石田のお父さんが教えてくれた。
私がニッポン放送に入社した年、石田さんは相談役になられた。すでに雲の上の偉い人。だからニッポン放送の現場での石田さんの事は知らない世代。
たくさんの会社の役員で、業界のドンで、伝説の語録が一杯ある人。・・・と教えられた。
しかし、たまたま秘書室勤務を経験し、私が帰国子女だった事もあり、石田さんの海外のお仕事をお手伝いする機会に数年間恵まれたことは、自分にとって宝ものだ。
ラジオ経営の現場から少し離れ、石田相談役時代に東京国際映画祭のゼネラル・プロデューサーを務められていた。その時、私はGP付きアシスタントとして海外の映画業界の方々と接し、色々な経験をさせて頂いた。
国際映画祭で東京に来た、たくさんの海外の若手映画監督を彫刻の森美術館にバス2台で連れて行き、美術館の見学と「黒澤明監督と語る会」が企画された。
黒澤明という巨匠と対面している外国の映画作家達はみんな目が輝いていた事を今でも想い出す。石田のお父さんは、若い才能にいつも優しかった。
カンヌ映画祭にご一緒した。
朝・昼・晩とミーティング会合の嵐。特に夜は大事な客人との会食も多く、胃も頭も疲れているはずなのに、朝はスタッフ全員で豪華なテラスの朝食!
コート・ダジュールの陽を燦燦と浴びながらたっぷりのカフェとパンをとるのが1日の始まり。
石田のお父さんは皆がたくさん食べていると嬉しそうにしていた。
カンヌの街で、映画祭に集まっているお父さんにまつわる人々が全員集う会食が開催された。CX、ポニーキャニオン、映画祭事務局スタッフ、映画会社・・・・などなど30名程
居たかもしれない。海岸に近い庶民的なカフェでスープ・ド・ポワソンを食し、夢を語り、その後、旧市街の丘に登り記念集合写真を撮った。石田さんは皆が笑顔なのが嬉しそうにしていたが、逆に我々は、石田さんの笑顔を何よりも大切に思った。
東京国際映画祭でイヴ・モンタンを審査員長に迎えるため、南仏の小さな村で休暇中のモンタン氏に「ビデオインタビューを撮って来い」と途中で私と数人は解き放たれた。
今考えると、当時我々は“ひよっこ”だったが、海外でそんな仕事を任せてくれる石田さんは偉大だ。
石田さんは自分の故郷の北海道に映画学校と料理学校を創る夢があった。
フランスの偉大な監督ルネ・クレマンにその学校の予定地を見せる旅にお供した。
北海道の風土は欧米に近く、いつか札幌空港が世界の玄関になると言っていた。
ルネ・クレマン氏と石田さんが映画について話し出すと、二人とも少年の様に熱かった。
いつも「夢」があった石田さんは、晩年も、ハイビジョン放送が放送の主流になる日が必ず来る事、中国が世界を席巻する事、など当時から予想して動いていた。
世代は離れていても、お父さんの話を聴くと「夢」を共有させてもらえた。
石田さんが亡くなられる年に、私はフランスへ一人出張を命ぜられた。ミッションはフランスの製品を日本に紹介するビデオ制作。帰国すると、石田さんは体調をくずされているという事でお会いすることが出来なかった。私も現場の仕事が忙しく、暫く忘れていた頃、訃報を聞いた。
7月の暑い日に斎場で、立場もわきまえず号泣し、お骨を拾わせて頂いた。
あれから19年。
今は、時代や世界が複雑になり、放送局も楽な事はひとつもない。
ニッポン放送も色んな事が変わった。
それでも7月になると想い出す。
国立のお墓にお参りし、集まって食事をする仲間もいる。
ルネ・クレマン氏も亡くなられたが、夫人とは今も交流がある。
ここに書きつくせない程、思い出はたくさん・・・・・。
私も後輩と「夢」を語れるオトナになりたい。
石田のお父さんが教えてくれた。
ニッポン放送 檜原 麻希
ーーー写真 提供は 渡辺 省吾さん --
