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印刷図書館倶楽部ひろば

“印刷”に対する深い見識と愛着をお持ちの方々による広場です。語らいの輪に、ぜひご参加くださいませ。

「流行語大賞と言葉と文字」 久保野和行

2013-12-09 11:48:44 | エッセー・コラム
「流行語大賞と言葉と文字」 久保野 和行




年末恒例のユーキャン新語流行語大賞が12月2日に発表されました。面白いのは、その年の世相を反映した言葉が躍動していることです。今年は30回目を迎えるこのイベントで、初めて4つの大賞が選ばれたことです。


「今でしょ!」はテレビの予備校コマーシャル画面での出現語でした。
「じぇじぇじぇ」はNHKの朝の連続ドラマ“あまちゃん”の中で語られた言葉でした。
「倍返し」テレビドラマの内容が、バブル末期に大手銀行に入行した主人公“半沢直樹”は劇中で決める言葉として生まれました。
「お・も・て・な・し」はオリンピック招致活動の最終プレゼンで日本社会に根づく歓待の精神を日本語で紹介した言葉でした。


このように人間が持っている最大のスキルは言葉であり、同時に文字である。叡智の塊である言葉と文字は、人類はどのようにして生まれ発展していったんだろうと考えるとおもしろい。
人間が動物との差別化が進むのは、数万年前に言葉を持つことにより人類が登場する。これを別名では第一次情報革命と認識する。
言葉を持つことで知恵が発達し、同時に多くの人々との接触が行われ、現在流にいえばコミュニケーションスキルが向上した。そこで、次に突き当たった壁が、言葉の保存・保管管理方法に行き着いた。そこで約3千年前あたりに文字が考案された。これを第二次情報革命となった。


これが文字を持ったことにより歴史というストリーが生まれ進化することです。
そして、ここからが面白いのは当然ながら第三次情報革命が生まれ、必然的に飛躍的に進化することになつたのが。これが何と、“印刷”なのです。


1450年にグーテンベルクが葡萄の絞り機から印刷機を発明した。このことによって従来、なかなか情報が得られなかった宗教の情報を知ることができた。それがキリスト教の「四十二行聖書」がヨハネス・グーテンベルクによって180部印刷された。現存するのは世界で48部セットであり、アジア地域では日本の慶応義塾大学に唯一ある。


大量の複写物を製造する印刷技術は、文明・文化の拡散であり、同時に情報の収集に役立った。
そして今日では第四次情報革命に入っている。いわずもだがインターネット社会の出現である。インターネットの登場は無限の情報収集が可能になった。それにともない、情報にはボーダレス化(国境が無い状態)が進み、多言語でもIT技術によってリアルタイムに翻訳ができる技術が構築されている。


情報が大量に、なおかつ無限大に得られる環境であるが、人々の感覚では、快適空間での言葉は、必要以上の情報は要らないだろうし、その時代背景が、その時々の流行語を生む出す素地があると思う。


「東北の空に鷺(イーグルス)が舞う」 久保野和行

2013-11-11 16:20:46 | エッセー・コラム
「東北の空に鷲(イーグルス)が舞う」  久保野 和行





久し振りにテレビ桟敷席にかぶりつきした。プロ野球の一大イベントでもあるが、今年こそ、こんなに盛り上がった試合はなかった。球団創設9年での偉業であり、日本一になった東北楽天ゴールデンイーグルスに、仙台から東北全体に熱気が広がっていった。
セ・リーグの覇者であり、同時に名門老舗の伝統ある読売ジャイアンツを破っての達成であるから、楽天ファンにとっては感無量の思いでしょう。

闘将と呼ばれた星野監督が就任した。その年の3月11日に東日本大震災に被災にあった。その年の開幕試合での、楽天、嶋選手のメッセージは感動的でした。キーワードは「見せましょう□□底力!!」に力強い声に、多くの人々の気持をひとつにしてくれた。それはいつか「絆」という輪を作り、本来、日本人が持っている人間の琴線に触れたことで、楽天ゴールデンイーグルスも夢物語が現実のものとなった。



