goo blog サービス終了のお知らせ 

地球へ ようこそ!

化石ブログ継続中。ハンドルネーム いろいろ。
あやかし(姫)@~。ほにゃらら・・・おばちゃん( 秘かに生息 )。  

お百度詣り  ( ワタクシごと ・ 序 )

2009-08-05 07:46:05 | ある被爆者の 記憶
ワタシは人生で一度だけ、お百度詣りのようなことをやったことがあります。実家の父が癌になったときです。

恩師が、母親と弟とともにお百度詣りをした時のように真夜中ではなかったけれど、早朝一番電車に乗って、遠く帝釈天に出かけました。当然御寺に着くころには、陽はのぼり、人々もちらほら境内にいたりして、ワタシは正式な詣り方もしらないし、恥ずかしさがなかったわけではないけれど、それを越える”想い”があったように思います。

その結果、父が奇跡的に助かったか?といえば助からなかったわけですが、ワタシはいろいろなことに気付かされ、今思えば、それはそれでよかったのだと思います。

+++++  +++++

恩師( 上原輝男 )先生が広島駅近くで被爆して、その両足を切断するほどの大きな傷を負ったにもかかわらず、生還したのにはわけがあるのだと思います。
これはワタシの勝手な想像ですが、そこには恐らく 母親の祈り  があったのだと思います。

この ”お百度詣り ”は、そのようなことを思わせるお話です。

恩師は、両足切断をせずにすんだのだし、それどころか剣道六段の腕前であったと聞いています。
 被爆 ~ 祈り ~ 甦り ~ 生きる 
私たち弟子に言い続けたように、 生涯 私心を捨て ”こどものいのち ”を守ろうとした人でした。
@@@@@   @@@@@

>お百度詣りhttp://www.tabiken.com/history/doc/P/P163R100.HTM
>写真は 乃木神社 境内 桜のとき
本日 長崎原爆記念の日 原爆で亡くなられた方々、生きて祈り続けていらっしゃる方々のお幸せをお祈りいたします。

 *** ある被爆者の記憶 *** ( 5年目の夏 )

2009-08-02 11:58:24 | ある被爆者の 記憶
恩師(上原輝男先生)が私達、弟子に残してくださったものの一つに、ご著書 「 忘れ水 物語 」 があります。

>>> ワタシがこの化石ブログを始めたは、恩師の被爆体験にもとづいた、このご著書を世間の人達に伝えたいという想いがあったからだ。

当時のワタシはまだまだ病いの中にあったので、それこそ”うわごと”のレベルで始めたことのようにも思える。書きたい、というより、むしろ書かされていた、というような気もする。

ワタシはこのところ、少しこの世人(このよびと)らしくなってきたと自負しているのだけれど、当時のワタシは相当”いかれた人”であったと思う。

長年にわたる恨みにもにた感情が引き起こした精神のやまいは一朝一夕に治るものではない。
一生薬は手放せないし、一生この病気と付き合っていくしかない。と言われた、あの日の絶望的な思いは他の誰にもわからない。同じような病気を抱えたものにしか理解できないと思う。

同じように、被爆者や戦争体験者たちがその体験をいくら、こうだったのです。ああだったのです。と言葉を使って説明したところで、ワタクシ達の理解は一体どれほどのものなのだろうか。>>>
 昭和二十年 
四月・・・広島高等師範学校 文科入学
八月・・・広島駅頭にて被爆。(17歳)
この物語は、恩師が被爆後、友人たちが担ぐ戸板の上に乗せられて”ふるさと”
に帰る場面から始まります。
「 お国いり」
http://blog.goo.ne.jp/planet403/m/200608
「 黒の水引とんぼ 」
http://blog.goo.ne.jp/planet403/d/20070806
なぜか、序。目次。そして「 丹波霧 」
http://blog.goo.ne.jp/planet403/d/20080806

今年は「 お百度詣り 」 を八月中 できるところまで、UPさせていただきます。
本来でしたら、広島、原爆記念の日( 八月六日 )にUPしたいところではありますが、今年は、出雲にでかけることになりました。
ですので、早ければ、長崎、原爆記念の日にお会いすることとなるでしょう。

