お話しようよ/goo

たとえば落ち込んだりした時に、
にやっと微笑むそんなことが、
小さな幸せだったりする。
来てくれてありがとう。

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使いまわし??

2010年09月30日 21時29分38秒 | ウェブログ
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よくファッション雑誌や、ネットの画像を見てると、
「あれ???」って思うことがあります。
特に水着写真は、どうしても水着に視線が集中します。(中身じゃないですよ)

これ、たしかで見たことあるなあと思うと、やっぱり~ってことがあります。

そんな、同一水着を集めてみました。
同じ水着を使いまわしてるって思いたくないんですが、メーカーが意図してやっているんでしょうか。

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自分史(6)

2010年09月30日 21時27分52秒 | ウェブログ

偏頭痛が治まらない。
目がちかちかする。
少し吐き気もするけど、煙草の吸いすぎか?
そんなことを思っていたら、母が病院へ連れて行くから、と言って車を出してくれた。

まず眼科へ行って、洗浄してもらおう、ということで、市内の眼科へ。
診察の順番を待つ間に、看護士の問診がある。
一目見たとき、看護士はすぐに診察室にとって返し、院長に耳打ち。
順番を無視して、すぐ入ってと言われた。

院長は一目見て、
「帰ったらあかん!!即入院手術や!!」

キョトンとしている私に、院長は色々指図して、「三重大病院に紹介状書くから行ってください。」
わけもわからず、母に乗せてもらって、三重大学病院に着いた。

すぐに診察が始まり、ベッドの手配と、着替えなどを母に告げると、
「緑内障の深度が進行しています。視神経を圧迫しているので、このまま放っておくと右目はおそらく失明し、脳にも障害が出るかもしれません。
一刻も早く手術が必要です。」

たちまちの不安…。
「治療は、眼球摘出しかありません。
それで、完治するかといわれると、責任は持てませんが、右目だけは救うことができます。
たぶん偏頭痛も収まるはずです。」

手術同意書にサインし、即入院。
その日から絶食。
翌日、とうとう手術の日が来ました。
同室の同じ緑内障の患者のお爺さんが、痛いけど、がんばって、と不安な励ましをくれました。

大学病院なので、医学生が数名立ち会うとのこと。
執刀は女医さんで、「経験が少ないけど、よろしく。」
不安がらせてどうする…。

「あなた、お酒は飲みます?」
「はい、少しぐらいは」(嘘ばっか!)
「お酒飲みの人は麻酔が効かないから、増量するんだけど、大丈夫ね?」
「はい・・・・」

この嘘で、とんでもないことになりました。(つづく)


自分史(5)

2010年09月29日 21時08分55秒 | ウェブログ

父と一緒に家業をやることになって、車の免許がいることになった。
実は私が生まれた時、鉗子分娩で、その際鉗子が左目にあたり、眼球がつぶれてしまった。
そのため、緑内障ということになり、視力は完全に回復は不可能と言われたらしい。
左目は飛び出して、右目の視力も衰え、メガネを掛けてようやく見える状態だった。
小学校では教師からもいじめを受け、同級生の中にはかばってくれる子もいたけど、それでも我慢を重ねて、耐えていた。
ひどく醜い顔をしていたことだろう。
そんな見えない緑内障を引きずって、何とか原付免許は取れたものの、車は無理だといわれた。

何とか、仕事も覚えていった22歳のころ見合いをした。
名古屋の人で、津で見合いした。
これはお断りされた。
女の人に免疫が全くなかったこともあって、今思い出してもしどろもどろだったろう。
23歳のころにまた見合いをした。これは向こうの家庭事情が複雑だったこともあって、お断り。
同じ年に下級生だった子と見合いしたけど、お互い知り過ぎているので、キャンセル。

