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地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

丹波霧     ( その6 )

2008-08-06 08:06:27 | ある被爆者の 記憶
 「 何をしとってのお家なんや。」
 そらきた。この質問ほど嫌いなものはないのに、答えるものかと思った。もうその頃、花柳界での仕事というものが、世間一般の職業と同様に扱われないことを充分に知っていたのである。
  「 言うてみ、大概の家なら見当がつく。」
 私は、しつこいと思ったが、ふと、山伏と色街との不釣合を想像して、見当などつくものかと、やや余裕をとり戻した。
 「 おっちゃんたちは、一軒々々御祈祷してまわる時もある。せやさかい、篠山のことなら、何でも知っとる。」
 私が答えないので、山伏は誘導尋問にかかった。
「 ・・・その西町の親戚というのも宮川さんか?」
 私は、すなおに首を振った。
「 そうじゃろ、その家は何と言う。」
「 山路。」
 私自身、山伏の反応が知りたくなって答えた。
 さすが、山伏らしく瞑目したかと思うと、
「 西町の山路・・・、西町ではなかろう、乾新町の山路さんではないか。」
 私の方が驚いた。これが山伏の念力というものか―。
 西町は叔母の家で、母の実家は乾新町である。私の顔の輝きを見てとったか、山伏は急に、懐かしそうに、しかも鄭重に言った。
「 そうか、山路さんの御一家か―。」
 しげゝと私の顔を見て、
「 何かの因縁じゃな・・・。」
と言って、胸に掛けた数珠を、綾とりするように指に掛けて、何やら祈った。
「 昔、わしは、あんたのお祖父さんにあたるんじゃろ、山路さんにえらいお世話になった。遠い昔のことじゃがな・・・。わしも昔は篠山の人間じゃった。」
 山伏は寂しい笑いを残したまま、あとは語らなかった。まわりの山伏たちは、この老山伏の過去を知っているのか、聴き耳を立てる様子もなかった。
 ただ、西町駅で、私が下車する時、老山伏も立ち上がって、私の傍まで来た。ひどく右足が跛を引くのに気がついた。
「 山路の仏壇に、よう手を合わせてな、拝んでおくれ。」
と言った。
 私は、しっかり頷かねばならぬように思った。

丹波霧     ( その7 )

2008-08-06 08:05:06 | ある被爆者の 記憶
私は、その時も、その後も、軽便鉄道での老山伏の話を、山路の祖母にも、母にも話していない。ただ、そのことがあってからは、山路の家の表座敷の上の中二階が、気になった。階段が天井に引き上げられたままで、開かずの間にちがいなかったが、日頃の生活とは何の関係もないように、隔離されていることが、却って深い意味をもっているように思われた。
確かに、その部屋には、祖父の遺品がしまわれていると言っていたし、母もまた、子どもの時、それは日清戦争直後あたりであったのであろうか、腕白ざかりの従弟たちに連れられて、この中二階にこっそり上がり、刀長持ちから、刀を出して、それぞれの子どもが、刀を振りかざして、
  日清談判、破裂して
  品川乗り出す駆逐艦
  続いて金剛、吾妻艦
口々に、当時流行の軍歌を唱って気勢を上げたら、忽ちにして、親に露顕して、仕置きをうけた失敗譚を、何のかくし立てもなく子どもたちに聞かせたこともあった。
 その部屋には、刀が何本も入った刀長持があったということだけでも、興味が湧いた。しかし、その部屋に何がしまわれているかよりも、人目をさけるようにしまいこまれてしまうことの方に、私は関心を抱いた。
 たとえば、刀長持ちにしても、貧乏下士の家に、そのようなものがあることが、謎めいて感じられてならなかったのである。また、この家の者はもとより、泊り客でも、厳重に守らなければならない、変わった約束事があった。それは、入浴、もしくは、洗濯の場合でも、濡れたタオルをしぼって広げる時に、両手でふるって音立ててはならぬという。その理由は、人の首を刀で斬り落とす音と全く似ているからと言うのである。

丹波霧     ( その8 )

