ちょっとピンぼけ/倉敷界隈

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今日の見もの(おおかみこどもの雨と雪)

2013年07月07日 15時59分11秒 | 見もの

おおかみこどもの雨と雪
細田守監督 2012年 118分 日本

映画や本、音楽を手にしてはいるのだが、いかんせんあまりにも忙しくてまともに寝ることも出来ず、一番当たり障りのないブログにしわ寄せが行く結果になっている。これもしばらく前に見た映画なのだが、今書いてみようと思う。

この映画に関しては家族からいくらか聞いていた。曰く、娘の友人が見たのだがピンとこなかったとか、子どもを育てた経験のない人にはわからないだろうとか・・。それは何とも言えないが、タイトルや絵からしていいものに違いないと確信はしていた。たまたま80円セールでブルーレイ版があったので借りて見てみた。

東京のはずれにある国立大学に通う、女子大生の花は、大学の教室でとある男と出会い、恋に落ちる。その男は自分がニホンオオカミの末裔、「おおかみおとこ」であることを告白するが、花はそれを受け入れ2人の子供を産む。

産まれた姉「雪」と弟「雨」は狼に変身できる「おおかみこども」であった。しかし雨の出産直後、男は亡くなってしまう。取り残された花は、打ちひしがれながらも「2人をちゃんと育てる」と心に誓う。

花は2人の「おおかみこども」の育児に追われるが、都会ではたびたび狼に変身してしまう雪と雨を育てるのは難しく、子供たちが将来「人間か、おおかみか」どちらでも選べるように、都会の人の目を離れて、厳しくも豊かな自然に囲まれた田舎町に移り住むことを決意した。そこで花が選んだのは、山奥にある築100年のおんぼろ古民家だった。

人の目を気にすることなく山奥で姉弟は育っていく。蛇や猪をも恐れない活発で狼になるのが好きな雪に対し、弟の雨は内向的であった。やがて雪は小学校に通うようになり、狼にならないように気をつけ、人間として生きていく。一方で雨は小学校に馴染めず、山に入っては狼となって、一匹の狐を「先生」と呼び彼から山で生きる術を学んでいく。

雪の通う小学校に草平という転校生がやってくるが、雪は「獣臭い」と言われてしまい、彼を避けるようになる。草平は雪になぜ自分を避けるのか問い、逃げる雪を追いかける。追い詰められた雪は思わず狼の腕で草平に怪我をさせてしまう。草平は雪の狼の姿を知りつつもそれを言うことはなく、自分に怪我を負わせたのは狼だと言って雪を庇う。

ある大雨の日、親が迎えに来なかった雪と草平は学校に残され、雪は草平に自分が「おおかみこども」であることを告白する。一方で雨は、怪我をして先が長くない「先生」の代わりに山で生きていくことを決意し、山に入る。雨を追って花は豪雨の山に入り、雨を探し続けるが、足を滑らせ谷に落ちて雨に助けられる。意識が戻った花は、山へ戻ろうとする狼の姿の雨を呼び止めるが、雨は走って崖を登っていき、頂で大きく吠えて消えていった。

雨が家を出ていき、そして雪も、中学校からは花の勧めで寮に入ることになった。花はひとり山奥の家で生活を続けている・・。(ウィキより、一部改)

この映画を見てしばらく無口になっていた。自分には悲しいと言うかつらいというか、、、身につまされる映画だった。

この映画の展開についてとやかく言う人もいるようだ。お金もないのに田舎で貯金だけで食べていけるわけがないとか、自宅で子ども二人を産むところとか、築百年の廃屋を女一人の力で住めるようにしていくなど、あまりに展開が急で、「あり得ない」ことばかりだという。それを言えば映画は全て「あり得ない」し、ニホンオオカミが人間の姿になったり、混血でおおかみこどもが出来る設定も全て否定しなければならない。それでは映画でなくなってしまう。その辺は私にはつついてくる人の意図がわからない。

私が無口になったのは別の理由だ。

この映画には子どもに対する親の愛情があふれんばかりに描かれている。いくら「私が二人をちゃんと育てる」と決意したからといえ、大学在学中の女の子が一人で子どもを育てること自体が無理。医者にもかかれず、全てを隠しながら生活することなんて不可能。それを可能と思わせるぐらいの深い愛情が描かれ、この絵のように子どもたちは常に笑い、母親の側で幸せそうに見える。まずそれが嬉しい。涙が出るぐらい美しい。

これは親であるが故に出来ることだし、親にしか出来ないとことでもある。私から見て、この二人が自分の子どもではないとはいえ、二人の不幸な(!)子どもたちが、経済的には苦しくてもお母さんの元で実に幸せな光景が見られたことが素晴らしい。たとえ作り物の映画の中のことであっても、私には嬉しいと感じられた。こんな映画を作ってくれて感謝したい気分だ。

だけどもう一つの真実がある。

どんなに愛情をかけても、その愛とは別に、子どもたちは親を離れて巣立っていくという避けられない定めがあると言うことだ。それは母親にも、死んだ父親にもわかっていたことだろう。それがわかっていながら無償の愛をかけ続け、その巣立ちを悲しくも祝福しなければならない親に、私は悲しさと寂しさを禁じ得ない。

映画では弟はオオカミを選び、姉は人間を選んだ。そして二人とも母の元を離れていった。母の愛情は変わらないだろうが、たぶん今はホッとして、二人がいない悲しみを「これで良いのだと」心に言い聞かせているに違いない。死んだ父親に、二人はちゃんと育ちましたよと報告しながら、それでもいなくなった喪失感を、これで良いのだと埋め合わせようとしているに違いない。それは近い将来の自分の姿でもある。

今傍らにいる子どもは、必ず近い将来いなくなる。あるいは自分がいなくなる。どんなに立派になった子どもがいても、それに会えないのは限りなく悲しい。愛情があればあるほど会いたい気持ちを押さえられないだろう。だけどそれは無理なのだ。子どもは親の元を離れて自分の道(人生)を選ぶものなのだ。わかってはいる。だけどそれはとてもつらい別れだ。それを眼前にして、私は無口にならずにはいられなかった。今私の横で寝ているチビにも、ごく近い将来そんな日がやってくる。それは必ず受け入れなくてはいけないことなのだ・・。

色々言う人はいるだろうが、この映画は素晴らしい映画と思う。私は一生忘れないだろう。

ランク:名作。見る年代によって感じ方の異なる映画。