そして、運命の24歳になって、体の変調が始まった。
偏頭痛がやまない。記憶力が減退する。
マンガを描いていても線がぶれる。
痛みを抑えるのに酒におぼれた。
毎日1升酒だった。現場でも、原付運転中でも飲んだ。
夜は、布団で寝ない日が続いた。
そして残業の繰り返し。深夜の土工事は、明らかに堪えた。
それでも酒の力でやってこれたが、ある日、ついに立ちあがれなくなった。
内科で診察してもらったが、異常はなかった。
酒の飲み過ぎということで片がついたかに思えた。
だけどそれは違った。
もっと違うところに原因があったのだ。(つづく)


自分史(4)

2010年09月28日 21時32分26秒 | ウェブログ

初夏の朝とは裏腹に、いまだに思いをぬぐいきれないことが起きました。
お城公園で、本を読んでいると、向こうから、ひょろりとした若い男が歩いてきて、私の座っている縁石の隣に腰掛けました。
「何読んでるの?」
「…」黙って表紙を見せる私。
「こんな朝早く、ヒマそうじゃない?」
「学校へ行く時間つぶしだから」
「そんな本より面白いことがあるんや。来いや。」
うわぁ、やばい・・・・。金持ってないしなあ…。
「あっちへ行こうや、人気がないから。」

その時私は白の開襟シャツに学生ズボン。
金持っているようにはとても見えるはずはなかったのですが、走って逃げるには、カバンが重く、ほって逃げるわけにはいかなかった。

「いや、もうすぐ駅に行かなくちゃならないから、・・・」
「なにも金盗ろうってんじゃねえよ。来いったら!!」

仕方なく立ち上がると、いきなり男は、私の股間を握ってきました。

ええ~~~!!!

「いいもの持ってるんじゃねえか。(笑)
 あちらで楽しもうぜ。」

なんと、ホモ・・・・!!!!
恥ずかしながら女性経験もなく、キスさえしたことのない私は、それだけで頭に血が上って、意識不明状態。

執拗に股間をいじくり回し、チャックを開け、ブリーフの中に手を突っ込み、それをしごきはじめたのです。
もう何がないやらわからないうちに、カバンで男の頭を殴り、倒れたすきに走って逃げました。
追いかけてきた時、自宅がばれるとまずいと思って、反対の駅の方に逃げた。
急いで改札を抜け、振り返ると、もう姿はなかったけど、ズボンのチャックはおろされ、アレがでたままだったの気がついたのは少し後でした。
シャツで隠れてて不幸中の幸い。
変態男の汚名を着せられるところでした。

それからしばらくして、7月の終わりに、学校を退学したのです。
退学してからは、父の後を継いで、家業を覚えるのに必死でした。(つづく)


自分史(3)

2010年09月28日 21時31分15秒 | ウェブログ

高校を卒業して、伊勢にある大学に合格し、自宅から通い始める。
朝7時半に家を出て、津新町駅まで徒歩、10分。
宇治山田駅で降りて、徒歩15分。
バスを利用する手もあったのだけど、両親の定期代の負担軽減と、ウォーキングを兼ねて、重い鞄を持って通いました。
ここは神道学科もあって、私は国文学専攻でしたが、毎月1日と、15日は、月並祭と言って朝6時に内宮に集合してみそぎを受け、参拝してから、授業でした。
当然6時に行けるはずはなくて、担当教官からおしかりを受け、寮への入寮を勧められた。

もうその時退学するつもりでいたけど、神宮徴古館の古文書を読みたかったのと(この学生はフリーパスで資料を読める)その隣合わせの倉田山にある茶店のKさんに会いたかったからだ。
Kさんはプロの漫画家で、少女フレンドに連載を持っていた、
同じころ、三重県出身の小島剛夕氏と知り合い、アシスタントの道が開け始めていた。

小島剛夕氏は、ご存知の方も多いと思うが、あの「子連れ狼」の劇画家である。
「ちゃん!」「大五郎!!」の名セリフを知らないかなあ???

