ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

金山 ~小学1年生の遠足~

2012-04-13 10:38:24 | 登山(両毛・常総)

【4月12日(木)】
太田駅→大光院(呑龍様)→呑龍上人廟所→金山城跡→新田神社→八王子山
→受楽寺→太田駅



例年になく苦しめられたしもやけと、例年になく軽い花粉症の季節が終わりに向かい
足取りも軽やかに山へ…、といきたいところなのだが
しもやけ&花粉症で家に籠もり、原稿書きと読書三昧で過ごしていたら
あれよあれよと言う間に体重が2kg増え、気が付いたら坐骨神経痛になっていた
病気博物館に、また展示品が増えたわけだが、この展示品、大変地味で面白くないのだ
良くなるようでいて良くならない、痛まぬようでいて痛まないわけではないような。
なんだかな~
まあ、それでも痺れが取れて、ずいぶん痛みも引いたので、早速ステッパーを購入し
暇を見つけては室内で踏み踏みしていたのだが、さて、いよいよ屋外へ
いきなりそこそこの山に行き、帰って来られなくても困るので
ぴすけが小学1年生の時、遠足で行った群馬県太田市の金山(かなやま)を歩いてみることにした。


最寄り駅に行くと、東武伊勢崎線(最近は、東京スカイツリーラインと言うそうな)は
7時30分頃梅島駅で起きた人身事故のため、上下線とも運行を中止していた。
最寄り駅9時9分発に乗る予定だったが、ダイヤは乱れに乱れ、待つこと約1時間。
やっと動いた下り電車に乗り、館林駅で接続列車に乗り換え、太田駅へと向かった。

11時25分、太田駅北口に出ると、新田義貞・脇屋義助兄弟の銅像がお出迎え。

大通りの制水弁の蓋には、太田を代表する金山と松、大光院と菊が見事にデザインされている。

大通りを八瀬川(やせがわ)まで歩き、右に折れて八瀬川沿いを大光院に向かう。
桜は満開、強風に散った花びらで、川面には花筏が出来ている。

八瀬川沿いの遊歩道の突き当りを右に曲がり、すぐに左に曲がれば、大光院の大手門が見えてくる。
この門は、元和元(1615)年に仮の門として建立され、大坂城落城の日に上棟したことから
「吉祥門」と名付けられたということだ。
屋根瓦には、徳川家の家紋である丸に三つ葉葵が施されている。

本堂前の臥竜の松は、大光院の開山・呑龍(どんりゅう)上人お手植えと伝えられている。

庫裡の裏で咲き誇るのは、見事な大木のモクレン。

ちょうど満開になったばかりだろうか。

こちらは大光院の開山・呑龍上人の自作の像を安置する開山堂。
像の御開帳日は、毎月1日・8日・15日とのこと。

大光院の本堂と開山堂を結ぶ回廊の下をくぐると、呑龍上人の廟所への参道がある。
ここが西山ハイキングコースの登山口になっている。
既に12時を過ぎていたので、呑龍上人の廟所にお参りしてから
廟所のそばのベンチに座り、お昼を食べていると、大変丁重に廟所をお参りしている男性がいた。
親しみと尊敬の念をこめて地元の人々から「子育て呑龍」と呼ばれた上人は
間引きで殺される子供や捨て子を弟子という名目で引き取り、食事を与え、教育を施した。
そんな上人の遺徳を偲び、お参りする人は後を絶たないと見え、墓前にはたくさんの花が供えられていた。
今から思うに、1年生の遠足の地としてここが選ばれたのは
子育て呑龍にあやかり、生徒の健やかな成長を願った先生方の思いからだろう。

廟所を後にして進むと、菜の花畑に桜と松の見事な景観が現れる。

桜と松の混合林を登り、振り返れば、八瀬川沿いの桜並木がまっすぐ伸びているのが見える。
露岩帯を一登りすると尾根上に出て、中世の山城の遺構が散見される。

ここは見付出丸と呼ばれる城の西側を守る最前線である。
下手な手書きと写真で恐縮だが、南土塁と北土塁にはそれぞれ堀が切られており
南土塁には柱の穴が並ぶ柱穴列が発掘され、柵があった可能性も考えられるようだ。
北土塁は雛壇状に石垣が積まれており、敵が攻めにくいよう南土塁と筋違いになるように位置している。
北土塁の写真部分からは、壇が発掘されており、門などの施設があった可能性もあるらしい。

舗装道路と交差する場所に出ると、東屋が建っており、そこからいきなり解説おじさんが登場
驚くぴすけを尻目に、案内板を見ながら金山城見学のための要所要所を解説してくれた。
この先には駐車場があるらしく、途端に観光地化・整備化・高齢化する

