ちいさな松の盆栽を 剪定するには おおきくなって どんな木になるのか
その姿を 影に投影し 想像しせんていをするのだと聞いたことがありました。
ご近所の神社の松の大木。
なにも 風でこのような姿になったのではなく 毎年
大きく育った時 このようであったらよいと思う姿に 剪定を繰り返してきたおかげ。
なんとも 美しい。
林業も農業も 漁業も 一年二年の単位でできることではなく
長年の歴史の上におかげさまをもって享受する性質の産業
それを 現代のお金に換算することは 不可能といってよいでしょう。
ところが 例の 松下幸之助と司馬遼太郎の対談に 公共性の高い土地というものは
あずかっているという理念なるものがひつようだといっているようです。
口では 総理も農業を理解するような発言ですが
つねに お金にならぬことには どうもならぬという。
では イギリスやフランス イタリアの一次産業は どうなのだろう。
一時の経済にふりまわされて 大切な空気のように存在して存続しようとしていた
日本の一次産業は 土建屋のセメン工事と 漁協、農協の国の身勝手な施策のせいで
お払い箱にしようとしているように思えてなりません。
新たな一次産業の担い手は 国による組織でも 株式会社でもない
あらたな組織を創設する必要があるのでしょう。
薬局という組織団体も 国の施策中心ですから どうも崩壊する危機にあります。
あらたな時代は 個人が繋がって いろんな業種の人との交流が盛んで
良い情報を教養をもって共有する。
そんな 未来になるよう 爺婆が若い方に協力していかなくてはなりませんね。
さて 松の木ですが。
子育ても おおきく育っていくとき 払うべき心か 速い判断で芽摘みする。
かわっていても 育てるべき心で ゆっくりゆるり構える芽摘みか。
判断が重要です。
それが 1年生から四年生くらいのあいだです。
あとは 人格が育って答えが出てくる そう婆は検証しています。