本日もみなさま、アクセスありがとう!皆様の幸せを心よりお祈りいたします。
>写真は、昨年度、神迎えの儀式の写真。( 地元新聞のもの、喫茶店「 木馬 」のそのさんが、くださった新聞の写真を写しました。 )











ある被爆者の記憶  『  忘れ水物語  』 序

2008-08-06 08:16:16 | ある被爆者の 記憶
+++ 追い書きより抜粋 +++
いざ出版するとなると、この作品の性根のようなものからいって、そうすることが適当であるのかどうか迷ってしまう。
 深くて長い、それでいて、明暗の分かたれぬ以前の薄明と沈闇の、未発の状態でいることが、いまだに正しいように思えてしまう。
 原爆のことを書こうと思ったのは、その傷跡がまだ傷跡とも固まらぬ頃であった。正しくは、書こうなどという意志からよりも、興奮のうわごとを書きつけていたというべきであった。
 そして、その頃、二つの作品を見て、以後、私は筆を折った。
 映画 ”原爆の子”と、丸木夫妻の ”原爆の図 ”であった。
 世評はいずれも大反響があったが、私は、映画では身震いするほどの嫌悪感を抱き、絵画の前には不思議に素直になれた。人間が破壊されているのに、破壊されない人間が、破壊された扮装をすることに憤りさえ思ったのを忘れない。これ以上の陵辱があるだろうかと思い、人間の愚かしさをつくづく思った。それに較べて、丸木氏が木炭画を採択し、しかも赤ん坊だけは、無傷の儘に画かれたことに思わず息をのんだ。書かねばならぬこと、後世に伝えねばならぬことは、事実よりも、その事実に遭遇した人々の想念なのだ、と自覚させられた。


 忘れ水  物語

2008-08-06 08:14:03 | ある被爆者の 記憶

                           

 

            恩師  上原 輝男 先生の   ご著書
                             先生の還暦祝いに  弟子達が作ったもの
                        その後 主婦の友社から出版されたと聞いたが
                               絶版になっていると思う。


 忘れ水 物語   目次

2008-08-06 08:12:44 | ある被爆者の 記憶
 雪が燃え  
       修羅の刃を  
               くぐりけり     ― 夕雨 ―

+++ 目次 +++

お国入り         1    ( 2006, 8 , 6 )
黒の水引とんぼ   17    ( 2007, 8 , 6 )
丹波霧         59    ( 2008, 8 , 6 )
お百度詣り      81
蛇の目傘      101
市松人形      123
かぼちゃの少女  141     ( 2005, 8 , 6 )
金気の水      183
名残り        205

追い書き

>>>>>  読みすすむ  順序  >>>>>

カテゴリーからのアクセスではなく、ご面倒様ながら、
2006年 8月 6日
2007年 8月 6日 と お読みいただきまして、今年の八月は「丹波霧」を八月中に少しづ転載させていただく予定ですのでどうぞお読みください。

「 丹波霧 」 終了後には、記事を入れ替え、上から下へ読みすすむことができるようにします。

丹波霧     ( その1 )

2008-08-06 08:11:53 | ある被爆者の 記憶
明治初年の鉄道敷設の際に、この城下町を煤煙で汚すからという理由で、列車の姿すら町なかのどこからも視界に入らないように、鉄道は隣村を連ねさせたという。
 おかげで、交通は、最寄り駅まで出るのに、一里以上の道を鉄道馬車に頼らなければならず、やがてこの鉄道馬車は、一輌か二輌かの客車を牽いた軽便鉄道となって、マッチ箱のような汽車が町なかを走る結果となっていた。
 篠山軽便鉄道はお城の北堀端の土手の上を、堀に沿って走った。御大礼記念に植樹されたという堀端の桜が満開の頃ともなると、櫓も白壁一つない石垣だけのお城であっても、花雲の上に浮かぶ古城を仰ぎ見るために、篠山の人々はこの堀端に足を運んだ。
 街の目抜に、厳めしい大名屋敷の御門と見紛うような裁判所があるのも篠山らしかったが、その前の狭い辻を入ると、すぐにも北新町といって、もと、侍たちの住んだ、お城をとり巻く一角となる。この道の突き当たりに、遮断機の下りる軽便鉄道の踏切りがあった。軽便鉄道の踏切りは他にもあったが、遮断機のあるのは、全線ここだけではなかったろうか。たとえば、この北堀は、大手で西堀と距てられているから、軽便鉄道は北堀端沿いに走って、大手の道を横断するのに、その踏み切りは無人であることはもとより警報機もなかった。なぜ、北堀のそこだけが踏切り番小屋付きの遮断機が上げ下ろしされるのか、私はいつも気になっていた。
 城下町の道らしく、そこが見通しを防ぐために、わざと筋違いにした地点だとは、そこが毎日の通学路であったのに、遮断機の有無ばかりに気をとられて、道のせいだとは考えられなかった。

