濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

フーちゃんへの賛辞

2014-05-25 19:53:24 | Weblog
二年前の本ブログ上に「植物状態の倫ちゃんと希望の医療」というタイトルですでに取り上げた文章をもう一度紹介しておこう。

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前思春期を迎えようとしていた倫ちゃんは、数年前から進行する脳機能不全のため、既に植物状態にあった。
小児科医としての私の日々の作業は、レスピレーター(人工呼吸器)を点検し、身体中に差し込まれたチューブと装置を管理し、まさかのときに備えて診察を黙々とこなすことであった。
医者も、看護師も、そして時には家族も、大人は彼を半分既に帰らぬ異物とみなしていた。
フーちゃん(白血病の患者)が入院すると、このルーチン化された機械的作業は、しょっちゅう邪魔されることになる。
ようやく幼児期を迎えたばかりのフーちゃんは、いったん危篤状態を切り抜けると、退屈しのぎに(と大人は考えた)倫ちゃんにちょっかいを出し始めたのだ。
声をかけ、歌を歌い、それでも物足りなくなると、ベッドの枠を乗り越えてレスピレーターやチューブをものともせずに倫ちゃんと遊ぼうとする。
フーちゃんを制止し、なだめるために、禁止や叱責は無効だった。
有効な手段は、大人たちが、倫ちゃんを一人のかけがえのない人間として、声をかけ、歌を歌い、みんなで一緒に遊ぶことだった。
フーちゃんのお友達として、倫ちゃんは治り、生き続けるために入院しているというストーリーをでっち上げることが、必要だったのだ。
しかし、この不合理なストーリーは、やがて大人たちを変えていく。
倫ちゃんと会話する。倫ちゃんと遊ぶ。不思議なことに、大人たちは、こういった幻聴と妄想が、機械的合理主義の世界よりずっと生きがいと張り合いに満ちたものだと感じ始めるようになる。
人間の精神世界が作り出すストーリーが、倫ちゃんと、フーちゃんと、親と付き添いと、医者たちと看護師たちの生きる時間と空間をとても豊かにしてくれたのだ。
(石川憲彦「心の病いはこうしてつくられる―児童青年精神医学の深渕から」)
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前のブログでは、ニューロサイエンスの知見を生かして、植物人間の想像以上に豊かな脳神経の世界について語っておいた。

さて、今回は少し話題を変えて、予備校での話をしてみよう。
この文章の事例がはたして「医療」と呼べるかどうか
という問題を生徒に答えさせたところ、賛否ほぼ半々という結果になった。
それも「これこそ医療の真髄だ」というものから「自己満足の遊びに過ぎない」というものまで、ピンキリ状態、さまざまなバリエーションが見られたが、医師の側から、あるいは倫ちゃんの側から発言したものが中心だった中で、フーちゃんの役割について述べた答案が一つだけあった。

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倫ちゃんの状況をまだうまく理解できない幼いフーちゃんによって、皮肉にも「倫ちゃんはまだ生きている」という事実を大人達は再認識させられることになる。
死にゆく者が持っている「生きている人間として扱われる権利」を、もう一度倫ちゃんに与え、大人達にもその権利のあることに気づかせたフーちゃんの行動は、まさに医療と呼ぶにふさわしいものと私は考える。
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医療に過度のロマンを求めるのは危険かもしれないし、現実の現場は厳しいといわれればそれまでだが、こうした答案にめぐりあえるのは、やはり小論文講師冥利に尽きる。
最近は「どうせ寝たきりだから、どうせ植物状態だから、どうせ末期患者だから・・・」
という見切り方(人生の前倒し)が目立つようになっているのが気になる。せめて医療人だけでも
「まだ寝たきりなのだから、まだ植物状態なのだから。まだ末期なのだから・・・」
という粘り腰のスタンスを忘れないでほしいものである。
医療の目的は人の生を支えることにあり、医療人は病に向き合うことよりも、人に向き合うことが基本でなければならない。
私には、フーちゃんが急に終末期医療のジャンヌ・ダルクに思えてきた。


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