もつ1つの話題は、地味であるが海外のコレクターによってもたらせた。3月から9月末までの期間に、仙台を振り出しに、岩手県、福島県を巡回する江戸絵画の傑作100点が公開された。仕掛け人は、世界屈指のコレクター、アメリカ人のジョー・プライスさん(83歳)が、“伊藤若冲”をもって、「被災した人々に少しでも幸せを取り戻してほしい」との思いが、復興支援の画期的なプロジェクトを実現させた。この試みはNHK番組でも取り上げられ話題なった。

狩野派の絵師からスタートした伊藤若冲は、その後独自の境地を開き、ジョー・プライスさんと同じ年齢に近い84歳まで活動している。伊藤若冲は実物写生の境地を開き、特に鶏の絵を得意として、美しい色彩と綿密な描写が特徴で、若冲独特の感覚で捉えられた色彩・形態が「写生された物」を通じて展開される。


≪白像群獣図≫18世紀 伊藤若冲

その中でも代表作の「白像群獣図」は、正対する白象を中央に配し、周囲に様々な種類の獣を描く、製作過程は極めて手が込んでいる。画面に薄墨で9mm間隔で方眼を作り、その上から全体に薄く胡粉を塗る。そうして出来上がった碁盤目を淡い灰色で彩り、さらに灰色の正方形すべてに4分の1よりやや大きな正方形を、先程より濃い墨で、必ず方眼の上辺と左辺に接するように塗り分かる。

ここまでが下地作りで、その上に動物達を淡彩を用いて、隈取を施しながらグラデーションで描くという、得異な技法からなる。この描き方は「桝目描き」と呼ばれる。京都生まれの若冲が、西陣織の下絵から着想を得て、織物の質感を絵画に表現しようとしたと考えられる。ここに至ると、なんと印刷の網点の考え方と同じ志向になるから面白い。


印刷の歴史も600年以上が経過している。色々な場面で人々を助け、助けられたきたもかもしれない、そう思うと絵と文字のコミュニケーションは、永遠に人類がある限りのツールともいえる。と言えることは、年寄りの頑固さでいえば、間違いなく印刷業界は衰退産業というカテゴリーには入らず。印刷が持っている本来の底力を発揮するためにも、イノベーションを興す転換期かもしれない。(終)

「東京オリンピック “今昔物語”

2013-10-08 14:40:48 | エッセー・コラム
「東京オリンピック “今昔物語”」 久保野 和行  


日本国中が沸いたのは9月8日早朝のニュースであった。地球の裏側アルゼンチンの首都ヴェノアイレスから伝わる。2020年東京オリンピック開催が決定した瞬間であった 1964年に続き、二度目のアジアでの開催は初めてのことである。




振り返ってみると私自身も最初のオリンピックの記憶は、競技種目においては鮮明でなかった。華やいだ大会だったが、その中での印象で一番あるものが、開催日当日の出来事であった。印刷会社の製版部門に従事していた当時、朝から夜までに及ぶ仕事で、あまりオリンピックに関しては興味がなかった。




しかし10月10日のその日は良く覚えている。作業に従事していた仲間が一斉に窓際に寄った。秋空一杯に自衛隊のブルーインパレスが五輪マークの彩り鮮やかに空中に輪を描いていたのです。国民全体が高揚感に包まれていて日本経済の復活の象徴として目に焼き付いている。



確かに、その後の私自身の生活は飛躍的に向上した記憶がある。3K(暗い・汚い・きつい)の見本みたいな印刷業であったが、賃金ベースは6年後の大阪万博までのピークに向って10%以上の上昇があったいい時代であった。高卒の初任給が日給月給制で、時給32円で、月稼働基準200時間ベースで月給6400円であった。それでも先輩社員から、叱咤激励の声が飛んだ。「お前達はニコヨン(日雇い肉体労働者)さんよりも高給取り、もっと身体を動かせ」。ニコヨンの由来は時給30円の、1日労働報酬が240円からきたものです。


