お話しようよ/goo

たとえば落ち込んだりした時に、
にやっと微笑むそんなことが、
小さな幸せだったりする。
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押し貸し詐欺

2008年05月30日 22時02分42秒 | ウェブログ
 オレオレ詐欺やヤミ金など被害者にお金を振り込ませる振込み詐欺が社会問題になっているが、今新たな詐欺被害が増えている。それが「知らぬ間に自分の口座にお金が振り込まれる」という詐欺だ。

あなたの銀行口座に、知らない間に3万円の入金があったら?


誰かが間違って振り込んだんだね。もうけ~~~。

って喜んではいられません。

ネットオークションなどをやっている方は、その口座は筒抜けなんですね。

お取り寄せとか、共同購入とかでも次第に被害が広がっています。

この実例の被害者も、数年前に少しだけネットオークションをやっていただけなんですが、その情報が漏れたんですね。

こわ~~いお兄さんから、督促の電話がかかってきます。

住所から勤務先、家族構成まで調べ上げているので、泣く泣く利息と元本を払うことに。

それだけではすみません。

これは鴨だと思われたら同様の手口で、次々とあなたに振り込み入金があるかもしれません。

知らないと言っても振り込まれた以上、金銭授受が成立していますから、相手は、法律を盾に押し通してきます。

もし、振込みに不明な入金があったら、弁護しか、消費生活センターにご相談をお奨めします。


参考の記事はこちら

熟読してください。

小松菜とひじきのてんぷら

2008年05月27日 21時53分01秒 | ご飯屋POKET

 

今日は、妻が長男と夕方から出ていて、7時までには帰るっていってたのに、7時半回っても帰ってこない。

その間私は急遽入ってきた見積もりやら電話応対で、パニック状態・・・。

とりあえず娘にご飯炊くように言いつけて、さて、冷蔵庫を開けてすぐできるものを、と探してる間に、もう油に火をつけてる(爆)

もうね、うちはこんなのが当たり前になってきて、
「腹減った~~」と叫ぶ次男はほっといて、

「小松菜とひじきの和風スープてんぷら。」


卵1個と大匙6杯の小麦粉、冷水半カップをざっくり溶いて、氷で冷やしながら、出しの元小匙1、塩小匙半分、ブイヨン小匙1で味付けして、

小松菜のみじん切り、ひじきの水煮缶1缶、花かつお一掴み、砂糖ひとつまみ、塩一つまみを混ぜて180度で揚げる。

スプーンで小さめにね。
残ったら明日のお弁当のおかずにするんだからね。

で、冷凍のシュウマイも一緒に揚げた。
冷凍シュウマイは入れると油の温度が下がるので、
てんぷらの片面が揚がったら入れるようにしました。

てんぷらを返して揚がった頃にシュウマイも揚がります。
竹串を刺してすっと通ればOK.

で、味はついているので、そのままでいいのですが、天つゆが欲しいというので、酒とみりんを1:1に煮切り、野菜のブイヨン(コンソメでもいい)を小匙半分ほど入れ、塩一つまみ、砂糖ひとつまみを入れ、やや甘口のたれに仕上げました。仕上げに数滴、酢をたらして火を止めます。
この間18分。

