濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

人類のたそがれ

2016-03-20 15:38:58 | Weblog
3・11 から5年が過ぎた。
わずか数十秒だが、時間がきわめて緩慢にしか流れなかった地震発生当時の横揺れの記憶はいまだに強く残っていて、安定した大地を失うことへの恐怖が蘇ってくる。
一方、福島原発の水蒸気爆発がテレビに映し出されたときは、科学技術というフィルターがかかっているためか、画面に見入るだけで、実感を伴わないまま、不気味な恐怖を感じるほかなかった。
一つの震災からまったく異質な二つの恐怖を同時に味わったわけだが、五年経ったいまも、福島周辺の人々は、放射能という目に見えぬ恐怖におびえ続けている。
しかも、廃炉、汚染水をめぐる問題、除染や低線量被曝の問題はより深刻になってきているようにさえ思われる。




プルトニウムの半減期が二万四千年だと。ふざけるな。われわれ人類は音楽を案出してから七万年以上経つんだ。七万年くらい待ってやろうじゃないか。歌いながら、奏でながら、踊りながら。(佐々木 中)

と、威勢のいい啖呵をきる若手の評論家もいるが、私は半減期という気の遠くなるような宇宙規模の時間の長さをうまく吞みこめないでいる。

夜空の星々が輝いているのは、そのほとんどが核融合反応によるものだ。原子力とはある意味で、人間が地上に呼び込んだ、宇宙の姿の一端である。
原子力は、地球的自然をモデルにしたこれまでの芸術、これまでの言語的比喩によっては、とらえることができない。
核エネルギーが私たちに垣間見せるような宇宙の姿にかんして、カントの「崇高」に相当するような概念を、私たちはまだもっていないのである。(吉岡洋)


哲学者のカントは1755年のリスボン大震災に影響され、人間は壮大な自然現象の恐怖・脅威に対しても、それを理性と構想力で克服しようとする志向性を持っていると主張し、その姿を「崇高」だと評した。
だが、今日、そうした人間への信頼はもはや限界につきあたっているのではないか。
そもそも放射性物質は我々の抱いてきた自然のイメージと大きく異なるのだ。
たとえば、マルクス『経済学と哲学草稿』に、
〈人間は「自然」を自分の非有機的肉体とする一方、「自然」は人間との不断の交流によって人間の身体の一部になる〉
という趣旨が述べられている部分があるが、このときの「自然」を、たとえば放射性物質のセシウムに置き換えてみると

〈人間は「セシウム」を自分の非有機的肉体とする一方、「セシウム」は人間との不断の交流によって人間の身体の一部になる〉

となる。もちろん、放射線は医療用などに利用されているのだから、全くの誤りとは言えないにせよ、それが体内のDNAを分断するとなると抵抗が強くなる。
ただし、こうした感情に走りすぎると、科学技術の進歩を阻害することになる。このあたりが難しいところだ。



生前の吉本隆明は原発に反対はしないものの、「これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる」といったが、人類はようやくその橋を渡りはじめたところなのかもしれない。
私は、この五年間の思考停止状態から目覚めるため、いくつかの原発関連書に目を通してみた。
そして、原発事故を契機に、人類の未来を危ぶむ声が多く指摘されていることに気づいた。
確かに、3・11を契機に、「人類の有限性」についての認識が強くなってきているようだ。
環境や資源などの外的条件だけではなく、世界の人口増加率の低下や巨大産業や宇宙開発の停滞などの内的条件からも、人類の未来は有限なものにしか思えなくなったという。
いや、有限性を自覚すればこそ、無限を追求していこうという意志も生まれてくるはずだ。ちょうど、沈みゆく夕陽が真っ赤に空を染めるように……
そんなことを考えながら、夕暮れに通りすがりの人々の表情を眺めると、不思議と人懐かしさを覚え、かえって気持ちが安らいでくるのはなぜだろうか。
末期を意識した人間の明るさや余裕というものだろうか。