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お父さんと北海道、想いだすままに

2009-07-28 13:26:42 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
石田のお父さんを偲ぶ


お父さんと北海道、想いだすままに


 『おい、シミちゃん 元気か』、 石田のお父さんの声だと直ぐ分かる。 
親しい人が私・志村を呼ぶ時にシムちゃんと呼び掛けてくれる。でもお父さんの
時はそれが訛ったのかいつもシミちゃんと聞こえた。 本当に懐かしい
その石田のお父さんの命日が7月19日、十九回忌になると言う。

 私がニッポン放送に関わりを持ったのは昭和29年の開局直後、直ぐに芸能部の
公開番組班にまわされてアルバイト、開局当時なので色々のところから色々の
人が集められていた頃のことだ。おまけに放送でも録音テープはまだ珍しい
時代で、テープの音楽が終わりの方から逆さまに流されたり、連続放送劇でも
誤って同じ場面が2度放送されたりしていた今では信じ難い話が沢山あった頃、
その頃石田さんは放送直前に放送用録音テープの整理に追い回されていたと言う。

 それから何年か後,私は大阪と東京交互で制作する歌謡バラエティ公開番組の
担当として関西に出張することが多くなり、その度に当時関西総局編成課長の
石田さんのお世話になり、営業挨拶,打合せ、制作立ち会いなど仕事のことは
勿論、常宿の小松家や、関西グルメなどのお供をすることになった。これが
そもそものお世話のなり初めで、その後石田さんは東京本社の芸能部改名後の
文芸部に戻られ、一時同じ部で上司としてご一緒する機会もあった。 
当時の文芸部在籍者を基に春日会なる交友会が今でも続いているが,生前
お元気な頃は時間の許す限り出席されて賑やかな声を聞かせてくれていたもので
ある。この写真は亡くなられる1,2年前、第4回春日会の時のものである。




ところで、急に石田さんの思い出を綴ってくれと依頼されたが、私の頭は
今文章を書くという環境に馴染んでないので困った。そこで、順序も考えず
古い写真帳をくってみた。 と一番先に目に入って来たのが次の1枚。
お父さんはハンチング帽を被り(この帽子は海外での写真にも登場しているので
お気に入りだったかも)、満足げにやや笑みを浮かべ姿勢良く、行き先確かげに
歩みを進める。堂々たる容姿はそれもそのはず、此処の土地のことなら俺に
任せておけ、の北海道は函館、朝市場での自信に溢れたお姿である。




 写真撮影の日付はと見ると昭和61年( 1986年)7月3日。
亡くなる4、5年前のものだ。
 
お父さんは人も知る北海道の産、死ぬまで北海道を愛した人である。 
小さい頃バケツ一杯にシャコを茹でて、側を鋏で切り落としていつもおやつ
代わりにしていたと話していたことがある。
北海道のシャコは大きいのだそうだ。

 後年東京国際映画祭を立ち上げた後も、将来北海道に映画学校を創りたい
と語っていたのは有名な話だ。
 また北海道に関しては 北海道文化放送の役員を兼ねておられたので
役員会の折に局の幹部の方や記者の方々から身近かな地元密着の情報を
意図的に集めておられた。このことは誰にも言わない。これがお父さんの
真骨頂なのだ。
こんな風だから北海道にはこれ迄無慮数十回,大げさに言えばあるいは
数百回も足を運んでいたかもしれない。
 だからお父さんと一緒に北海道に行かれたニッポン放送関係者の数も
極めて多い筈で、この話で昔日を懐かしく思い出して頂けるかもしれない。
その親しみやすい明るい声に魅了され、その天性ともいわれる人を呼び込む
豪放な性格と人の心をそっと包み込む優しい心遣いに誰でもこの大先輩を,
自分の一番親しい友達のような気になってしまうようだ。
本人は先輩後輩など気にも止めず北海道観光ガイドよろしく あちらこちら
説明入り、勿論グルメも朝のスルメ丼からウニと海藻のスープはどこどこが
良いとか,宴会の予約や注文などにもおさおさ怠りがない。
実に楽しそうなのだ。

 お父さんは早いうちから仕事での地方出張が多く、ご苦労が多かったと
聞いている。北海道に限らず土地の事情に早く深く通ずることは商売に
大変重要なことだ。だから情報の収集には気を使うし、何時しかこの
テクニックは身に付いた武器になっていた。しかしこれは後年面白おかしく
語られているがなかなか難しいことだ。 私も石田さんの旅のお供を数多く
したことがあるが、私がするべきことを逆にやって頂いて恐縮するばかりだった。
いま白状するが私にとっては石田さんとの旅行は内心緊張のしっ放しであった。

その上更に付け加えたいのは,だからお父さんの周りには有名無名を問わず
絶えず人が群がる。それが海外に行ってもそうであったと聞いている。勿論日本に於いておや。
 特にお父さんと北海道を結びつけると話は途切れることは無い。北海道に
付いてもお父さんの周りにはチャンちゃん会、アバウト会,留萌の会、
北海道の会を始め色々な会があり、東京や北海道で屢々会合が開かれた。
スポーツマン、音楽家、映画人、漫画家、詩人、タレント、文化人、経済人,
放送人、etcとその交友範囲はきわめて広い。因に先の写真の1986年7月3日
を手帳から調べてみると、間違いがなければアバウト会で、その時の写真が
もう1枚ある、そこには故人になられた阿久悠さん、石森章太郎さんをはじめ
堀威夫さん、原正人さん、黒井和男さんなどのお顔が見える。
この写真には入っていないが、羽佐間さんやまだまだ遅れてこられた方も
おられて人数はもっと多かったように思う。




 最近やや年寄りの部類に入って来た私は、自分の人生の中で出会った
かけがえのない大きな人物のお1人は、石田のお父さんであると思っている。

石田さんについて人夫々いろんな見方があっていい。

 石田さんを少しでも知る方々は、その人脈の広さ、実行力やポイントの
掴み方の早さ、先見性、包容力、優しさ、心配り、屈託のない明るさ、
何をとってもプラス方向に思い出してくれる。青春の人石田さんは私に
とって非常に大きな存在であったし、人生について沢山の示唆を頂いた。

 しかし私は、ある時たまたま、石田さんがただお1人で、部屋に籠って
考え事をしている時、一瞬でしたが本当にお顔を見て驚きました。
それは石田さんが、今まで人前で見せたことのない、見たことのない、
怒りや苦悩を押し殺す激しい表情でした。ほんの一瞬でした。
 今、 これも石田さんの紛れもない人間としての一面であったと
思っています。  
石田さんご自身はご自身の人生について果たしてどのように思って
おられたのでしょうか。
 またお父さんの声だ。 『シミちゃん、元気で。じゃまたな。』
 そういっているように思えてならない。 
                               合 掌
   
  ( 2009. 7. 16.   志村 武男 )

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