濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

世界の片隅でささやかに起きていること

2013-07-13 17:10:24 | Weblog
娘の祖母への介護は転院でひとまずは一段落だが、見た目のきれいな病院ほど、案外、患者の心を察しないで、表面的な対応で済ませる危険性もあるようだ。
娘の話によると「おばあちゃんは介助者を呼ばずに、一人で杖をついてトイレに行こうとして叱られ、杖は取り上げられ、歩行器になってしまった」ということだ。
素人目からすれば、本人の意志をなるべく尊重して、体を動かすように仕向けていくことがリハビリの第一歩なはずなのに、病院側の管理責任体制だけが目立ち、患者の気持ち=<生命への意欲>を萎縮させてしまうことになりかねないようにも思うが、どうなのだろうか。

さて、世界ではもっと身につまされる出来事が起きているようだ。
生まれつき耳が聞こえなかったベルギーの45歳の双子の兄弟が、病で視力も失うことが分かり安楽死を選択した。
お互いの顔を見られなくなってしまうことが耐えられなかったからだという。
安楽死に関与した医師の話によれば、2人は、コーヒーを飲みながら両親たちと最後の会話を交わしていたが、その別れはとても平穏で美しかった。2人は最後に小さく手を振ってさよならをしたという。(Newsweek)

ここでも<生命への意欲>は簡単に打ち消されて、先端医療の画期的な進歩とは裏腹に、ささやかな無言の劇が、いともスムーズに終えられてしまっているような気がする。

寝たきりで全介助の娘を抱えている児玉真美は、電子マガジン「αシノドス」で次のように述べている。

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事故で全身マヒになって「死にたい」と言っている人に向かって「そうだね。あなたの生は確かにもう生きるに値しないね」と言って毒物を飲ませて死なせてあげるのは、彼の中にあるはずの「くぐり抜ける」力を信頼しない、ということではないのか。
必要なのは、くぐりぬけようとする前から諦めることに手を貸すのではなく、その人がくぐりぬけることを支える手を差し伸べること、誰にとっても、そういう社会であろうとすることではないのだろうか。

日本ではまだ「介護者支援」という言葉そのものが馴染みが薄く、「支援」というと要介護状態の人への支援でイメージが止まってしまっているけれど、介護を担っている人も生身の人間なのだ。
どんなに深い愛情があっても、どんなに壮絶な努力をしても、生身の人間にできること、耐えられることには限界がある。介護者もまた支援を必要としている。
http://synodos.jp/society/1070/2
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たしかに現在の介護の問題は、介護者家族の倫理的かつ密室的な葛藤に終始してしまいがちだ。
「くぐり抜ける」力を支える福祉社会全体のあり方が問われていると思う。
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