しんどかったー~~~。

揚がったものからやけどしないように子供達に食べさせ妻も帰ってきたので、8時過ぎにやっとご飯に本格的に取り掛かりました。

困った、
食べ過ぎて、明日の弁当用まで、手をつけてしまったぞ・・・。


豆腐ステーキ、かにあんかけ

2008年05月25日 21時18分14秒 | ご飯屋POKET

おつまみ兼用で、あんかけソースをたっぷり作りました。



ベーコンを細かく切って、鍋で油なしで炒め、

熱湯を注ぎ、塩、チキンブイヨンで味付けし、

かに缶を汁ごとと入れてほぐし、片栗粉でとろみをつけてから、溶き卵を注ぎ、ふわふわ卵をトッピングしたソースです。

仕上げに、ルッコラのみじん切りを入れました。

ゴマの香りがするルッコラだから、うまさは倍増ですね。

ホットプレートで木綿豆腐をこんがり焼いて、この熱々の餡を掛けて食べました。

残ったソースは、かに玉ソースとして贅沢茶漬けに使います。

本当においしい洋風茶漬けも堪能しました。

その割りに、油を使っていないので、さっぱり、おいしいご飯になりましたよ。


暗い函の中で

2008年05月24日 21時52分38秒 | 金曜日は詩人たち

いつまで泣いて

いつまでこの悲しみを

とじこめておいたらいいのだろう

思いを伝えることが

難しいことが

こんなにむつかしいとは

ただ泣くだけしかないのだろうか。

もうすこしだけ

私だって羽ばたきたいのに

自分の声で歌いたいのに。

お願いだから、少しは窓を開けて。

そしてほんのひと時息をさせて。


ダイスなツナ大根をゴマネーズで

2008年05月22日 21時51分08秒 | ご飯屋POKET

今日は、医者にいってリハビリのあと、仕事でした。
腰、太もも、ふくらはぎ。注射を6箇所も刺されて、おかげで楽になったんですけどね。
ストレスがたまっているのか、両足にハドマーという空気圧マッサージをしてもらうんですが、これが痛いくらいで気持ちよかった。



さて、簡単一品料理でした。



大根を6cmほど切って、皮をむき(桂剥き)皮は細ーく刻んでおきます。
大根は1.5cmほどの輪切りにして、1.5cmほどのさいころ型に切ります。

ツナ缶は油もそのまま使います。

熱したフライパンに、ツナ缶を油ごと開け、大根を炒めます。
ぱらぱらになってくるかと思いますから、少し焦げ目が付いたところで、ひたひたにお酒を注ぎます。

塩少々を振って、ふたをして蒸し焼きにします。

すり鉢に、すりゴマ、または煎りゴマを大匙2杯ほど入れ、当たります。
卵黄1個も入れます。
マヨネーズを大匙3ほど好みの量で入れます。
オリーブオイルを小匙1加えて、ひたすらすりこ木で当たりましょう。

ツナ大根のふたを開け、汁気を飛ばします。
フライパンをゆすってからからと返しましょう。

器にとって、ゴマネーズを掛けて、パセリをふりかけ完成です。

グッちゃグちゃに混ぜて食べてください。

マグロのニンニク醤油煮

先ほどのツナ大根が完成したら、ペーパータオルで汚れをふき取り、サラダ油を入れて熱し、一口大に切ったマグロを並べます。
下ろしニンニクをたっぷりと乗せ、返しながら焦げ目をつけます。
半分ほどまでお酒を注ぎ、これもふたをして蒸し焼きにし中まで火を通します。
時々ふたをしたままゆするといいでしょう。
約2分ほどでいいですから、ふたをとって、お酒が残っているうちに醤油、みりん、砂糖で調味します。
おろししょうがを入れてもおいしいです。

仕上げに出しの素を入れます。
最初に入れると香ばしさがなくなりますから、仕上げに入れてください。

ちょっと濃い味になったら、お酒で薄めて沸騰させてください。

七味を振って、火を止めます。
一晩置いてお弁当のおかずにも傷みにくいのでいいと思います。
すぐに食べるのであれば、鰹節でも振ってください。
大根とのコラボでおろしを添えてもいいですね。


食育ということ(5)

2008年05月18日 21時09分00秒 | ウェブログ
鶏肉以外の肉や魚を食べられるようになったのは、本格的に父の仕事をついで、
いろんな会合や食事の席に出るようになってから。
飲むばかりで、食べない私に業者さんも不審がるので、油濃いもの以外はできるだけ箸をつけるように努力しました。

努力、なんていうと、飢饉で困っている国の人から見たら、バカな考えなのですが。

逆にあれほど食べられなかったうなぎは好物になり、会合がうなぎ屋さんが多かったこともあって、よく食べるようになりました。

そんな私も結婚して3人の子供を授かり、いろんな難題に突き当たりました。

娘は、卵アレルギーで長男は食が細く、次男は見境なく大食い。

卵アレルギーは、原因がスーパーの安売り卵だとわかりました。
お金がなかったので、どうしても安い卵を買って、それで卵粥や、玉子焼きを作って食べさせていたのが原因だったようです。
生協の卵に替えてからはピタリとでなくなりましたが、たまに外食すると、赤い発疹が出ることがあります。
また、鶏が病気にならないように抗生物質を混ぜたえさを与えているので、それが体内に入ると花粉症などの抵抗力を奪うことも言われているようです。

