濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

メタ・カワユス

2008-04-25 14:10:31 | Weblog
いまや、「かわいい」は、kawaiiという国際的なブランドにまでなっているらしいが、宮元健次は「日本の美意識」(光文社新書)の中で、「かわいい」の語源にさかのぼり、「かわいい」が、「幽玄」「侘び」「さび」という伝統的な「滅びの美学」の延長線上にあるものだとして、

「かわいい」も、「かわいそう」というネガティヴな状況から出発し、それをポジティヴに捉え直した美である

としている。たとえば、「フランダースの犬」が本国ベルギーよりも日本で人気を博したのも、「かわいそう」な忠犬パトラッシュが「滅びの美学」を身につけ、壮絶な衰弱死を迎えたからであるが、欧米人からすれば、それは単なる「負け犬」にすぎないらしい。

さて、ここまで読んできて、賢明なる読者であれば、

今日、騒がれている後期高齢者は「かわいい」とはいえないのか。彼らこそ、「滅び」(=壮絶な衰弱死)を間近に控えているにもかかわらず、年金から医療費まで天引きされ、最も同情を寄せられるべき存在なのに。

といった疑問がわいてくるはずだ。だが、前掲の書を読み進めると

「かわいい」は成長や成熟を否定する美意識である

ともあり、この点で、高齢者はすでに「成長や成熟」を通り過ぎて、いわば「とうがたってしまった」存在だから、「かわいい」とはいえないということになる。あるいは、

正常老化はこれまでのイメージより明るいものであるとみなされてきています。最近では、運動能力や計算能力や記憶力などは徐々に低下するものの、社会的な知力(例えば、もめ事を丸くおさめる智恵や、他人の悲しみや悩みの慰め方など)は人生の終末期直前まで向上し続き得ることが知られてきました。(奥平博一「中高年学入門」)

というように、高齢者はいまだに「成長や成熟」の可能性を秘めているから、「かわいい」とはいえないとも考えられよう。とすれば、逆に、「かわいい」とは、ピチピチした無邪気さや未熟さのままで、停止し、自己満足している状態なのだ。

とまあ、こんなところで、自分の「かわいい」分析に自己満足していたのだが、さらに最近の若者達の間では、どくろ(スカル)ファッション(写真)が流行していて、これはこれで「キモカワ」系になるのだという。たしかに、ここでも「成長や成熟」は否定されている、いや消滅しているといったほうがいいだろう。
いずれにせよ、高齢者が「ヨボカワ・シワカワ」、あるいは「メタ・カワユス」などと呼ばれる日は、残念ながら死ぬまで来ることはなさそうだ。

バカの勝ち

2008-04-12 15:10:26 | Weblog
最近のTV番組では、バカタレ(ント)、アホタレ(ント)がお笑い番組やクイズ番組を席巻していて、数少ない良心的で啓蒙的な番組を探すのに苦労する。だが、「いまこそ低俗番組を一掃して、教養番組の復権が必要だ」などと書いて満足できるかといえば、さにあらず、逆に自分が時代から取り残されるだけではないかといった不安のほうがかえって大きくなる。

こうした点をふまえて、茂木健一郎が吉本隆明にインタビューした様子の一部が、茂木のブログ「クオリア日記」で紹介されている。
いまや知識人は時代をリードする役割を失い、逆に大衆がリードし、知識人はその後を追いかけているに過ぎないのではないかという茂木の質問に対し、吉本は、戦後生まれの世代が社会に登場したとき、すでにそうした傾向に気づいたとしている。そして、日記は、

古典的な知識性が不可能になっていき、文学も次第にやわらかくわかりやすいものになっていくことは、一つの必然的な歴史の趨勢だと吉本さんは言われた。

とまとめられている。それにしても気づくのが遅いなあ、茂木君! こうした吉本の姿勢が鮮明になったのは、すでに二昔前の80年代の「マスイメージ論」だったのだよ(これまた「疑惑の80年代」の一つの側面として挙げられるかもしれないが)。
サブカルチャーもアンダーグラウンド芸術もマルクスやドストエフスキイなどの古典的教養と同レベルで扱うべきだという吉本の考えは、当時、衝撃をもって迎えられたが、その行き着く先が現代なのである。
たしかに、現代のタレントの中には政治家や学者よりもはるかにセンスのいい判断を披瀝する者がいて、興味深く、頼もしい気がする。
一方、日々、賢いコンピュータに振り回され、自分のバカさ加減をつくづく味わわされている現代人をターゲットにしたクイズ番組では、バカタレ(ント)、アホタレ(ント)が半ば意図的に選ばれ、登場してくる。そして、彼ら・彼女らは