こんな東京オリンピックが、実は3回目であったことです。幻の1940年に日中戦争が勃発して中止になった。1936年の決定にはオリンピックの創設者であるクーベルタン男爵が存命中で日本へメッセージを寄せている。“古代欧州が生み出した文明をアジアの文化芸術が結びつく”と期待していたが、その翌年に亡くなり東京は幻となった。
このとき同時開催の行事に、東京の月島4号の埋立地(晴海)で初代天皇神武即位2600年記念として万国博覧会もあったが、これも中止になった。それから24年後アジアで最初の大会が、また戦後復興のターニングポイントになった大阪万博が、その6年後に開かれた。


ここから私自身の独断と偏見で東京オリンピックを俯瞰してみると、1940年の幻東京オリンピックから80年後の2020年開催には、妙な数字のつながりを見っけた無理押し承知で語れば1940年の「4」と、その後80年後の「8」をつなげれば「フォティーエイト=48」になる。何と今や旬の「AKB48」に繋がるではないか。彼女らの活躍の下地には、日本固有の伝統的な動きがある。例えば集団での主役(センターマイク)の決め方では、ジャンケン方式と人気投票方式がある。これはとてもシンプルで、なおかつ透明性があり、同時に公平性が存在する。日本人好みの、別の見方をすれば農耕民族のコミュニティーがベースにあると思う。


「もったいない」で発信された日本語のキーワードが「お・も・て・な・し」で世界中の人々を迎える東京オリンピックは、その晴れ舞台である。当然ながら東日本大震災での復興がバックグランドで構築された日本に姿のお披露目の舞台になる。
印刷産業は全ての産業とは密接な関係にあり、この有効は状態を飛躍的に発展させる、絶好の機会が訪れたと考えたら、衰退産業とか、不況産業とかの輩に向って、挑みかかろうではないかと勝手に、東京オリンピックに思いを寄せている次第です。






『日本アニメを支える女職人の凄さ』 久保野和行

2013-08-06 10:47:09 | エッセー・コラム

『日本アニメを支える女職人の凄さ』  久保野和行


スタジオジブリ・宮崎駿作品「風立ちぬ」が7月20日に公開された。「崖の上のポニョ」から5年ぶりの作品に引かれて、さっそく映画鑑賞に出かけた。今までと違うのは実際の登場人物がいることであり、それがどうしてアニメーション化されるかも興味があった。


大正時代の作家・堀辰雄の作品名を取り上げ、同時に同じ時代を過ごした堀越二郎さんの生涯を描いている。私自身、堀越二郎さんという名前すら知らなかった。知る人ぞ知る「零戦の設計者」であった。今年は生誕110年を迎える。当時の状況、特に航空業界は欧米諸国から、遅れること20年といわれた時代に、東大出たての人物に、三菱重工が期待をかけて双肩にかけたのが「零戦の設計」だった。


この人物を取り上げた宮崎駿監督が、どうして実在人物に興味を抱いたのかを調べてみたら、宮崎駿さんの一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の次男だった。幼少時代は身体が弱かったので運動が苦手だったが、ずば抜けて絵は上手であった。同時に熱心な読書家でもあり、手塚治虫のファンでもあった。


学習院大学卒業後、東映動画に入社して、この業界のスタートを切るが、なかなか思うような人生を送れない時代が続く、しかし、きっかけはテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」が最高視聴率を上げる成功で地位を確保した。その後、徳間書店の出資を得て「スタジオジブリ」を創設した。
そこから「もののけ姫」が生まれ、「千と千尋の神隠し」は興行成績を塗り替え、観客動員2300万人の空前絶後の金字塔を立てた。




