「富士山と浮世絵・瓦版」 久保野和行

日本人のアイデンティーにおいて霊峰富士は欠かせない風景である。それがユネスコの世界遺産の登録が実現する。初めは自然遺産を検討されたが、環境管理(特にゴミ問題)で困難になり、日本人の信仰対象として、日本最高峰富士山(3756m)の文化遺産13箇所目で認められた。
つい最近の出来事の中で、私たちの忘れられないことは東日本大震災であった。その中で陸前高田市の津波被害で、7万本の松林が流失したが、奇跡的に樹齢270年の松の大木が、毅然として残った。自然の猛威に耐え生き残った姿は感動的であり、どこかに日本人の自然に対する謙虚な受容の精神が、山岳信仰の象徴である富士山に代表される。
その富士山を題材として、多くの文化人が参加して絢爛豪華に花を咲かせた。最も有名なのが富嶽三十六景を描いた葛飾北斎に尽きる。多様な絵画技法で大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かして藍摺りや点描を駆使して、世界的に注目される、夏の赤富士を描いた「凱風快晴」や、荒れ狂う大波と富士を描いた「神奈川沖浪裏」などがある。同時代の安藤広重も「東海道五十三次」で富士山を多く題材にしている。

「凱風快晴」 葛飾北斎画

「神奈川沖浪裏」 葛飾北斎画
この当時の江戸時代の構成は、膨大な都市国家を形成していた。当時の人別帳(現在の戸籍謄本)によると、最盛期の人口は128万人以上が生活していた。比較できる都市ではロンドンが約90万人程度であり、“花の都”と謳われたパリが60万人であり、同じ花でも“花のお江戸”の半分程度しか生活ができなかった。多くの人々が暮らすには働く市場がなければいけない一方で、環境面での安心・安全な社会仕組みが出来上がっていなければ、膨大な需要と供給のバランスを維持していくことが困難であった。
当然ながら情報機能も併せ持っていなければ都市構成を維持運営できない。時代がどう変わろうとも情報の根幹であるコミュニケーションは欠かせない。今の時代の新聞やテレビやインターネットであるように、当時の情報手段が瓦版(紙の大きさが瓦サイズから)であり、それが庶民のニュースソース源であった。
浮世絵が高価な代物で、なかなか庶民の手には届かなかったそうです。しかし、ここに労働市場という面では、雇用が生まれている。版元は現在流にいえば出版社であり、浮世絵師は作家であり、それを大量生産する刷り師集団は、現代流に言えば印刷企業になる。
一方の瓦版は、現代流に言えば新聞や週刊誌の類いのもので安価なので多くの江戸庶民が手の届くところにあったわけです。
世界の陸地面積のわずか2.5%しかない日本の国土でありながら、自然災害である地震は6M以上の規模の20%近くが、日本列島を襲っている。
それでいながら他の国と違うのは、壊滅的な崩壊が起きていない。有史以来都市国家を滅亡に襲ったのは、ベストとかコレラなどの病原菌で衰退する場合がある。それは農村地帯でも言える。バッタやイナゴの多量発生で痛めつけられる現象である。
日本民族は自然崇拝の根底には、自然の猛威に耐えて、健気に根気良く自然と対話する習慣が、里山を作った。自然界と人間界の境目に、人手で加えた人工林をメンテランスする風習ができあがった。最初は燃料として山から樹木を切り出したが、いつか禿げ山になり、土砂が崩れ風水害のしっぺ返しに会い、気づいた村人達が作り出したのが里山であり、そこに植林をして、成長に合わせ下草を刈り、間伐をして風と光を入れる環境にした。虫や鳥、あるいは小動物が集まり、快適な空間にバランスよく成り立つようになった。
江戸といえる都市国家も神田川用水、多摩川用水などの水道施設が整備されて生活基盤ができ、その一方では排泄物類は汚わいやさんという職業人が、江戸の周辺部へ堆肥として流通する職業が生まれ、そこで農産物の生産があり、需要と供給の絶妙の境地に達した。 今回の世界遺産になった富士山が日本の象徴であると同時に、日本人の奥ゆかしさも同時に評価されたのではないかと、勝手に思っているが、嬉しくなるニュースであった。

