楽しい日々

ホームページを作ることが 与えてくれた楽しみや 主婦の日々の思わぬ出来事を 聞いて聞いて!  

残念だけれど

2012-08-30 08:11:42 | Weblog
シャープの危機も残念でしたが 今回の政治もあきれています。
そう見えるように また報道は本質や先見の方向をかきけしてしまっています。

いまやっと新しい電力の構想が形になりつつあるときに
馬鹿な理由で 政治が動いているかのような報道にあきれてしまいます。

で 国の在り方もしっかり考えて生活しないと どうなっていくかココは
ド素人の主婦でも 心配です。
優秀な方の意見を聞き みんなで考え 究極のかじ取りを政治にお願いしなければならないのに報道が稚拙では 心配極まりないです。

エネルギーはどうしていくのか 農林水産政は どうかじを取るのか
国は急に変えられないように感じる時が多いのですが
時代は急にかわっていく それは歴史の多くが語っています。

製造も長く企業が生きのびるには ゆっくりとしたいい製品を核にしなければ
特許でつけやきばの商品をつくっても 長く生産をしつずけることがでないことがわかりました。
一時の大儲けは 時代の波にのまれてしまうので おおきく浮き沈みするものだと 
あきらかになりました。

日本は今の時代を 世界でどう生き延びていくのか
真剣に決めていかなければいけないのに 
無意味な報道で先見の人の意見を
かく乱してかきけさないでほしいです。 

藁の上で

2012-08-16 12:30:18 | Weblog
この雨でこんなキノコが生えました。福島のキノコがたたなくて良かった。でも忘れない!日本人は被爆体験した国民だということです。原子力は生命の存続を永遠に奪う遺伝子の破壊をする。加速したウランプルトニウムは地面海面の永年封印を必要とする厄介なものです。人間の役割は生き物とともにあると実感しています。

2012-08-09 08:45:41 | Weblog
先日洗濯機に 十円玉やら百円玉 紙をいれたまま洗濯してしまい 
黒い色ものばかりの衣類だったので 悲惨なことになってしまいました。

おちこち 白く散らばった紙を集めていると
ごみを集める洗濯機の網が 格別きれいになっていることに気付きました。

あーん こんなふうにして 汚染した海水や 海に 
紙ならぬ吸着物をいっしょに入れて洗濯したら どうなのかしら。
ストロンチウムとか 取れるといいのに 
なんて

ちなみに 洗濯層も 紙と一緒にカビ君がとれてきて
いつになくすっきりしているようです。
ただ 洗濯ものはもう一度洗い直しです。

洗濯層洗浄に 和紙一枚入れて回せば きれいになるかもしれません。
メーカーさんにしかられそうかー。

神社

2012-08-08 07:44:24 | Weblog
各地の多くの祠は なんのためにあったのか
よーく考えてみる必要が 今の時代だからこそ
あるのではないだろうか。

最近 神社仏閣の 建て替え工事や 修復工事が行われているけれど
先人のプログラムに 耳を傾け そして 何を目指してきていたのかを
くみ取って工事をしないと 
事は失ってしまってからでは 朱鷺のように回復が難しくなる。

私は人生七回の引っ越しのたびに 氏神様に挨拶し 散策して
時には子育てのため 
土地の様子を確かめてきた。
ひとつ気がついたのが 氏神様の祠には 
自然環境を残すためのプログラムがあることだ。
祠と称する人間の建てた建物には 以前書いたように 貧困救済の役割をもたせてきた。
一方 広い敷地を用意して 
楠木だったり銀杏だったり 人間の営みでは残せない環境を
祠をしるしに 少しの手入れで維持し 自然を根絶やしにしないプログラムのための場を
日本の有識者は 残してきていたのではないだろうか。

食を求めるための田畑ばかりにしてしまうのではなく
雉や狐や 鼬や 蛇 多くの鳥たちが 宝物を維持してくれることを
すでに太古の昔からくみ取って 残すために 祠をあちこち用意してきたのだと
最近感じるのだ。

どこの 仏閣や神社も その点の認識が薄く
駐車場で敷地は削りに削り 植樹と称して杜を好き放題にし
目に余るものがある。

近所の祠は むろん自治体の金がかかるから
丸坊主で葉が落ちて面倒がかからないようにし
草は根絶やしにされている。
民主主義も良いが ここまで人間の横暴がすすむと
日本は日本らしさを失い ぱさぱさな国に人になってしまわないだろうか。
蛙がむしをたべ 燕が帰ってきて 虫を食べ稲作をともに享受してきた
やさしい民族日本。

ぜひ 自然環境をまもってきた祠は 目印であって建物にあるのではないことを みんなに
知っていただきたい。せっかく残してきた神社、手の加え方をゆるめて 
いま日本に棲む動物たちの恵みあっての
日本だということを 思い出していただきたい。




どんなところでも

2012-08-02 09:46:10 | Weblog
こんなところで 楓の芽が生えてしまったようです。
植物は条件さえ合えば芽が出るのでしょうか。
畑の作物は 意思があって生えてきたものは あまり世話をしなくても
すくすく育ちます。その意志はすごいものがあります。
今日は ちいさな楓を見つけました。
寺の水場で 石の刻まれた文字の中で生えても 
多分育っていくことは不可能でしょうが
どんなところでも 生きのびようとする力に 励まされます。

植物は育とうとする意志さえ認めれば 頑張ってくれるものです。
植樹がはやっていますが まず植えなくても 生きていく場所を認めて
用意してあげれば 場所にあった植物が 成長してくるものですよね。

人は お金と時間を 生きのびようとする植物たちをどう折り合いをつけ整備し 
どこまでどのような経過で認めるかにかけるべきです。

植林にお金をかけるよりも 雑草をどう利用するか
鳥たちが運ぶ木の実から生えてくる木々を
どう整備して その土壌にふさわしいものたちで
育てていくかが問題なのであって 植樹した木よりも
自生してくる者たちのほうが 逞しく成長してくると思うのです。 
一本の苗木を植える精神を
長く森や林を認めるプログラムに引き継がなければなりません。
人の労力をかけて 維持管理していくことこそが
大事なのではないかと思っているのです。

昨年 椿大神社でお目見えした かわったユリは
おおうばゆりというそうです。
NHKの番組で 北海道の動物園の森の取材中
名前といっしょに 画像が映って知りました。

椿大神社のおおうばゆり一本。
今年は受難の様子ですが なんとか生きて咲こうとしていました。
自生して行こうとする植物を認め 
動物のほんの小さな願いを聞き届けることのできる
長く続くいきもののプログラムが用意され
余裕のある日本に なってほしいと願うばかりです。
それは 容易ではありません。
個人的には 雑草は抜くのも大変ですし 生き物は甘いと 勢い牙をむきます。
でも 植物のおかげで息をしている私なのだということを
自覚しなければならないほど 生き物を踏みつけにし
人が楽をして本来の姿をみうしなってしまっている。
そう 感じるのは 私だけなのでしょうか。