2008-08-06 08:04:05 | ある被爆者の 記憶
おそらく、山伏の話を、祖母や母にも伝えなかったのは、この変わったタブーのある家の歴史とのかかわりを、子ども心に直観したためであったと思う。老山伏が、山路の祖父にえらい世話になったというなら、祖父が、その凄腕を鳴らした警察官時代でなければならない。その祖父が、濡れ手拭いを広げて水気を切る音に、人の首を打ち落とす音の似通いを聞きつけるというのは、普通ではない。
 老山伏の過去と、祖父の過去とが結びついているとしたら、この勝手な想像の中でしかないように思ったのである。
 山路の家は代々刑吏、つまり首斬り役人であったかどうかは別としても、牢獄、形場を預かる家であったにちがいない。父が祖父を不浄役人と軽侮したのも、母方の実家のことであり、どこまで父は詳しく知っていたか分からないが、当っていないことではない。祖父は代々の家業を、時代が変わっても踏襲したことになる。
 明治新政府の権力機構の末端としての地方警察が、どのように組織され、編成されたかについては詳しく知らない。
 しかし、山路の家に限っては、断髪、廃刀して、官服に着替えただけで、仕事そのものに変わりはなかったことになるのであろうか。
 初孫が虚弱であるといって、元気づけのためにわざと帯刀して、いっしょに写真を撮らせたりしているくらいだから、その表情からも、明治維新という歴史の転換期の動揺は見当たらない。

丹波霧     ( その9 )

2008-08-06 08:03:04 | ある被爆者の 記憶
 この祖父が死んだのは大正十二年、軽便鉄道竣工は大正四年九月だから、祖父もこの軽便を見ている。
 しかし、祖父は生涯、この軽便に乗らなかったという。警察官として、公務の場合もあっただろうと思うのに、頑なに何かを守ったとしか言いようがない。刑事としての腕利きを見込まれて、所轄外の警察に何度も出張している。そのような時はどうするのかと言えば、当時、阪鶴鉄道と呼ばれた、大阪、舞鶴間を走った交通機関は何の抵抗もなく利用している。すると、祖父も、この旧城下を煤煙で汚すことを嫌った保守派の一人だったのだろうか。
 篠山が離合集散して、完全に幕藩時代と決別するのは、明治四年九月六日であったと思う。もちろん、軽便鉄道はおろか、鉄道馬車さえ、まだついていない。
 この日、華族条例によって、旧藩公は、東京移住を決定、次のような告諭文を残している。
  
  「 我等今般帰京後、於各、猶又朝旨を遵奉し、私見を去り、県令を重んじ、いやしくも県下に在る者、先知は後知を覚し(さとし)、迷誤なくいよゝ恪勤(かくきん)して県令に従はしむるを以て、祖先累世の恩に報ずることをせば、我等の大幸これに出でず、万一、己(をのれ)の私見を執(と)り、朝廷御役人に遠慮するものあらば、大罪身を容るる所なし。よろしく、微衷を察し、鎮静奉命せんことを希望す。
  この事、深く関心候につき、重ねて申し諭し候也。
   辛未九月
  追て、秋冷の時分、各々保護し候やう存じ候。」
 
 この文章のどこにも、新時代到来の足音を聞きつける歓喜の声は発せられてはいない。むしろ、御一新という兇暴な権力の前に虐げられた敗者の声を殺した嗚咽があるというのは言いすぎだろうか。

丹波霧     ( その10 )

2008-08-06 08:02:27 | ある被爆者の 記憶
この旧藩公の告諭が、どこで、どんなかたちでなされたか、今はそれを伝える人もいない。だが、はっきりと分かることは、いや応なしの歴史の転換期に動揺する人心を、ひたすら、かつての君臣の情誼に訴えて慰撫していることだ。
 祖父も、きっとこの群れの中の一人であったにちがいない。
 篠山に迫る官軍陣営に、御家老にお供して誰よりも早く、時代の急変を見聞した祖父である。そして、そのことを引き金として、篠山の封建体制は音を立てて崩れ、なすことを知らぬ篠山藩であった。
 この藩公東京移住の条例は、明治新政府が幕藩体制に打った最後の止めであったろう。
 罪なくして主君を奪われ、残された家臣団は、明日からは完全に崩壊、離散の憂き目に曝されなければならなかった。
 祖父はおそらく、何のために、早うち同様に、山陰道鎮撫使の本陣がおかれた福住村山田嘉右衛門方まで四里余の雪道を駆け続けたのかを思い出していたにちがいない。ただでさえ冷たい丹波路を、身ごしらえは礼装の麻裃に蓑笠つけただけの丸腰のまま、みぞれ混じりの寒風に、馬首を立て直し、立て直ししたにちがいない。

丹波霧     ( その11 )

