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石田さんは、私にとりまして 永遠のオトーさんであります。

2009-09-26 09:14:33 | 特集 石田達郎 石田のお父さん !
石田さんは、私にとりまして人生の師であり 永遠のオトーさんであります。



                            速水 彰夫


昭和40年新入社員として入社した私は、編成部に配属され石田編成局長にご挨拶
したのが、石田さんと言葉を交わした最初でありました。
それから2ヶ月、5月末に業務局への内示を受け、その旨ご報告に行きますと、
「そうか、ご苦労、それでは今晩餞別のメシを御馳走してやろう。」と言って頂きました。
場所は麹町の「服部」。何しろ編成局長と新入社員ですから。
しかも個室で。その緊張したの何のって。生涯忘れられない、そしてものすごく嬉しい思い出です。




私が営業配属後最初の社内旅行での記念写真
男性ではオトーサンお1人背広姿。多分遅れてのゲスト参加と思われます。

昭和60年平山社長誕生と共に私は秘書となり、石田社長は取締役相談役となられ
ました。この時からお亡くなりになられる平成2年7月19日迄、5年間ずっとお側にお仕えする事になりました。

この間のオトーサンとご一緒した際のエピソードを、お話し出来る範囲で書かせて頂きます。

1.通路側がお好き
出張の際オトーサンは、飛行機でも新幹線でも絶対通路側を選ばれました。
秘書の私はいつも窓側でした。

2.とっても奥さん思い

出張で東京駅着のときは、いつも山手線ホームに一度寄られそこで売っている駅弁
を奥さんが大好きだと買って帰られました。

3.お土産は2つ

この時期バブルの良い時代でした。多くの会社の周年記念、社長就任パーティー
がよくありました。普通秘書には土産は用意されていないものですが、オトーサンは必ずお開き口で「もう一つ」と言って私の分も頂きました。

4.グルメだったオトーサン

東京国際映画祭がらみでフランスへ出張され帰国した翌日夜、早速オトーサンの
お供。代官山の「マダム・トキ」に行きシェフを呼び出し、やおら胸ポケットから出し
たのは、パリのレストランのメニュー。「これが美味かったんだ。これを作ってくれ」

5.食べさせ上手

当時オトーサンはビデオ協会の会長をされており5,000億産業の講演で広島に
行った折、広島ディノスの社長別荘で、テレビ新広島吉川社長、松本寛専務等とすき焼きパーティー。

地の松茸が山盛り。オトーサンは「オイ速水!肉より松茸食え食え」とご自身は勿論、私の皿にガンガン入れていただきました。その食べたの何のと。後にも先にもこんな贅沢なすき焼きは有りませんですし、松茸をイヤという程食べたのもありません。

6.叙勲よりハーフ30台



昭和63年、オトーサンは勲二等旭日重光章を叙勲されました。
それはそれは嬉しそうでした。記念写真撮影の為ご自分ですぐに写真屋さんを
予約したほどです。(ポニーのあった一口坂の光陽)。
しかしご本人は、同じ年に出されたレイクウッドゴルフクラブ西コースアウト
でのスコア39の方が嬉しいとのこと

勲二等旭日重光章受章記念写真でした。
於(株)写真光陽

プロアマ戦でのオトーサンの華麗なるショット
パートナーは尾崎将司と岩下志麻さん


7.ヤクザの親分

オトーサンを囲んでの会がいくつもありました。チャンちゃん会、アバウト会、
留萌の会等。ある年、泊まり込みでの伊豆ゴルフ会。メンバーは阿久悠さん、黒井
和男さん、石ノ森章太郎さん他。日差しが強く何人もの方々がサングラスをかけてのプレイ。皆さんがオトーサンを呼ぶのは「会長、会長」。キャデイさんは、ハーフ終るまでてっきりオトーサンをヤクザの親分と思い、超ビビったそうです。

8.オトーサンの怒り

やはり何かの会で伊豆でのゴルフ会。ご存知阿久悠さんは、大の高校野球通。批評
も書いておられました。春の選抜大会の時だったと思います。ホール間を歩いている時イヤホーンで聞いてましたが、一瞬イヤホーンが外れ音が外に漏れました。それを運悪く他の組に聞かれ我々が上がって来た時にフロントで注意を受けました。
阿久悠さんは、申し訳ないと謝られましたがこれを聞いたオトーサンが烈火のごとく怒り始めました。「俺は石田だ。阿久悠さんを知らないのか。阿久さんは、伊豆の為に色々尽力してらっしゃるのだぞ。第一音が漏れたのはプレイ中じゃないぞ、ホール間を歩いていた時に一瞬漏れただけだ。言った奴を呼べ、支配人を呼べ。」とその怒り方はもの凄かったです。震えました。初めてオトーサンの怒りを見ました。




9.オトーサンのフォロー







オトーサンは、亡くなる1年位前から足を引きずる所謂老人歩きになっていました。

ある日羽佐間社長と私と3人でパーテイーに出掛けようと、5階からのエレベーターを降り玄関に向かうオトーサンの歩く後ろ姿を見た羽佐間社長が驚かれ、
「オイ、速水、オトーサン急に歩き方が老人になったな。気を付けた方が良い。今日から俺のフォローは良いからオトーサンを徹底的にフォローしろよ」とおっしゃられたのを今でも強烈に覚えております。

10.オトーサンの涙

オトーサンは東海大東京病院(代々木)に4月から入院されました。秘書である
私は毎日通いました。5月11日に常務の斎藤さんが急逝されました。その報告を
病床のオトーサンにするという辛い任務を受けました。聞いたオトーサンは、
「エッ!」と驚かれ「斎藤のバカ者、まだ若いのに俺より先に行きやがって」と大粒の涙を流され、横を向かれました。

ニッポン放送グループ年末懇親ゴルフ会オトーサンはいつも後ろで皆を
支えていました。




この写真は亡くなる半年前です。

オトーサンが亡くなられたのは、72歳でした。余りにも早すぎました。
もし御存命なら、その後グループに起きたあのクーデターを、あのホリエモン騒動を、あの親子会社逆転をオトーサンは、どう思われたでしょうか。どうされたでしょうか。

それを考えますと感慨深いものがあります。
長くなり申し訳ありません。
まだまだ思い出は尽きませんが、オトーサンが「いいかげんにせい」とおっしゃっておりますのでこの辺で失礼します。



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