凝灰岩の柱状節理によって伏流水が吸い上げられ、山城の上に常時水を確保できるのは
ここ、上野太田の金山城と、お隣、下野佐野の唐沢山城だけらしい(解説おじさん談)。

尾根を意図的に分断し、敵の侵入を防いだ「堀切」。

先ほどの堀切を下りると、山肌に沿って丸太をかけて造られた「桟道(かけはしみち)」が再現されている。
金山城の西を守る西城が敵に攻め落とされた場合、本丸である実城(みじょう)を守るため
この桟道を壊して敵の侵入を防ぐことが出来るよう、簡単に造られていたらしい。

遺構を眺めながら、かつて物見矢倉があった物見台に登ると、すばらしい大展望が開ける。
北を眺めると、冠雪した男体山が、抜群の存在感を誇る。

視線を左手にずらす。
真っ白な白根山に、左端にギザギザの山稜が特徴的な皇海山・袈裟丸山が聳える。

さらに視線を左にずらすと、ちらりと見える白い山が武尊山。
手前には、太田市が芝桜とネモフィラの公園として売り出し中の太田市北部運動公園が見える。

北西の方角に大きく聳えるのが赤城連山で、最高峰の黒檜山にはうっすら雪が見える。

長い長い赤城の裾野の向こうには、子持山と小野子山。
その遥か先の白い峰々は、恐らく、三国峠から連なる上信越国境の山々だろう。

ほぼ西の方角には、榛名連山

榛名連山から視線をさらに左にずらすと、秀麗な浅間山が見える。
この日は朝から風が強かったため、暖かくも(というより暑かった)予想外に視界が利いたようだ。

物見台から馬場曲輪を経て見えてきたのは、月ノ池。
ここか、この先の日ノ池なのか定かではないが、1年生の時の遠足で来た記憶がある。
この時の遠足の記憶は、池の光景が焼きついているのみなので、相当印象深かったと思われる。

大手虎口から城の核心部分へと通じる大手通路は、見通せないように緩やかに曲がっている。

大手通路は低い位置にあり、敵が攻めてきた時には正面の土塁で行く手を塞ぎ
両側の曲輪には本丸を守るための兵の守り場があり、横矢を射る土塁が築かれた。

こちらは日ノ池。
発掘品から儀式の場所であったと推測され、神聖な池だったようだ。
ここまで、呑龍上人の廟所を出てから、寄り道をしながらゆるゆる歩いて1時間25分。
実城と呼ばれる本丸があった新田神社に向かう。
新田神社の祭神は、稲村ガ崎に太刀を投げ入れて潮を引かせたいう逸話で知られ
鎌倉に進軍して幕府追討に功績を認められた、新田義貞である。

新田神社境内の「金山の大ケヤキ」は、推定樹齢800年
昭和初期までケヤキの大木は7本あったといわれているが、現存するのはこの1本のみである。

新田神社の鳥居をくぐり、石段を下りると、南木戸があった石垣が現れる。
金山城は、北は急峻で攻められにくいが、南は緩斜面だったため、何重にも曲輪を築き
敵からの攻撃に備えたようだ。
ここから道が二手に分かれるが、右に進む。
ここから先は、1年生の遠足に、プラスαのおまけだ

新田神社を後にしてからは、人気のない静かな山歩きが楽しめる。
御城橋が出来るまでは、東山ハイキングコースから金山山頂へ行くには難儀だったらしい。
金山の稜線を眺めながら下り、途中で八王子山を経由して親水公園の入口に向かう。

親水公園には寄らずに、下流の端を渡ると、そこにはミズバショウが咲いていた。

西山ハイキングコースでも、品種もさまざまでたくさんのスミレが咲いていたが
東山ハイキングコースもそれに負けずとも劣らずで、しかも小鳥や花が多いのには驚いた。

カエデの新緑が目に優しい。
ここまで松が主な植生だったところに、パッと明るい風景が広がる。

高校の野球部が練習しているのだろうか、金属バットの音や掛け声が響く東山球場の脇を通りる。

道が石畳に変わると、ハイキングコースは終着に近くなる。
この道の両脇に咲く桜は、すでに散り始め、花吹雪が舞っていた

ハイキングの終点、受楽寺は三門の彫刻が見事で、ここに着いたのは15時10分。
途中、道を尋ねつつ太田駅まで歩く
太田駅15時45分発の東武伊勢崎線で帰途に就いた。


坐骨神経痛の具合如何では、行程短縮も考えていたが
何の問題もないどころか、むしろ山を歩いている時の方が調子が良い
小学1年生の遠足は及第したので、次は中学1年生の遠足か



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