2008-08-06 08:01:26 | ある被爆者の 記憶
官軍は、西上(にしがみ)の山、甚七森に前哨を置き、東水無川東岸には陣幕を張りめぐらし、砲四門を据えていたという。
 威猛高な官軍兵士の前に、平蜘蛛のように平伏して、ひたすら恭順の意を尽し、黄金百枚を献じたのは、一体何の役に立ったのかを、祖父は思い出しては、歯嚙みしたにちがいない。
 旧藩公、それに追随する旧藩士たちが、遂に再び帰ることなき篠山を後に、どの街道を出立したのか、別離を惜しみ見送る者たちが、どこでそれを断念したのか、今となっては知る由もない。
 しかし、その最後の最後まで、おそらく旧御領内の最果ての地まで見送ったのは祖父であった。
 山路の家は代々、道の者を束ねる家柄であったからである。つまり、今でいうと末端警察権を握っていたのである。お殿様の道々の安全を見守る最後の御奉公であったかもしれない。
 しかし、それが最後であると思えば思うほど、その日も粛々として降る丹波霧の中に、暮れ泥んでいく篠山盆地は哀しかったことであろう。
 丹波の秋は殊更に静かである。秋には秋の佇いを、例年同様に示す野山の故に、祖父の目に痛ましかったにちがいない。

 篠山はこの日から、夜明け前というより、昭和二十年まで、悪夢を見続けることになる。

ある被爆者の記憶

2008-08-01 23:07:54 | ある被爆者の 記憶
今年もあの暑い夏の日がやってくる。なぜこのようなことを思いついたのかはわからない。そのように思いつかされたとしたか言いようがないのだ。

被爆者である恩師が残して往った「 HIROSHIMA の 記憶 」
『 忘れ水 物語 』
おそらくワタシはその伝承をしなくてはならないのだろう。

+++++++ 2008 ・ 8 ・ 6 ++++++++

どうぞ 今年も八月六日 広島原爆記念の日に当ブログにお越しください。

記事の入れ替えが終了しますまで、カテゴリーからのアクセスをお待ちいただければ幸いです。

黒の水引とんぼ    その1

2007-08-06 08:15:16 | ある被爆者の 記憶
 五代目与次兵衛の子供が与三次、名前の上では、いかにも父子らしい。ただし、本当は与三次は家つきの娘かねの婿養子にきたらしい。とにかく、与三次とかねとの間に生まれた子は、また与三次を名告っている。つまり、宮川家七代のうち、与次兵衛と呼ばれなかったのは、この与三次だけである。本来ならば、与三次が、この家に入ったとき、与三次が六代目与次兵衛を名告るべきで、それが名告れていないことは、何か特別事情があったと考えられる。私の父、宮川与次兵衛は、五代目と母かねのことは語りはしても、父与三次のことは語らぬばかりか、故意にそうしているのだと思われたし、実際記憶にないのではないかと、私などは勘ぐっていた。
 我が家の古ぼけた仏壇の中には、与三次とかねの位牌がないことを私はとうから知っていた。
 ただ、とうから知っていたといっても、そのとうからの時期は分からない。物心つく頃の記憶というのは、時期がない。前々からの記憶という外ない。
「盆にとんぼとりしちゃあいけん。それにみちょれ。盆になると、黒い水引とんぼが出てこようが。あれはな、あの世に行ちょっての人がこの世へ戻って来ちょっての姿じゃけえー。
そういうてな、お前のことを、ほんま、とんぼとりの好きな子じゃちゅうてな、お前の尻ばかしついて、よう孫の守しよりんさったが。・・・お前はようおぼえちょらんじゃろ。」
その通り、私は何ひとつ父方の祖母のことは覚えていなかった。それでも、父は私に祖母の印象を植え付けるためかと思われるほどに、何度もこの話をした。
「あれが最後じゃったのう。あれで、もういなくなってしもうたんじゃ。」
 父の語りはこれで終わる。自分が、自分の母を偲ぶ心も混じっているから、実感がこもって聞こえる。「あれが最後」という「あれが」が子どもの私に分かるはずがない。
けれども何度も聞いているうちに、なんだか祖母の顔が見えてくる気がして、黒い水引とんぼと祖母の顔が交錯するあたりに、あれが最後のあれだろうと決めていた。
 「あれが最後」というのが、「人生の終焉」を意味することを知らしめられたのは、全く黒い水引とんぼを例に引いてくれた祖母のおかげかもしれない。そしてその話を繰り返して私に聞かせた父を持ったためでもあろう。
 私にとって、この最も古い記憶が、「人生の第一歩」として輝かしく画きはじめられるのではなく、黒い水引とんぼをあしらった暗い印象から始まるように決定づけるのは、もう一つの昔の思い出を持っているからである。