「スイカを割ったような、さっぱりした男」「大股の切れ上がった、いい女」

などと平気で答えるのだが、間違えてもめげないその生命力、天然力が、多くの癒しや励ましを視聴者に与えてくれる、そんな構造になっているのではないだろうか。ここまで「バカの価値」が尊ばれれば、もはや「バカの勝ち」というべきだろう。このことは、あるニュースキャスターの

高度な科学技術を要する産業など、現代日本では珍しくなくなった。むしろ自然相手の農業や漁業が希少価値を持ってきている

という発言と微妙に共鳴しているように思われる。

こんなことを考えているうちに、過日、元ホステスさんが、某スポーツ紙に連載した記事を本にまとめたいという依頼を、何を間違えたのか、私のところにしてきたのを思い出した。いわゆる「男と女の与太話」ばかりだが、書きっぷりは悪くはない。
そこで、「バカの彼」という題名でどうですかと言うと、「バカの彼もアホの彼女もたくさんいらっしゃいますから、書く分にはまったく困りませんよ」などという軽妙な答えが返ってきた。ところが、その後、今に至るまで、一向に原稿は送られてこないのは、どうしたことだろう。もしかして、夜の牝ギツネにバカされたのではあるまいか。

「唯脳論」から「唯臓論」へ

2008-04-03 21:02:02 | Weblog
以前、このブログで「最近は、<心>が、脳の方からばかり説明されているようだが、心臓からのアプローチも必要だ」と書いたことがあったが、これと同じような問題意識を持った後藤仁敏の「唯臓論」(中公文庫)という書が出されていることを知った。著者は以前に紹介した三木成夫の弟子に当たるという。著者によれば、この書を世に出した趣旨は、

人間の行動をすべて脳の機能から説明しようとする「唯脳論」の立場ではなく、人の活動をすべて内臓の機能から説明しようとする試み

ということだが、ここには、現代において、自我、我執、個性などを重視する大脳中心の生き方は限界に来ており、大脳を内臓の働きに奉仕する器官に戻し、植物のように、自然のリズム、宇宙のリズムに従って運動する内臓中心の生き方へと変えていかなければならない、というモチーフが流れているようだ。ここで、

「唯脳論」=感覚機能、運動機能重視=動物的
「唯臓論」=栄養摂取・生殖機能重視=植物的

と拡張していけば、

アリストテレス以来の魂論の伝統において、魂の三つの機能、すなわち、栄養摂取・生殖機能、感覚機能、運動機能のうち、生物を生物たらしめている魂の本質的な機能は、栄養摂取・生殖機能であった。感覚機能や運動機能そのものが生物に共通する機能に支えられているということである。病人の祈りが向かうべきは、失われた感覚機能や運動機能であるというよりは、生物に共通する機能なのである。(小泉義之「病いの哲学」)

という主張とも重なり、栄養摂取・生殖機能(植物的な生)の復権が叫ばれていることにもなる。こうした視点に基づいて本書を読めば、たしかに

神経系は最初原口から原腹に入ってきたエサである微生物を感じとり、その消化・吸収を伝達する機能のために形成された。

腸の壁にいた消化細胞が、そこから離れて、体内に侵入した微生物を追いかけて、からだの中をパトロールするようになったのが、血液細胞のはじまりである。つまり血液細胞は、腸管外消化をおこなう遊送性の食細胞から由来したのである。

というように、脳を作り出した神経系もさらには免疫系も栄養摂取機能(=食)に由来するものであり、したがって、栄養摂取=食を生命の根底に据えて考えなければならないことが分かってくる。
どうやら、われわれは、「人はパンのみにて生きるにあらず」という新約聖書的なパラダイムから、もう一度、大きな脱却・転回を必要としているのではないだろうか。
ちなみに、ジェームス三木は「ドラマと人生」(写真)の中で次のように述べている。

食欲は生命維持本能につながり、性欲は種族保存本能につながる。したがって、食事やセックスより、もっと面白いことが出現すれば、それが人類滅亡のときであると、私はにらんでいる。