で、このKさんは、いろんな漫画界の情報を教えてくれ、曼研のゲスト的な存在であった。
でも突然恋愛問題で、筆を折ってしまい、行方不明に。
アシスタントの話も、画風が違うので、ご破算になった。
結局半年で大学はやめることにした。
両親にとっては、経済負担が減って、ほっとしたと思う。

授業料を払っている分は聴講できるので、それからも、前期終了まで通った。
受けたい講義だけ聞きに行くので、午前中は、お城公園で、文庫本を持って時間つぶしをすることが多かった。

初夏の頃、お城公園は涼しくて、このまま講義に行かずに眠ってしまいたい誘惑にも駆られて、お気に入りの文庫本に熱中しているときに、事件は起ったんです。(つづく)


自分史(2)

2010年09月28日 21時29分51秒 | ウェブログ

こういう本にするまでは、昔のサイン帳のようなものに、コツコツと詩を書きためてました。
本格的に詩を書きだしたのは高校生になったころから。
漫画も、その頃からでした。

高校に入って、文芸部に入部して、ショートショートを書く傍ら、漫画好きの友人たちと漫画研究会を発足し、椿の咲くころだったので、「カメリアコンパニオン」というグループでした。同人誌を通じて、日本中に仲間を募って、津市の画廊を借り切っての展覧会も年1回行いました。
先日リンクした「だんかいくんのさんぽ」をブログアップしてる彼も、この時の仲間です。

何度か展覧会を重ねるようになると、メディアに取り上げられるようになって、新聞社からの、カット依頼や、CBCテレビの出演、FM放送のインタビューもありました。
そこで一緒に出演した他のグループとのオフ会も、年に数回行って、お互いの研さんに励んでいたのです。

詩の方は全く駄目で、下級生の方がいい詩をかくので、教えてもらいながら、いろんな技法を勉強しました。
顧問の先生はいいお年でしたが、かわいがっていただき校内読書感想文コンクールでも優勝。その作品が全国大会にまで出されましたが、佳作どまりでした。

そんなことばっかりやっていたから、国語だけは校内ベスト5に入っていたのに、数学や英語は全く駄目で、危うく落第寸前だったんです(笑)
若いうちはめちゃやっても何とかなるもんですね。
補習受けまくって何とか卒業できました。(つづく)


自分史(1)

2010年09月28日 21時27分51秒 | ウェブログ

お友達がが自分史を書くというので、
私もはるか霧のかなたの昔、自分の生い立ちや恋愛を詩集として作ったことがあったのを思い出した。
25歳のころそれまで書きためた詩を1冊にまとめて、自分の1/4世紀のまとめとしたものだ。

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装丁は立派だけど、中は当時だから手書きの湿式青焼(笑)もう変色が激しいが、ちゃんと読めることは読める。
いま読み返すと恥ずかしいようなものだけど、その時の自分がよみがえってくるような気がする。

当時は乾(いぬい) 光晴というペンネームで、あちこち書いていて、
自分でも気に入ってたのだ。
金子光晴という詩人がいて、戦争反対を貫いた反骨詩人であったのだが、彼の詩風に少なからず影響を受けていた。
その息子さんが、乾(けん)という名前だったので、それを合わせてペンネームに無断で使わせていただいた。
新聞のコマ漫画、エッセイ、テレビ番組などにたびたび出ていたのだが、グループ展を最後に筆を擱いたのは、自分の限界を知ったからでもあり、家業の土建屋を継ぐのに集中しなければならなかったこともあった。

長くなるので、数回に分けて、いろいろ書いてみたいと思います。


女装男子

2010年09月28日 21時24分27秒 | ウェブログ

エルエルの部屋というブログがあります。

今日の自分史を書いていて思いついたわけではありませんが、女装男子の好きな方にお勧めです。
ほんとうにきれいです、顔はマスクで見えませんが、体つきといい、足といい、女の子と間違うほどきれいです。

ブログ内では、このコスプレについての記事もありますから、やってみたい方どうぞ(笑)

実はこの方48歳なんです。
いい年して、という批判はさておき、かなりの努力をしてますね。
まあ今はお店では恥ずかしくても、下着を買うのもネットで買えますから、ね。

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こんな人に襲われたんなら許せるかも…(爆)