黒の水引とんぼ   その2

2007-08-06 08:14:30 | ある被爆者の 記憶
  「みんな。ここへ来とうみ。」
 もう子供たちは眠るばかりの時刻だったろうか。どうしても季節は思い出せない。
 外から帰ってきた母が、何やら外聞を憚かる様子で、座敷の中央に座った時、子どもたちは、何事か身に迫る異変を感じた。母がこんな真剣に、しかも、しきりと外を気遣った目配りといい、その外とこの内の母と子ども三人の動静とは関係があるのだなと思うと、体が硬ばって来た。それに気がついてか知らずしてか、兎に角、母は、母鳥が両翼を精一杯ひろげて雛を囲うような具合で、それでいて、無理にでも落ち着くんだと平成を装うから、三和の雛は、この場の空気に会わないような声も問いも発してはならないと思った。ただ首をすくめて、次に聞かれるであろう母の口元を見つめた。
「永松の四郎さんが、なあ・・・。」
 わざと声を押し殺していることによって、詳しい事情はまだ何一つ聞いていないのに、やっぱりと思わずにはいられなかった。いや、そう思うことが、この場のルールのように思われた。
 もちろん、小学四年生と二年生であった私と私の弟とは、そのルールに従いながら、そのやっぱりという感情に符号して、回帰すべき割符を持っているわけではなかった。
 でも、姉のすみ子にはそれがあるらしかった。なぜなら、永松四郎と姉のすみ子とは、四郎が無事除隊でもしてくれば、おそらく似合いの若い夫婦として、順調に祝福される段取りが用意されていたからである。
ー私は今でもそう思っている。もしも、四郎さんが、平時のような三月志願兵であったら、難なく軍隊をつとめ上げて、あの江戸前仕込みのいなせな男っぷりで、またこの田舎町を闊歩したにちがいなかったろうし、その時には、姉のすみ子と評判通り結婚していたと思う。
 しかし、そういう思いが強まる時ほど、その実現には、蹉跌の忍び寄る不安が大きいことを、私はぽつぽつ感じ始めていた頃であった。私が早熟だったからではない。人が幸福になろうとする悲願は人目を憚った私事であり、私事は公事の前にはひとたまりもなく、お日様がが出ると、忽ちにして消えてしまわなければならぬ芝露のようにはかないものと、思い慣らされてきていたのである。
 それが、戦時体制に突入していくその頃の特徴であたのか、あるいは全く別に、日本人特有の体質で、大げさにいえば、お家の一大事好きからくるものか、それとも、日常的にいえば、はにかみやで照れ性の私自身のなす業なのか、私にはまだ分からなかった。

黒の水引とんぼ   その3

2007-08-06 08:13:40 | ある被爆者の 記憶
 母親の顔つきは一段と険しくなった。
「誰にも言うたらあかんで。永松の家のぐるりは、憲兵さんが見張ってはるんや。」弟のみずほが、ぶるるっと大きく震えたが、それを見て、母も姉も、そして私も笑わなかった。本人も照れ笑い一つしなかった。
 憲兵さんが永松の家のぐるりを、どうして見張っているのか、弟がなぜそのことを尋ねないのか、私は不思議だった。かといって、私に全てがのみ込めているわけではない。おそらく、弟と私とは同じ程度の理解でしかなかったろう。それだけに私はなおのこと、弟に、もっと深く質問させてみたかったのにちがいない。自分ではとても尋ねられなかった。
 ー今にして思えば、詳しく四郎さんのことを知りたいと思う者ほど、尋ねられなかったのであろう。すみ子姉がその折、発言した記憶が私にはない。もっとも子どもたちの誰かが質問していたとしたら、母は何と答えるつもりだったのだろうか。母さえ、永松の家族や憲兵の誰かに会って、四郎脱走の情報を掴んでいたわけではあるまい。直感で、そう思ったのにちがいない。最悪の事態の到来として、永松の家の周辺を見張る憲兵の物々しさから、そう判断したのに決まっている。
私たちは、夜が深まるにつれて、外界の全てを音だけを頼りに知り尽そうとした。緊張に耐えられなくなっては、かわるがわる太い息を吐いた。そしてまた時々刻々緊張に身をこわばらせた。
 突如、水鳥の羽ばたきよりもあわてた、浅瀬を突っ走る音がした。
 「待て!」
と言ったかと思うと、銃声一発、異様な轟音を永々と残して消えた。黒岡川の両岸の石垣が、音響板代わりになったのである。
足音が、ぴたっと止んだ。
四郎さんが撃たれた。ー 見もしていないのに、疑いもなくそう思った。