長男の食が細いのは、朝の忙しい時間でも、焼き海苔を小さく切って、ご飯を乗せて巻き、食べさせました。
ふりかけは、無着色の干しエビとゴマ、昆布をミキサーで粉砕して、天然塩と醤油、三温糖で味付けしたものをフライパンで炒ったもの常備して、その混ぜご飯を巻いたものです。
これならいくらでも食べてくれました。

でも一番長男の食の細かった原因は、共稼ぎ夫婦でしたから、ふれあいが少なかったことだと思いました。
今では孤食とか、個食といわれている状態ですね。
ある日、残業で夫婦とも遅くなって帰ったら、真っ暗な部屋で、兄弟3人と甥っ子を含めた4人で、炊飯器のご飯を一生懸命手でつかみ、海苔を巻いて食べていたのです。
電気をつけたくても、点けられなかったんでしょうね。
思わず涙があふれました。
冷蔵庫を開ければ、煮物や、豆類、大好きなプリンもあったのに、それらには手をつけず、ご飯だけを黙々と食べて、うれしそうな顔をしていたのです。
時間も遅かったので、玉子焼きしかできなかったのですが、安心したのか、みんな食べながら寝てしまいました。
ひとりにさせちゃいけない。
夫婦でひとりずつ布団に運び、思わず抱きしめてしまいました。

さて、次男は止めろというまで食べる個でしたから、太りすぎが心配でした。
そこで、まず牛乳を温めてバナナを半分入れ、卵黄を混ぜて作ったミルクセーキを食事前に与えました。
おなかも膨れるし、あとはお茶漬けでもいいね、というぐらい食欲が落ちました。
できるだけ揚げ物を減らし、豆腐中心の献立を考えていきました。
肉は鶏肉中心に。
だから子供達がご馳走だ!という日の私のおつまみは決まって冷奴だけでしたが(笑)
幸い妻の実家から野菜をたくさんいただいていたので、メニューに困ることはなかったのです。
食に関する知識もずいぶん勉強しました。
完全な食品添加物抜きというのは、現在ではありえないことだとおもいます。
いかに減らすかが重要なのではないでしょうか。

子供達から、
「お父さんはどうして鶏肉を食べないの?」
と、聞かれたとき、答えに詰まりました。
「お父さんは大人だから、もうお肉を食べなくても十分大きな体をしてるだろ?
お父さんに追いつくように君たちはお肉を食べなきゃね。」
とごまかしましたが、果たして納得したのかどうか(笑)

実は、このブログをずっと読んでいただいてる方はご存知なのですが、
小学校のとき、親戚の家に預けられて、そこで夜のご馳走といえば、飼っている鶏を締めて、その場で羽を無視って、鍋にすることでした。
泣き叫ぶ鶏、むしられた鳥肌、流れる血。
はじめて見る光景にショックは大きく、今でも思い出すほどです。
きっと今の子供でも、そういう光景を見たら食べられなくなるんじゃないでしょうか。

さて、1回だけUPするつもりのこのシリーズが長くなってしまったことお詫びします。
本当はまだ何回も書くだけネタはあるんですが、おいおい単独記事でまた書いていきたいと思います。

食べることは幸せです。
子供がいればなおさら。
勿論独身の方でも、ちょっとした手間で、体を自衛していくのは、大切なことですから、食はやはり大切なことだと思います。

高級な食材を使ったり、手間隙かけて食材の個性を殺したりすることは本位ではないので、わが身を実験台に、これからもいろんな情報を発信していきたいと思います。

食育ということ4

2008年05月16日 22時38分40秒 | ウェブログ
仕事中、頭が重くなって、目が少しかすんできたので、父に頼んで、かかりつけの眼科へ。
診察を待っている間も目の前に霞がかかった状態です。
ようやく順番が来て、診察されたとたん、
「帰ったらあかんよ。そのまま、すぐに大学病院にいって即手術してもらいなさい。
紹介状書いとくから」

なにがなんだかわからないまま、母の運転で、大学病院へ。

すぐに、手術室に運ばれました。

なにがなんだかわからないままに。
その日のうちに手術。
大勢のインターンに囲まれて、左目だけあいたマスクを掛けられて、局部麻酔を打たれたのだけど、効いて来ない・・・。