しかし、そんな宮崎作品を支えた、かけがえのない女性がいる。東映動画では1年先輩格にあたる保田道世さんです。この方は宮崎作品全ての色彩設計を担当している。なんととなく眺めている映像の、背景の色や、登場人物の着物や洋服の配色など、それこそ多種多彩な彩を、絢爛豪華にも、詩情ゆたかな静かさも表現できる、裏方の職人芸でもある。


これほどの作品群に、たった1人のアーティスト保田道世さんが支えきっているからこそ、宮崎駿さんから「戦友」の呼び名で作品を作り続けている。


印刷業界に長くいると分かるが、これほど多くの色を扱うことが、いかに困難かを体験しているからこそ、その能力と努力には頭が下がる。エンディングには多くのスタッフの名前が並ぶが、その中で、たった一行の中に見つけた『色彩設計 保田道世』は別の面での感動を覚えた。


零戦設計者の堀越二郎さんもこんな言葉を述べている。
「私は一瞬、自分が、この飛行機の設計者であることを忘れて『美しい!』と、喉咽の底で叫んでいた」





「再生可能エネルギーと “再生紙物語”

2013-07-01 16:32:00 | エッセー・コラム
久保野和行氏より、随想一遍が届きましたので、ご紹介いたします。
長文ですが、人間本来の知恵と叡智が盛り込まれた随想録です。



「再生可能エネルギーと “再生紙物語”」 久保野和行




福島原発事故以来、国民感情は原子力利用のエネルギー対策にはアレルギー症状が多く、その対極にあるのが再生可能エネルギーへの期待感がある。昨年の7月には買取り制度が法案成立して、各産業、各企業が新事業へ一斉にスタートした。20年間一定価格買取りがビジネスプランを可能にしたことで、ソーラー・風力・地熱・バイオ・小水力等が見直されている。


もともとエネルギーとは歴史上では、人類が動物世界から隔離した空間を創造したのは“火”を起こす知恵を持ったことで生まれたとも言える。最初は木などを燃やす時代から、石(石炭)や油(石油)へと変化していった。
しかし木から得るエネルギーが最も長くポピュラーな物であったから、いつか人間は森林深く立ち入り、過激な行動が、禿山をつくり、そのしっぺ返しが自然の怒りを買い、風水害という猛威の前に慄いた。自然からの贈り物はエネルギーだけではなく、紀元前まえ中国の蔡倫が“紙”を作り出した。


2012年度の紙消費量は26,278,388,000トンが日本全体で使われていた。その内訳で注目するのは、63.9%が再生紙であることです。森林伐採で、ますます深刻化する地球環境の劣化の中で、三分の二がリサイクル適正な再生紙が占めている。
振り返ってみて、そもそも再生紙とは、いつ、どこで、誰が作ったのかに興味を持った。意外や意外、その人物とは南喜一さんという日本人です。


この方は石川県金沢市の人で、上京して早稲田大学理工科に入った。苦学生で生活は艶歌師、人力車の車夫などをしていた。その時の艶歌師先輩とコンビを組んだのが、東大医学部の学生でした。先輩が卒業する頃は、学生の身分で艶歌師を禁止され、それで車夫になる。あまり実入りが良くないので、一念発起して1年間学校を休学して、上野の薬剤師専門校で資格を取りました。その縁で、先に卒業していた先輩の医学生が吉原病院に在職したおり、そこに職を置くことにした。


学生の身分でできちゃった結婚した。奥さんの実家が向島の寺島村の出身、義兄が当時の石鹸工場の職工であった。その頃の寺島界隈は、今の花王やライオン、カネボウ等の石鹸工場群があり、廃液が水田を冒して、農民がつけ火の騒動を起こした。


義兄は野次馬で見学中に亀戸署に逮捕された。南さんは、義兄の釈放に向かい署長と交渉した。理学部で理路整然と廃液の中からグリセリンの抽出すれば問題ないと話した。
義兄は釈放、署長は関係会社に廃液処理の知恵を授けたが、事態は解決されない。再度呼ばれ諮問され、それではと実際にドラム缶を購入して実験をして証明した。


