ウィトゲンシュタイン的日々

日常生活での出来事、登山・本などについての雑感。

『闘病MEMO』2月13日(土) その2

2010-05-10 23:46:58 | 特発性間質性肺炎
「気胸だ!」
ナースステーションの方からY医師の叫び声が聞こえ、病院中が慌しくなった。
父のベッドを6号室からナースステーションに隣接されているHCUに移動するため
大勢の看護師が右往左往する状態だった。
Y医師は私の元に駆けつけると、「気胸です。御存知ですか?」と言ってX線写真を見せた。
気胸については知ってると伝えると、ならば話は早いという感じでY医師は言った。
「一刻を争います。外科医に連絡を取りますが、私が処置するかもしれません。」
写真を見て、私は暗澹たる気持ちになった。
左肺はぺしゃんこで、心臓も右肺を押す勢いで寄ってしまっていた。
「お任せします。」
そう私が言うと、Y医師は駆け足でHCUに向かっていった。


HCUの入口で、どのくらい待っただろう。
その間、私は今母に知らせるか、実家に帰ってから母に知らせるかで悩んだが
父が処置を受けている間に母に電話をして、そこまでの状況を話した。
万が一、処置の良否によってはすぐに病院に来る事態にならないとも限らないからだ。
母には、気胸のことを「肺に穴が開いた」とのみ伝えて、詳しい説明はしなかったのだが
そのとき、電話の向こうの母が、事の重大さを理解しているように感じなかったことで
むしろ私は妙にホッとし、波立っていた気持ちが落ち着いたことを覚えている。
Y医師がHCUから出てきたとき、まだ血の付いた手袋のままで緊張のためか震えていて
「一刻を争う状況でしたので私がしましたが、気胸の処置は4、5年振りなので、とても怖かったです。
 今、大王(父の呼称)さんは大変状態も良くなりましたので、お話できますよ。
 ただ、治療はここに来て大きく後退したと思ってください。
 胸腔ドレナージを施したことで、外部との接点ができてしまったため
 そこから感染症を引き起こしたり、時間の経過につれて胸水が溜まったりします。
 今がいちばん良い時かもしれません。
 これから状態は緩やかに下り坂です。」
と、声も震えんばかりに言った。
「今がいちばん良い状態」というY医師の言葉が、私の頭の中で何度も繰り返された。
「ただ、大王さんにこのことは伝えていませんので、そのおつもりで。」
Y医師は一礼をしてその場を後にしようとしたが、私は呼び止めて次のように尋ねた。
「先生、X線写真では左肺が潰れていましたが、ということは今機能しているのは右肺だけですか?」
Y医師はそれはそれは悲しそうな顔をしてこう言った。
「大王さんの場合、右肺もほとんど機能していないんです。」


HCUから「ぴすけさ~ん、どうぞ~。」と声がかかり、父のベッドに行くと
父はベッドを起こして座っていて、顔色も平常に戻って上機嫌だった。
「すんごい楽だぞ!あ~、ホッとした~。でも、本当にいろんなことがあるな~!」
そう言って豪快に笑った。
一般病室からHCUに戻ってしまったことで、荷物を持ち帰る必要も出てきた。
「業務縮小だな。ぴすけ、悪いが食べ物は持って帰ってくれるか?」
父がそう言ったのと、酸素吸入がカニューラからマスクになってしまったこともあり
これでは好きなときに好きなように食べるわけにはいかなくなるだろうからと
ビーフジャーキーとチュッパチャプスを持ってきたことは黙っていた。
気胸の苦しみの間、父は大変汗をかいていたので、水を買ってきて差し出すと
「うまいな~、水は!最近コーヒーや紅茶が飲みたくなって飲んだけれど、やっぱり水がいちばんだな!」
そう言って本当においしそうに飲んだ。
父が枕カバーの代わりにしている手拭いを取替え、父の額の汗を拭き
「お父さん、少し休んだら。私は業務縮小したら大ママの所に行くよ。明日また来るからね。」
というと、父は安心したように目を閉じ、先ほどの息遣いとは打って変わって
すやすやと静かな寝息を立てながら眠った。


父がMRIの帰りに売店まで遠征して買ってきた佃煮や、おやつの煎餅などを
袋に詰めて持ち帰る「業務縮小」は、大変つらい作業だった。
父が寝ていたから良かったが、私は泣きながら荷物を詰め、気持ちも重く実家に帰った。


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