「意識があるなら聞くけど、お酒は飲みますか?」
「はい、毎日1升ほど」
「・・・・」
「そりゃあ効かんわ」

「でも、緊急手術ですから、我慢できますか」

そのときになってもなにをされるのか把握できてない私。

「??はい??」

「オペ開始。」
今思えばずいぶん乱暴な処置でしたが・・・。

両手両足は拘束されて、胸にも太い拘束ベルト。

いきなり左の目にメスが突き刺さりました。


その痛さ、そして指が眼窩に入ってくるおぞましさ・・・。

あ・・・今眼球を抉り出してる・・・
あ・・・神経を切った・・・
麻酔が効いてないので、じかに伝わってくる吐き気を催す痛み。

のけぞってもわめいても、猿轡まではめられて、とうとう気をうしなったったと思います。

目覚めたら、術後治療で、眼窩に大量の消毒綿を詰め込まれている気配。
放心状態でした。

夜半は、絶対安静で、それでも、トイレにたっておしっこをしにいったら、殺されるかと思う勢いで婦長さんに叱られました。

それから、数日後にこの手術の説明を聞きました。

極端な栄養不足と、緑内障の進行が早くて、残った右目もこのままでは失明の恐れがあること、
酒、煙草の過剰摂取が病気の進行を早めたこと、
それを救うのは、眼球摘出しかなかったことなど。

約2週間入院して、3日休んで、それからすぐに仕事しました。

その間に名古屋までいって、義眼を作ってもらい、取り外しのトレーニングを1時間ほど行い、栄養学のレクチャーも受けました。

食べることは生きる事なんだと痛切に感じたのです。

それからは、食に対して、敏感になりましたね。

特にビタミンに関しては、異常なほどに。

食育ということ3

2008年05月16日 22時36分56秒 | ウェブログ
私の飲酒は小学校5年生からです。
父母が共稼ぎをしていたので、夕食の献立は私の役目でした。
母の親が同居していたので、かまどでのご飯炊きから、てんぷら、煮物漬物、ほぼ基本を教えてもらいました。
遊びたい盛りに家事をやっていたのですから、当然友達も少なかったのです。

相変わらず、肉や魚は食べられませんでしたが、七輪で炭を熾して、さんまを焼いていると、無性に食べたくなってきました。
それまで出されたものは食べなかったのに、自分で焼いて、においを嗅ぐと食欲がわいてきました。

でも食べる勇気はなかったです。

水屋にしまってあった、うなぎの蒲焼を、さんまのあとで、焼きなおしてみました。
今まで父から食べさせられたのは冷えてゴムのようになったものでしたから、焼きなおしたものは香ばしくパリっとして、まったく違う食べ物になってしまったのです。

それを、帰宅した父に出すと、すごく喜んでくれて、お小遣いまでくれて、食べられなかったうなぎを食べる私を見て、父が涙ぐんでいたのを覚えています。

中学は給食がありませんでしたから、各自お弁当か、帰宅して食事して再登校という形のお昼でした。
当時中学校は荒れていましたから、弁当はカツ揚げされるか、午前中に盗まれて、カラの弁当箱だけが残される状態でしたから。

私は祖母のうちで毎日ご飯を食べていました。
おじいさんは、魚が大好きで、毎日お昼から刺身を食べるような人だったのですが、私はそれは口にできませんでした。

玉子焼きと、野菜の煮物、焼き海苔がすべてでした。
うなぎは食べられるようにはなったものの、普段の食卓に上がっても、食べるのは父だけでした。
高校時代はほとんどパン食。
ご飯よりパンでした。
そういう栄養の偏りが、だんだんと体を蝕んでいったようです。
コーラのがぶ飲み、コーヒーの取りすぎ、甘いものを食べすぎ。
しかも新聞社のコラムの挿絵描き、テレビ出演して漫画同人誌のPR,地元FMの取材、忙しすぎて食べたり食べなかったりの日が続きました。

おなかがすいたら、アンパンをかじり、のどが渇いたらコーラでした。

若かったからか、なんとなく目に変調があるものの、そのときはもう完全に左目は失明してましたから、違和感があっても放置してました。

19歳目前で、せっかく入った大学を辞め、自営業の土建業に身を移しました。

現場仕事ですから、毎日のお弁当は欠かせません。
母が(独身だったので)入れてくれるお弁当は、毎日玉子焼きと、厚揚げの焼いたもの。野菜の煮付けでした。

当時は仕事中の飲酒は黙認されていたというか、お客様から、仕事のお茶代わりにと、一升瓶を毎日現場においてくださるのが当たり前、朝来たら一杯、10時に1杯。お昼は2杯。3時に1杯。帰りに当時普通免許がなかったのでバイクなのに1杯。毎日6合を飲んでました。当然帰宅したら3合は普通に飲んでましたから、毎日1升近く飲んでいたんですね。