私がニッポン放送に入社した年、石田さんは相談役になられた。すでに雲の上の偉い人。だからニッポン放送の現場での石田さんの事は知らない世代。
たくさんの会社の役員で、業界のドンで、伝説の語録が一杯ある人。・・・と教えられた。
しかし、たまたま秘書室勤務を経験し、私が帰国子女だった事もあり、石田さんの海外のお仕事をお手伝いする機会に数年間恵まれたことは、自分にとって宝ものだ。
ラジオ経営の現場から少し離れ、石田相談役時代に東京国際映画祭のゼネラル・プロデューサーを務められていた。その時、私はGP付きアシスタントとして海外の映画業界の方々と接し、色々な経験をさせて頂いた。
国際映画祭で東京に来た、たくさんの海外の若手映画監督を彫刻の森美術館にバス2台で連れて行き、美術館の見学と「黒澤明監督と語る会」が企画された。
黒澤明という巨匠と対面している外国の映画作家達はみんな目が輝いていた事を今でも想い出す。石田のお父さんは、若い才能にいつも優しかった。
カンヌ映画祭にご一緒した。
朝・昼・晩とミーティング会合の嵐。特に夜は大事な客人との会食も多く、胃も頭も疲れているはずなのに、朝はスタッフ全員で豪華なテラスの朝食!
コート・ダジュールの陽を燦燦と浴びながらたっぷりのカフェとパンをとるのが1日の始まり。
石田のお父さんは皆がたくさん食べていると嬉しそうにしていた。
カンヌの街で、映画祭に集まっているお父さんにまつわる人々が全員集う会食が開催された。CX、ポニーキャニオン、映画祭事務局スタッフ、映画会社・・・・などなど30名程
居たかもしれない。海岸に近い庶民的なカフェでスープ・ド・ポワソンを食し、夢を語り、その後、旧市街の丘に登り記念集合写真を撮った。石田さんは皆が笑顔なのが嬉しそうにしていたが、逆に我々は、石田さんの笑顔を何よりも大切に思った。
東京国際映画祭でイヴ・モンタンを審査員長に迎えるため、南仏の小さな村で休暇中のモンタン氏に「ビデオインタビューを撮って来い」と途中で私と数人は解き放たれた。
今考えると、当時我々は“ひよっこ”だったが、海外でそんな仕事を任せてくれる石田さんは偉大だ。
石田さんは自分の故郷の北海道に映画学校と料理学校を創る夢があった。
フランスの偉大な監督ルネ・クレマンにその学校の予定地を見せる旅にお供した。
北海道の風土は欧米に近く、いつか札幌空港が世界の玄関になると言っていた。
ルネ・クレマン氏と石田さんが映画について話し出すと、二人とも少年の様に熱かった。
いつも「夢」があった石田さんは、晩年も、ハイビジョン放送が放送の主流になる日が必ず来る事、中国が世界を席巻する事、など当時から予想して動いていた。
世代は離れていても、お父さんの話を聴くと「夢」を共有させてもらえた。
石田さんが亡くなられる年に、私はフランスへ一人出張を命ぜられた。ミッションはフランスの製品を日本に紹介するビデオ制作。帰国すると、石田さんは体調をくずされているという事でお会いすることが出来なかった。私も現場の仕事が忙しく、暫く忘れていた頃、訃報を聞いた。
7月の暑い日に斎場で、立場もわきまえず号泣し、お骨を拾わせて頂いた。
あれから19年。
今は、時代や世界が複雑になり、放送局も楽な事はひとつもない。
ニッポン放送も色んな事が変わった。
それでも7月になると想い出す。
国立のお墓にお参りし、集まって食事をする仲間もいる。
ルネ・クレマン氏も亡くなられたが、夫人とは今も交流がある。
ここに書きつくせない程、思い出はたくさん・・・・・。
私も後輩と「夢」を語れるオトナになりたい。
石田のお父さんが教えてくれた。
ニッポン放送 檜原 麻希
ーーー写真 提供は 渡辺 省吾さん --
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