日本人のアイデンティーにおいて霊峰富士は欠かせない風景である。それがユネスコの世界遺産の登録が実現する。初めは自然遺産を検討されたが、環境管理(特にゴミ問題)で困難になり、日本人の信仰対象として、日本最高峰富士山(3756m)の文化遺産13箇所目で認められた。
つい最近の出来事の中で、私たちの忘れられないことは東日本大震災であった。その中で陸前高田市の津波被害で、7万本の松林が流失したが、奇跡的に樹齢270年の松の大木が、毅然として残った。自然の猛威に耐え生き残った姿は感動的であり、どこかに日本人の自然に対する謙虚な受容の精神が、山岳信仰の象徴である富士山に代表される。
その富士山を題材として、多くの文化人が参加して絢爛豪華に花を咲かせた。最も有名なのが富嶽三十六景を描いた葛飾北斎に尽きる。多様な絵画技法で大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を活かして藍摺りや点描を駆使して、世界的に注目される、夏の赤富士を描いた「凱風快晴」や、荒れ狂う大波と富士を描いた「神奈川沖浪裏」などがある。同時代の安藤広重も「東海道五十三次」で富士山を多く題材にしている。

「凱風快晴」 葛飾北斎画

「神奈川沖浪裏」 葛飾北斎画
この当時の江戸時代の構成は、膨大な都市国家を形成していた。当時の人別帳(現在の戸籍謄本)によると、最盛期の人口は128万人以上が生活していた。比較できる都市ではロンドンが約90万人程度であり、“花の都”と謳われたパリが60万人であり、同じ花でも“花のお江戸”の半分程度しか生活ができなかった。多くの人々が暮らすには働く市場がなければいけない一方で、環境面での安心・安全な社会仕組みが出来上がっていなければ、膨大な需要と供給のバランスを維持していくことが困難であった。
当然ながら情報機能も併せ持っていなければ都市構成を維持運営できない。時代がどう変わろうとも情報の根幹であるコミュニケーションは欠かせない。今の時代の新聞やテレビやインターネットであるように、当時の情報手段が瓦版(紙の大きさが瓦サイズから)であり、それが庶民のニュースソース源であった。
浮世絵が高価な代物で、なかなか庶民の手には届かなかったそうです。しかし、ここに労働市場という面では、雇用が生まれている。版元は現在流にいえば出版社であり、浮世絵師は作家であり、それを大量生産する刷り師集団は、現代流に言えば印刷企業になる。
一方の瓦版は、現代流に言えば新聞や週刊誌の類いのもので安価なので多くの江戸庶民が手の届くところにあったわけです。
世界の陸地面積のわずか2.5%しかない日本の国土でありながら、自然災害である地震は6M以上の規模の20%近くが、日本列島を襲っている。
それでいながら他の国と違うのは、壊滅的な崩壊が起きていない。有史以来都市国家を滅亡に襲ったのは、ベストとかコレラなどの病原菌で衰退する場合がある。それは農村地帯でも言える。バッタやイナゴの多量発生で痛めつけられる現象である。
日本民族は自然崇拝の根底には、自然の猛威に耐えて、健気に根気良く自然と対話する習慣が、里山を作った。自然界と人間界の境目に、人手で加えた人工林をメンテランスする風習ができあがった。最初は燃料として山から樹木を切り出したが、いつか禿げ山になり、土砂が崩れ風水害のしっぺ返しに会い、気づいた村人達が作り出したのが里山であり、そこに植林をして、成長に合わせ下草を刈り、間伐をして風と光を入れる環境にした。虫や鳥、あるいは小動物が集まり、快適な空間にバランスよく成り立つようになった。
江戸といえる都市国家も神田川用水、多摩川用水などの水道施設が整備されて生活基盤ができ、その一方では排泄物類は汚わいやさんという職業人が、江戸の周辺部へ堆肥として流通する職業が生まれ、そこで農産物の生産があり、需要と供給の絶妙の境地に達した。 今回の世界遺産になった富士山が日本の象徴であると同時に、日本人の奥ゆかしさも同時に評価されたのではないかと、勝手に思っているが、嬉しくなるニュースであった。