half moon bay

酒と釣りの友 天国の mさんヘ

ちょっと遠出をしました。

2021-06-03 17:07:43 | 
近くを散歩すると大体同じコースになって単調になるので少し遠くまで車で行って

目的地の周辺を歩いてみることにした。

お袋と何度か行ったことのある源平の古戦場「柳井市の池ノ浦」だ。



ごらんのように景色の良いところだ。



説明版に書かれているようにここは源平の古戦場跡だ。下記★印に書き起こし。



この山を平家軍は源氏軍から逃れるため船を担いで山越えしたとのこと。



すぐ近くにある平家神社にも行ってみた。



この急な階段をお袋は90歳頃登ったが金毘羅さんの奥社まで登ったことを考えると

” a piece of cake " だ。アメリカ人がよく使うフレーズ。朝飯前って云う意味。





目の前の島を船が行く。 ビデオの長さ 1分






【ウオーキング記録】 6,000歩以下は省略

日にち 歩数 距離キロ
6/02  7339  5.4
5/31  7375  5.4
5/30   9599     7.0
5/28   8192     6.0
5/27   8895     6.5
5/26   11200     8.2
5/25   7969     5.8
5/18    8356    6.1


★ 池の浦には、屋島(やしま)の合戦(1185年3月22日)に敗れた平家の軍勢の一部が室津半島に立てこもり、激しく戦ったという古戦場がある。池の浦の合戦は説明板(上の写真)
をそのまま引用して紹介しておくので興味のある方はお読みください。

合戦の模様は「風土注進案」によると、平家の軍船が大島あたりから池の浦の松原を見て漕ぎ寄せてみると、そこに大きな潟があった。これは願ってもない隠れ場所である。
ありがたや天の助けとばかり、さっそく軍船を潟の中へ漕ぎ入れた。源氏の方から見ていると、遠く雲間にただよっていた平家の白旗がかき消すように消えてしまった。不思議に思って船を進めていると、群れ集まったかもめが帆柱の上を「こよ・こよ」と鳴いて西へ渡る。その群れについて行くとそこが池の浦で、大池に平家の軍船がひそんでいた
かもめの暗示によって平家の軍船はたちまち見つかり、池の浦の江の口で激しい合戦が始まった。平家方は破れその一部は相の浦へ、一部は皇座山を越えて赤間関へ落ちのびた。そのとき主君を奉じて越えた山が皇座山と呼ばれるようになり、平家の軍船が通った坂が平家坂、また舟を引き上げ、かついで山を越えたので船越の地名が残されたという。

なお、宇積の妻崎から200m奥に勝負が迫という古戦場がある。ここは落ちのびた平家が源氏の追手と激戦して、一人残らず討死したところでこの名がある。
その後、池も埋まり荒れた地のままになっていたので、領主・浦元敏が領民に耕作させたけれども五穀が実らずしかも種々の怪異が起こったので、怨霊のしわざだと考え、地中に埋もれていた刀剣・矢じりなどを掘り出しそれをご神体として祭り、平家大明神と称した。これは享保11年(1726))のことである。

その後は怪異も止み、五穀は実るようになった。平家大明神は明治4年(1871)に祭神を安徳天皇とし、社名を池浦神社と改めた。
池の浦の合戦以来、このとき鳴いた鳥を「平家だおし」と呼び、平家滅亡の命日が来ると、平家の恨みをこめて、「こーい、こーい」と悲しく鳴いて空を渡るという。今でも夜になると、その鳴き声を聞くことがあるという。最後に、皇座山を越えて赤間関(壇ノ浦)へ落ちのびた一部の平家軍はどうなったのか?
この池の浦からさらに西へ追われること、1185年3月24日。下関市の壇ノ浦にて大将・平知盛は挽回を狙った戦いを繰り広げる。最終合戦となった壇ノ浦の戦いである。
平家軍は奮戦するも、敗北を悟った平家一門は入水し、6年にもわたる長き内乱に幕を閉じた以後、平家一族は歴史の表舞台に再び現れることはなかった。

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