい。
 大事な事でもすぐ忘れる。
 でも、亡き人と過ごした日々の記憶だけは忘れるもんか!
 なのに、ボロボロと亡き人の記憶が抜け落ちて行く。
 それが、亡き人の死よりも数倍悲しい。
 もはや、亡き人がいない以上は忘れたら取り返しがつかない。
 亡き人がいた、その庭だけが最後の記憶なのにその庭が荒れていたよという歌に共感を覚える。

 ちゅう内容がこの段。
 ね、おセンチでしょ。
 巻き尺も必要でしょ。

 兼行は、出家して精神的に自由になった引き換えに過去の記憶に束縛された時期があったらしい。忙しい時には考えないような事もヒマだとつい反芻しちゃたりするからね。

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<解説>

『白き糸の染まんことを悲しび、路のちまたの分れんことを歎く人』
 漢詩からの引用。
 白い糸は染めたら取り返しがつかない、別れ道で一本の道を選べばその道以外の道はもう歩けない。選択するたびに捨ててしまうもう片方の選択、その捨てられた選択の儚さを嘆いているというのが本来の意味らしい。だが兼好は、取り返しがつかないという事に注目して引用しているようだ。

『堀川院の百首の歌の中に』
 堀川って天皇を引退して坊主になった人が、100人の人間にお題をつけて歌を詠ませた。その歌の中にという意味。

『昔見し 妹が墻根は 荒れにけり つばなまじりの 菫のみして』
 まず「妹」は、萠ぇ~のイモウトではない。
 イモと読む。男が愛する女を呼びかける時に使った。妻・愛人・恋人系が当時の「妹」だ。「イモ~ォ!」と叫びながら昔の男は愛する女性に近づいて行ったらしい。なんだか神秘的でさえある。
 次に「つばな」だが、ちがやという花であるらしい。
 それで、「菫」はスミレと読むそうだ。
 良く知らないけど、とにかく昔の人は、ちがや咲きほこりポツポツとスミレが咲いている状態を庭の手入れが行き届いていないと感じたのだろう。
 ようするに、むかし愛した女んちの垣根がボーボーだったyo!
 という意味の歌らしい。