ドラゴノーツーザ・レゾナンスー
第24話「逆鱗 ―消えゆく明日―」
本当に今更だがおっぱいに執着がない
おっぱいアニメってどうよ。
あらすじを思い出していたのだけど
驚くほど「キスダム」に展開が近いのに
びっくりしています。
タナトスが「人類は地球のゴミだ」なんて
きわめて人類的な発想をしているのはともかく
GONZOが「経済的」に展開したアニメで
生きることは素晴らしいッ!とかと言われてもねえ
お家芸のCGアクションに上乗せしてなんか
映像的な「冒険」でもしてくれないとこれぐらいの
脚本だとアドレナリンがでないよなあ
「死んだ」はずのアキラとか変態王子とか
コロコロ出して「死生がぼやけた世界」って
納得できるほどの「信頼」をこのアニメは培って
きたってそのデカイ胸をはって言えるとでもいうんか。
墓場鬼太郎 第11話「アホな男」と
まとまりそうもないまとめ ○
最後まで来てようやく「人間を笑い飛ばし、
生きる喜びを謳いあげていく」っていう
どっかで聞いたようなお題目に沿った
カタチの話しがようやく来るという
とことんひとをくった話しよなあ。
いちおうの主人公たる鬼太郎も
最終回だしいっちょ気張るかフハッ
なんて娑婆っ気は微塵もなく
死後保険の販売員に終始、さすがによく
わかっていらっしゃる(笑
「地下にいる『もう一人の自分』と
入れ替わる」話しはまさしくチェンジリング。
これってほとんど人類がベースで所有している
欲望なのだろう。
人間の生活がせわしなくてこれもある種の「地獄」
っていうのはもう現代人がそれに違和感を感じ
なくなってしまったぐらい手垢のついたイメージ
だけど、当時の「モーレツ」な時代なら異端を
名乗ってもいいのかも、そして地下に落とされた
連中が「千年に一歩しか動かない妖怪が歩いたぞ
ワー」って歓喜するってシーンはえもいわれぬ
感動がたしかにあった。
しかしまあここまで「いいかげんな世界」を維持
するためにはそれを維持するための「空気」が
たいへん重要なわけで、こういうアニメであれば
それは「ガミラス人にとっての放射能」ばりに
必須なことで、しかもそれは必ずしも報われるとは
限らないという。テレビアニメがそういう「余裕」
―命を削って造り出す余裕
を含有するようになったというそのことがまさに
隔世の感なわけで、使い古された表現だと
「時代がようやく鬼太郎に追いついた」と
いえるのではないでしょうか父さんキシシ。
逮捕しちゃうぞ第22話
『運命のフルスロットル』と総括 △
結局主役たるふたり、夏実と美幸が海外だの
自衛隊だのに出向してたって設定はあまり意義が
なかったような、つまり「いつもの」逮捕と比べて
それほど上澄みがあるわけでもなかったのでは。
そういうわけで、印象に残るはなしも「子供」とか
「爆弾」とか、昔からみている人たちは以前登場
したキャラが出演した回とかぐらいのもので
極めて保守的ではあるけれど、まあそこはそれ
「公僕」だから、無茶ぶりもできないってことかな。
H20 第12話 「H2O」と
否定的な感想 △!
精霊会議(笑
「田舎」「少女」「暴力」「盲目」
「母親」「友情」「退行」「犠牲」
そして「復活」と萌え脳のひとなら
脳汁がビュッと飛び出しそうな設定の
ごった煮だけどそれらの設定を無造作に
ただブチこんだだけってのがすごい。
あるいは、ゼニも払わない連中にはこの
程度でじゅうぶんという作り手側からの
辛辣なメッセージなのかもしれない
経済的な感動
経済的な精神
経済的なセカイ
CLANNAD 第22話「影二つ」と
総括 ○
「だんご大家族」を渚が歌うところが描写
されなかったのはたぶんこの話しがギャルゲ的
領分、つまり「恋愛」までのお話ってことで
「家族」の話しまで掘り下げる気はないよって
作り手側のおたっしなのではないだろうか。
>「入」を三度飲む
役に「入り込む」ことができないもどかしさ
あるいは例の「誰かが誰かを支えているから『人』」
っていう理屈にたいするアンチテーゼ。
>秋生
「パンを焼いて生きる」ってのは文字どうり
「食べるために生きる」ってこと
そして「夢」を託した娘への生の感情むきだしの
檄を飛ばすのはそれがすなわち高度な「演技」で
あるともいえるわけで、幻想と現実の融合。
CLANNADを見ていて、いつも思ってたことは
「あーもっと見ていたいなあ」ってので
それは渚と部活動設立のために奔走しているときや
風子やことみや智代とかの為に尽力しているとき
あるいは春原とバカやっているのがほとんどの時
でさえ、20分も経過してだんごの歌が流れ出すと
あーもう終わりかよコンチクショウという気分に
なってしまうわけで、気分的には1話あたり
40分ぐらい見ていたい感覚があった。
旨い酒をガブガブ飲みたくないような気分かな。
振り返るとまあちょいちょいと不思議話とか
痛みを伴った過去話とかあるいは恋の話しとかが
あったのだけど、どれも退屈ではないにしろ
血眼になってとっくむようなものでもないわけで
そういうビミョーな距離感の話しをかの京アニが
その手でもって操った結果
「爽快ではないけど非常に心地よい」という
アニメーションでは極めて希なエモーションを
抱かせる作品になったのではないだろうか。
そして皮肉なことにその貴重な世界は
「24分2クール」というキッチリとした枠に
そぐわないものになってしまったのではないか、と
思った。
第24話「逆鱗 ―消えゆく明日―」