それを契機に実際に工場を起こした。グリセリンは下瀬火薬の原料となり、一躍成金となる。当然ながら廃液が金を生むから、石鹸工場は社内処理に向く、そこで南さんは事業転換を図る。


エボナイトに着目した。ガス灯から電気に変わる時代であったので絶縁体の需要は旺盛であったので大成功した。人手が足りず弟2人を呼びました。それと同時に先輩医師からの依頼で水野成夫さんを入社させる。東大の優秀な人物ですから会社規模を拡大する上には貢献した。しかし副産物も残した。それは水野さんが東大の共産党の細胞として活躍していたので、一時の避難所的な形で在職していたが、弟2人は感化された。
水野さんはその後離れたが、事件は関東大震災で世情不安を理由に亀戸署で虐殺があった。南さんの弟が、その中の一人で殺されたのです。


義憤駆られた南さんは、弟の敵とばかり体制側に牙を向けたのです。事業で成功していた会社を売り、その資金の多くを共産党に寄付して、それを足がかりにして党幹部になり、闘争闘士に変貌した。


しかし治安維持法の制定でおきた3.15事件で南さんは逮捕された。
ここからが南さんらしいエピソードがある。危険思想のある人物であるから雑居房には収監することができず、独居房で、なおかつ危険思想人物との接触が禁止されているので看守さえ言葉を交わすことがなかったそうです。必然的に閉鎖された空間での時間の使い方が、その後の人生を変えるきっかけになるとは南さんは思っていなかったようです。


長い収監期間で、やることがないので食事と健康のパロメーターとして排便の観察に取り組んだ。朝、昼、晩の食事内容と自分の体調のリズム、それに排便時の色、形、固さ等の観察日記を克明に付けていった。当時の監獄所は水洗でなく溜池方式で窓際の壁に沿って下に落とす方式がとられたそうです。ある日、何時ものように観察していると古新聞が引き詰められた上に垂れ流したのが、新聞のインキが脱墨していることに気づいた。


日本人はコメ文化で成り立っている。当然ながら成分に米糖(糠=ぬか)がrグロプリンというタンパク質で、昔から日本人に馴染みの洗剤であった界面活性剤であった。面白い発見の新事実に興味を持った。


3.15事件の転換は、同じく収監されていた水野成夫さんが、獄中で転向宣言を発表して釈放された。それを南さんは聞いて、同じく転向宣言して娑婆に出てくるが、寺島に家に戻って始めたのが玉の井(永井荷風の濹東綺譚に登場する)入口に婦人解放同盟をボランテリアで開く、当然ながら話題になり水野さんと旧交を温めることになった。


監獄時代の話に及び脱墨のことも及ぶ、当時の水野さんは転向後、もともとのエリアであったフランス文学に向かい翻訳物でベストセラーを出していた。その良き理解者が宮島清次郎さん(日清紡社長)で、繊維で財を成していた。陸軍から軍事物資補充として、紙の製造強化の一環として再生紙を作ることで国策パルプを創設した。


なかなか思うようにいかない時に、脱墨話を聞き陸軍に申請した。そこで宮島さんが私財を出し、太平洋戦争の前の年に、国策パルプ内に大日本再生紙株式会社の研究所を作り再生紙を作った。


終戦後合併して国策パルプ社長に水野さんがなりました。水野さんはその後文化放送を買収して、それを土台にフジテレビを創設し、その後、産経新聞を再建した。


一方、南さんは京都大学医学部の出身の代田稔さんの依頼で、「ハガキ一枚、タバコ1本で買える健康」のヤクルト(ラクトバチルス・ガゼイ・シロタ株=代田さんの名前を取って)を設立した。家え貧して孔子出るの諺もあるが、時代の変化に十分と対応できた南さんの生き様にエネルギーパラーを感じる。


再生可能エネルギーと言われ自然の恵を謳歌することも大事であるが、それよりも、もともと持っている人現本来の知恵と叡智のエネルギーを発揮することが今ほど求められていると思った。