丹波霧     ( その2 )

2008-08-06 08:10:28 | ある被爆者の 記憶
おまけに、この踏切りのところまで出てくると、急に視界が広がり、満々と湛えた堀を距てて城廓が見渡せる。桜が咲き乱れる頃には、この堀にはボートが浮かべられ、踏切りのすぐ向うにはボート乗り場が仮設されて、踏切り番の家族が切符を売り、時間がくると、大声で、そのボートの番号を何度もゝ呼んで知らせていた。おそらく、そんな気持ちの華やぎが、この踏切りでは先に立って、地理的条件を忘れさせたのにちがいない。
 遮断機といっても、物干し竿の太くて長いのを、根元に重石をつけて上げ下げするだけで、野なかの撥ね釣瓶と大差なかった。踏切り番は中年の夫婦であったが、男の方はよく憶えていないのに、女房の方の印象はいまだに忘れていない。顔は黒いというより、鉄色をしており、線路際の屋根瓦が鉄錆で赤くなるのと同じように思われた。曲毛の髪に、いつも横櫛を挿しているのが、強(したた)かさを示すように、遮断機の傍に近づく子どもを声高に制した。
 歩行を中断された子どもたちの目の前を、列車が通過する。軽便とはいえ、蒸気機関車にちがいないのだから、その威容に打たれても誰もが目迎目送したし、その怖い踏切り番の指示に素直に従うのも、一時の軽便の勇姿が後立てしているように思われるからであった。
 「 なんで、あそこの踏切りだけが、遮断機があるのんや。」
 「 そない言われるとそうやな。けったいなこと気がつく子やな。・・・そや、あそこはお城の鬼門や、そやさかいかもしれんで。」
 母の言うことの方が、よっぽどけったいだと私は思った。でも、鬼門と言われて、踏切り番の横櫛の女は、さては鬼婆であったかと思ったりした。
 

丹波霧     ( その3 )

2008-08-06 08:09:21 | ある被爆者の 記憶
山国生まれの子どもたちが、列車に寄せる心は、いつも明るい希望に満たされているとはかぎらない。
 軽便鉄道の福知山線接続駅で、初めて本ものの列車を見て、溜息をつくのである。つまり、本ものの列車は他国のもので、自分たちには紛いものしか当てがわれないような、卑屈と羨望を思い知らされることになる。
 物心ついたときには、子どもたちの誰もが、”けいべん”と呼び慣わして、愛着もあったが、それ以上に、どうしても蔑称としか子どもたちの耳には響かなくなっていた。
 ”軽便 " の文字がその意味だと知ったときは、私だけでなく、それまでの連想の、余りにかけ離れた卑俗な思い込みに、篠山の子どもたちは、ことさらに嘲笑し、なおのこと自虐的となった。
 小学生も、三、四年生ぐらいの時であっただろうか。先生が教室で次のように指示した。
 「 明日は検便するから、マッチの小箱に入れて持ってくるように。」
 「 先生、そりゃ、いくらなんでもひどい。けいべんはマッチ箱より大きいよ。」
 たしか、そんな意味のことを真顔で言った子どもがいた。
 軽便は遠慮のない幇間的存在であった。篠山の子どもは、いわゆる少年時代の夢を、どこかいびつに、そのくせ大まじめに抱かせられたのは、この軽便鉄道のせいかもしれない。
 ”けいべん ”を軽便と知らず、これと楽しんでいる間は、これほど遠慮のない高価な遊び相手はなかった。
 「 けいべんは何と言って走るか、知ってるか。」
 「 シャッキン、シャッキン、カエセヌ、カエセヌ。」
 こんなことを言って笑い合った。
軽蔑されながら珍重される。それが軽便の意味であったかもしれぬ。軽便鉄道は、人間の送迎だけでなく、貨物の集散運送も、もとより扱った。起点の篠山町駅は、その構内の広さなど、却って、本線とよばれる田舎の駅駅より大きく立派だった。
 