本当に今更だがおっぱいに執着がない
おっぱいアニメってどうよ。
あらすじを思い出していたのだけど
驚くほど「キスダム」に展開が近いのに
びっくりしています。
タナトスが「人類は地球のゴミだ」なんて
きわめて人類的な発想をしているのはともかく
GONZOが「経済的」に展開したアニメで
生きることは素晴らしいッ!とかと言われてもねえ
お家芸のCGアクションに上乗せしてなんか
映像的な「冒険」でもしてくれないとこれぐらいの
脚本だとアドレナリンがでないよなあ
「死んだ」はずのアキラとか変態王子とか
コロコロ出して「死生がぼやけた世界」って
納得できるほどの「信頼」をこのアニメは培って
きたってそのデカイ胸をはって言えるとでもいうんか。
墓場鬼太郎 第11話「アホな男」と
まとまりそうもないまとめ ○
最後まで来てようやく「人間を笑い飛ばし、
生きる喜びを謳いあげていく」っていう
どっかで聞いたようなお題目に沿った
カタチの話しがようやく来るという
とことんひとをくった話しよなあ。
いちおうの主人公たる鬼太郎も
最終回だしいっちょ気張るかフハッ
なんて娑婆っ気は微塵もなく
死後保険の販売員に終始、さすがによく
わかっていらっしゃる(笑
「地下にいる『もう一人の自分』と
入れ替わる」話しはまさしくチェンジリング。
これってほとんど人類がベースで所有している
欲望なのだろう。
人間の生活がせわしなくてこれもある種の「地獄」
っていうのはもう現代人がそれに違和感を感じ
なくなってしまったぐらい手垢のついたイメージ
だけど、当時の「モーレツ」な時代なら異端を
名乗ってもいいのかも、そして地下に落とされた
連中が「千年に一歩しか動かない妖怪が歩いたぞ
ワー」って歓喜するってシーンはえもいわれぬ
感動がたしかにあった。
しかしまあここまで「いいかげんな世界」を維持
するためにはそれを維持するための「空気」が
たいへん重要なわけで、こういうアニメであれば
それは「ガミラス人にとっての放射能」ばりに
必須なことで、しかもそれは必ずしも報われるとは
限らないという。テレビアニメがそういう「余裕」
―命を削って造り出す余裕
を含有するようになったというそのことがまさに
隔世の感なわけで、使い古された表現だと
「時代がようやく鬼太郎に追いついた」と
いえるのではないでしょうか父さんキシシ。
逮捕しちゃうぞ第22話
『運命のフルスロットル』と総括 △
結局主役たるふたり、夏実と美幸が海外だの
自衛隊だのに出向してたって設定はあまり意義が
なかったような、つまり「いつもの」逮捕と比べて
それほど上澄みがあるわけでもなかったのでは。
そういうわけで、印象に残るはなしも「子供」とか
「爆弾」とか、昔からみている人たちは以前登場
したキャラが出演した回とかぐらいのもので
極めて保守的ではあるけれど、まあそこはそれ
「公僕」だから、無茶ぶりもできないってことかな。
H20 第12話 「H2O」と
否定的な感想 △!
精霊会議(笑
「田舎」「少女」「暴力」「盲目」
「母親」「友情」「退行」「犠牲」
そして「復活」と萌え脳のひとなら
脳汁がビュッと飛び出しそうな設定の
ごった煮だけどそれらの設定を無造作に
ただブチこんだだけってのがすごい。
あるいは、ゼニも払わない連中にはこの
程度でじゅうぶんという作り手側からの
辛辣なメッセージなのかもしれない
経済的な感動
経済的な精神
経済的なセカイ
CLANNAD 第22話「影二つ」と
総括 ○
「だんご大家族」を渚が歌うところが描写
されなかったのはたぶんこの話しがギャルゲ的
領分、つまり「恋愛」までのお話ってことで
「家族」の話しまで掘り下げる気はないよって
作り手側のおたっしなのではないだろうか。
>「入」を三度飲む
役に「入り込む」ことができないもどかしさ
あるいは例の「誰かが誰かを支えているから『人』」
っていう理屈にたいするアンチテーゼ。
>秋生
「パンを焼いて生きる」ってのは文字どうり
「食べるために生きる」ってこと
そして「夢」を託した娘への生の感情むきだしの
檄を飛ばすのはそれがすなわち高度な「演技」で
あるともいえるわけで、幻想と現実の融合。
CLANNADを見ていて、いつも思ってたことは
「あーもっと見ていたいなあ」ってので
それは渚と部活動設立のために奔走しているときや
風子やことみや智代とかの為に尽力しているとき
あるいは春原とバカやっているのがほとんどの時
でさえ、20分も経過してだんごの歌が流れ出すと
あーもう終わりかよコンチクショウという気分に
なってしまうわけで、気分的には1話あたり
40分ぐらい見ていたい感覚があった。
旨い酒をガブガブ飲みたくないような気分かな。
振り返るとまあちょいちょいと不思議話とか
痛みを伴った過去話とかあるいは恋の話しとかが
あったのだけど、どれも退屈ではないにしろ
血眼になってとっくむようなものでもないわけで
そういうビミョーな距離感の話しをかの京アニが
その手でもって操った結果
「爽快ではないけど非常に心地よい」という
アニメーションでは極めて希なエモーションを
抱かせる作品になったのではないだろうか。
そして皮肉なことにその貴重な世界は
「24分2クール」というキッチリとした枠に
そぐわないものになってしまったのではないか、と
思った。
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