そして、24歳のときに、沈黙していた左目が暴れだしました。

食育ということ2

2008年05月16日 22時35分17秒 | ウェブログ
小学校時代は給食がありました。
当然カレーシチューや、鯨の竜田揚げなどのおかずもあるわけです。
先生は、給食のときに厳しく監視をされ、残すと食べるまで席を立てませんでした。

私は背が大きい方だったので後ろのほうの席でしたから、肉や、魚はこっそりちり紙に包んでポケットに入れ、休み時間に便所に捨てにいってました。

ところが、級友に見つかり、先生に告げ口されたのです。
職員室に呼ばれました。

「食べ物を便所に捨てるなんて、もったいないことをなんでするンや!これを作ってくれた人のことを考えたことがあるんか!」と怒鳴られ、定規で頭を殴られました。
悲しくて涙が出ました。
食べようと思えば食べられたと思います。
でも絶対に口に入らなかった。
次の給食から、先生がそばにつきました。

小さな一口の肉がどうしても飲み下せませんでした。
次第に気分が悪くなり、吐いてしまったのです。

思い切り殴られました。
あとで、医者から肉や魚を控えるようにという診断書を持っていったとき、先生は「何も知らなかった。すまない」と謝ってくれ、それからはおかずをよそうとき、みんなが肉や魚をよけてくれるようになりました。

でも、本当は、肉も魚も控える必要はなかったと思います。
その当時の食育では、残すのは悪だと言うのが当たり前でしたから、今のように残ったら捨てればいいという考え方はなかったと思います。
何か、ひとつきっかけがあれば、食べられたかもしれません。

ある日父がうなぎの蒲焼を買ってきて、
「これを一切れ食べたら映画に連れて行ってやる」
というので、映画に行きたい一心で無理に一口食べたことがありました。
結果は、やはり受け付けず、吐いてしまいました。
アレルギーも何にもないのに、食べられないことが父も母も不思議なようでした。
眼が不自由なことで、医者に言われたことがしっかり根付いた心因性のものだったのでしょうね。
お子様が、好き嫌いをいうのは、案外なんでもないことが原因なのかもしれませんよ。
叱らず、ゆっくりと根気よく何かの拍子に食べられることだってあるんですから。

あれほど嫌いだったうなぎが、食べられるどころか大好きになってしまった私もいますから。

食育ということ1

2008年05月16日 22時32分19秒 | ウェブログ
小さい頃に、いやな目に会った食物にはトラウマが残って、成人しても嫌いな食べ物であることが多いですね。
私の場合は鶏肉ですが、それ以前に小さい頃から、肉も魚もダメでした。

いったいなにを食べて生きてきたのだろうと思い起こしてみました。

生まれたとき、鉗子分娩(かんしぶんべん)だったので、やっとこのような器具で、こめかみを挟まれて、引っ張り出されたらしい。
そのとき左目に器具が当たって、眼球が濁ってしまった。
幼稚園時代はかすかに見えていたものが、小学校の時にはほぼ失明。

そのときの日記を見ると、両親は、私の目を治すために、あらゆる神社、宗教団体、目治し地蔵などを回ったらしい。
だけどそんなものは効果があるわけがなく、大学病院でも、完治は無理とまで言われた。
小学校時代は、青い左目(青そこひ)でずいぶんいじめの対象にもなった。
左目だけが突出していたために気味悪がられたし、メガネも何の役にも立たないほど、右目まで視力はどんどん落ちていった。
そのとき、うちの2階に間借りをしていた人が、うなぎ屋に勤めていて、毎日、血の滴るうなぎのキモを持ってきてくれた。
それをオブラートに包み毎日朝晩2粒ずつ飲んだ。
血なまぐさくて、いやだったけど、薬だと思って飲んだ。
なんとそれが視力の低下を止めてくれたようだ。

もう左目はすっかり見えなかったけど、右目の視力は少し回復した。
そのとき通っていた眼医者の先生に言われたことが、これから私の食生活を左右する。

「肉や魚は、目を濁らせるから、できるだけ野菜を中心に食べなさい」