 

丹波霧     ( その4 )

2008-08-06 08:08:17 | ある被爆者の 記憶
軽便とはいえ、機関庫も幾つもあり、引き込み線も輻輳して、荷物倉庫が建ち並び、その間を、貨車が何台も、仲仕の肩に押されながら、編成のためや、編成から離脱するために往ったり来たりしていた。
 子どもたちは、幾条にも走る線路を挟んで、向こうの倉庫と、こちらの倉庫とに分かれて、対峙して戦争ごっこも出来た。
 倉庫の中にこぼれた石灰は煙幕に、豆粕は爆弾代わりに使うことが出来た。野戦になっては、積み上げられた原木の陰に身をひそめたり、荷積み前の土管の中にもぐり込んでは、急場のトーチカ代わりにすることも出来た。
 そんな子どもの戦争ごっこの合い間を縫うように、軽便の機関車は、それでも、青、赤、白の手旗の振られるのを合図に、機関車と駅舎の間を往来した。
 時には、子どもたちが、線路に降り立って、白兵戦の真只中に、機関車が割って入ることもあった。
 「 こらあっ。」
 機関士が、怒鳴ったり、突如、警笛が鳴ったりすると、子どもたちは、ますゝ喜んで、
 「 退却 !」
と言っては、それぞれの倉庫の陣地にもぐり込んで息を殺した。
 上海事変は、もうその頃始まっていたであろうか。とにかく、『 少年倶楽部 』の口絵や、新聞紙上に見た陸線隊なる勇士たちの、市街戦もどきのイメージが、子どもたちにあった。

 古さと新しさが行きつ戻りつしていた時代であった。それは、私にとっても、また篠山にとっても、やがて決断されなければならぬ宿命を孕んでいたのかもしれない。

丹波霧     ( その5 )

2008-08-06 08:07:35 | ある被爆者の 記憶
夏休みなどになると、歩いて行ける距離でもあるのに、私は、枕と寝巻を風呂敷包みにして、母の実家へ泊りに行くのに、わざゝこの軽便に乗り、一駅区間を楽しんだ。
 ある時、乗り合わせた客の中に、山伏の一行がいた。山伏を見たのはそれが初めてではない。しかし、軽便の小さな車輌の中で、鼻つき合わすようにして、この異人種と時を過ごすことなど、夢にも思わぬ出来事であった。駅長にしろ駅員にしろ、機関手も車掌も、みんな知っている顔ばかりの軽便が、いつの間にか異人種に占領されて、私は、その捕虜( とりこ )になってしまった気がした。その中の白い髯を生やした老山伏が話しかけてきた。
 「 どこへ行くのや、大阪か。」
 意外に優しい声にほっとしたものの、私は首を振るのがやっとだった。
 「 ひとり旅とは偉い。ほんまに偉い。」
 仰山に感心してみせるから、横合いから、幾つもの山伏の顔がこちらを覗き込んだ。私は顔が熱くなるのを感じながら、
 「 ちがう。西町の親戚に行くだけや。」
と、気張って物を言った。
 「 ほほおう―、そうか、そうか。」
 山伏は頷いてみせ、まわりの山伏に同意を求めるように、
 「 折角、よい旅の道づれにと思うたのに、のう。」
と言った。
 山伏たちは、どおっと笑った。その笑いの中で、山伏のひとりが、
 「 お前、どこの子じゃ。」
と尋ねた。何と答えたものかと迷ったのを察したか、自分の質問のわるさに気づいたか、すぐに、
 「 何という家の子じゃ。」
 「 宮川。」
 「 ふうむ、篠山にそんな家、あったかのう。」
と、仲間に尋ねた。
 さっきの山伏が、答えを出した。
 「 聞かん名じゃ、他国者( よそもの )じゃろ。」
 私は、事のなり行きが分かっていた。この土地で宮川の名を言うと、決まって他国者と言う。しかし、山伏は他国者でないのか。口惜しくなると涙がこぼれてくる性質を知っていたから、なるたけ聞かぬふりしていようと、私は思った。