いまや、「かわいい」は、kawaiiという国際的なブランドにまでなっているらしいが、宮元健次は「日本の美意識」(光文社新書)の中で、「かわいい」の語源にさかのぼり、「かわいい」が、「幽玄」「侘び」「さび」という伝統的な「滅びの美学」の延長線上にあるものだとして、
「かわいい」も、「かわいそう」というネガティヴな状況から出発し、それをポジティヴに捉え直した美である
としている。たとえば、「フランダースの犬」が本国ベルギーよりも日本で人気を博したのも、「かわいそう」な忠犬パトラッシュが「滅びの美学」を身につけ、壮絶な衰弱死を迎えたからであるが、欧米人からすれば、それは単なる「負け犬」にすぎないらしい。
さて、ここまで読んできて、賢明なる読者であれば、
今日、騒がれている後期高齢者は「かわいい」とはいえないのか。彼らこそ、「滅び」(=壮絶な衰弱死)を間近に控えているにもかかわらず、年金から医療費まで天引きされ、最も同情を寄せられるべき存在なのに。
といった疑問がわいてくるはずだ。だが、前掲の書を読み進めると
「かわいい」は成長や成熟を否定する美意識である
ともあり、この点で、高齢者はすでに「成長や成熟」を通り過ぎて、いわば「とうがたってしまった」存在だから、「かわいい」とはいえないということになる。あるいは、
正常老化はこれまでのイメージより明るいものであるとみなされてきています。最近では、運動能力や計算能力や記憶力などは徐々に低下するものの、社会的な知力(例えば、もめ事を丸くおさめる智恵や、他人の悲しみや悩みの慰め方など)は人生の終末期直前まで向上し続き得ることが知られてきました。(奥平博一「中高年学入門」)
というように、高齢者はいまだに「成長や成熟」の可能性を秘めているから、「かわいい」とはいえないとも考えられよう。とすれば、逆に、「かわいい」とは、ピチピチした無邪気さや未熟さのままで、停止し、自己満足している状態なのだ。
とまあ、こんなところで、自分の「かわいい」分析に自己満足していたのだが、さらに最近の若者達の間では、どくろ(スカル)ファッション(写真)が流行していて、これはこれで「キモカワ」系になるのだという。たしかに、ここでも「成長や成熟」は否定されている、いや消滅しているといったほうがいいだろう。
いずれにせよ、高齢者が「ヨボカワ・シワカワ」、あるいは「メタ・カワユス」などと呼ばれる日は、残念ながら死ぬまで来ることはなさそうだ。
「かわいい」も、「かわいそう」というネガティヴな状況から出発し、それをポジティヴに捉え直した美である
としている。たとえば、「フランダースの犬」が本国ベルギーよりも日本で人気を博したのも、「かわいそう」な忠犬パトラッシュが「滅びの美学」を身につけ、壮絶な衰弱死を迎えたからであるが、欧米人からすれば、それは単なる「負け犬」にすぎないらしい。
さて、ここまで読んできて、賢明なる読者であれば、
今日、騒がれている後期高齢者は「かわいい」とはいえないのか。彼らこそ、「滅び」(=壮絶な衰弱死)を間近に控えているにもかかわらず、年金から医療費まで天引きされ、最も同情を寄せられるべき存在なのに。
といった疑問がわいてくるはずだ。だが、前掲の書を読み進めると
「かわいい」は成長や成熟を否定する美意識である
ともあり、この点で、高齢者はすでに「成長や成熟」を通り過ぎて、いわば「とうがたってしまった」存在だから、「かわいい」とはいえないということになる。あるいは、
正常老化はこれまでのイメージより明るいものであるとみなされてきています。最近では、運動能力や計算能力や記憶力などは徐々に低下するものの、社会的な知力(例えば、もめ事を丸くおさめる智恵や、他人の悲しみや悩みの慰め方など)は人生の終末期直前まで向上し続き得ることが知られてきました。(奥平博一「中高年学入門」)
というように、高齢者はいまだに「成長や成熟」の可能性を秘めているから、「かわいい」とはいえないとも考えられよう。とすれば、逆に、「かわいい」とは、ピチピチした無邪気さや未熟さのままで、停止し、自己満足している状態なのだ。
とまあ、こんなところで、自分の「かわいい」分析に自己満足していたのだが、さらに最近の若者達の間では、どくろ(スカル)ファッション(写真)が流行していて、これはこれで「キモカワ」系になるのだという。たしかに、ここでも「成長や成熟」は否定されている、いや消滅しているといったほうがいいだろう。
いずれにせよ、高齢者が「ヨボカワ・シワカワ」、あるいは「メタ・カワユス」などと呼ばれる日は、残念ながら死ぬまで来ることはなさそうだ。