濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

行く夏に・・・

2013-08-27 18:47:06 | Weblog
先日放映されたNHKスペシャル「シリーズ東日本大震災 亡き人との"再会" ~被災地 三度目の夏に~」は、映像詩のような画面構成で、なかなか見応えのある番組となっていた。
番組で取り上げられていたある女性の例を取り上げてみよう。
──震災直後のある日、鍵のかかる靴箱にいれたブーツに、誰が置いたのか、今切り取られたばかりのような瑞々しさを保った白い花が添えられてあった。
その白い花は、二週間後に送られてきた父の遺体の棺に飾られた花と同じものだった。
父親の遺体に触れたかったが、顔の輪郭が崩れないようにという配慮から叶わなかった。
それでも、白い花の冷たくやわらかい感触は、実際には触れることのできなかった父の遺体の感触にも通じている。──

死にゆく者を看取り、その喪失を悲しみとともに受け入れていくことを「グリーフワーク」というが、不意の震災では、ゆっくり時間をかけて悲嘆に沈むことなどできない。
その不全感を取り除こうとして、遺された人々は、もう一度死者と会うことを果たすかのように、美しく切ない物語を編み出していく。
いや、生者だけではない。死者もまた遺された人々の心を癒すために、この世のものとは思えぬ物語を生者の世界に送り届けてくるのだ。





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数日前、投身自殺した藤圭子の娘である宇多田ヒカルのHP上のマスコミ用のメッセージを見ると

彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。
その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。
幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。
症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。
私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。
母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。


とあった。
父親の宇多田氏の影響も強くあるのだろう、あくまで冷静な発言であるが、私としては、母を失うまでの我が娘の心模様を理解する手がかりを与えられたようにも感じた。
母の死を告げる娘(当時は大学生だったろうか)の様子は、あまりに淡々としていて、無味乾燥な抑揚のない声で、憎々しいほどだったが、その原因は、やはり母の人間として崩壊していく過程を日々観察し、娘なりに「何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んで」きた末に、もはや涙も涸れたという段階で迎えた死だったからではないのか。
そういえば、まだ中学生の頃、母がどこかに行ったまま帰ってこないと私に電話を寄こしてきた時には、激しく動揺し、泣き崩れていたのだから、その頃は、まだ優しい母が復活するのではという期待もあったのだろう。
さて、宇多田ヒカルのメッセージの最後にはこう記されている。

母の娘であることを誇りに思います。
彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。


母とのこれまでの関係で背負わなければならなかった苦悩を昇華した、実にいい言葉だと思う。
HPのメッセージを無断で転用したことを謝するとともに、深い哀悼の意を表したい。

「いのち学事始め」(アンチエイジング)

2013-08-23 21:43:57 | Weblog
酷暑の続く八月だが、何とか誕生日も無事に終え、いよいよシルバーエイジの仲間入りを果たすこととなった。
とはいえ、正直なところ、「これって悪い冗談だろ!?」という思いを禁じ得ないのだが・・・
自分の人生を自分で切り開いてきたという自負などもちろんないが、単調なように見えて意外と起伏の多かったこれまでの半生を振り返るなら

また越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山(西行)
命なりわづかの笠の下涼ミ(芭蕉)


という悠揚迫らず、己の運命を素直に受け入れていく詩人の姿勢が、自分にとっての実感と無理なく重なってくる。
とりあえずは我が命を救ってくれた多くの人々に深く感謝しつつ、今後も馬齢を重ねていくしかないようだ。

その一方で、ちょうどこの日を「美しいたましい」の誕生日として祝福されるべき方がいるわけで、そう思うと感慨無量でもある。
いずれにせよ、毎日が「残された人生の最初の日」である。
せめて新鮮な気持ちで一日一日を大切に過ごしていきたい。
ここで、以前のブログで紹介したヤマトタケルの歌を再び引用してみよう。

命の全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白橿が葉を 髻華に挿せ その子

長寿をまっとうするには、故郷に自生する木の葉や草花の生命力を取り入れ身につけていくがいいということで、このとき、自然治癒力を重視するヤマトタケルの眼力の鋭さが垣間見えてくるのではないだろうか。
「命」とは周囲の自然の霊やたましいとの交感でもあるのだ。
ところで、こうした外的な自然(客体)と自分(主体)の生き生きとした交感を失ったのが現代であり、それでも長寿を願うとすれば、どうすればいいのか。
いわゆるアンチエイジング効果をPRする某化粧品メーカーのHPを参照してみよう。

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「自己美肌力」とは、肌全体がどれだけ若々しくエネルギーに満ちた肌細胞で満たされているか、ということです。
そして、この力を維持するのに大きく関与しているのが、肌細胞の誕生を担っている全ての細胞の母、“幹細胞”なのです。
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ということになるが、近年は幹細胞治療と称して、自分の幹細胞を身体から抽出し、それに何らかの操作を加えて、再び身体に戻して、身体を活性化するという方法も試されているようだ。
ここでは自分の身体(主体)をいったん客体化して、それを再び主体化するという複雑なルートで命の再生を図っていることになるが、そのベースとしてある「霊」とか「たましい」の働きが見失われているのは間違いない。
いくら若返ったとしても、それはいわば、たましいの抜けたマネキンの美しさにほかならないようにも思うがどうだろうか。

2013夏 きれぎれなるままに

2013-08-14 20:24:24 | Weblog
先日、夏休みということもあって、命の洗濯とばかりに横浜美術館で開催されているプーシキン展に足を運んだ(とはいっても、やんごとなき女性画家に同行したまでだが)。
かなりの人混みでゆっくり鑑賞する余裕はなかったが、それでも見応えのある作品がそろっているという印象を受けた。
鑑賞を終えて、必ずしも目立ちはしなかったフロマンタン「ナイルの渡し船を待ちながら」という画について、それが朝の光景なのか、夕暮れの光景なのかという質問を画家から受けた。
本ブログに掲載した画を見ればわかるように、砂塵の薄茶色が地と空を覆っていて、旅人の一行もモノトーンな雰囲気に包まれていて、果たしてその光景が朝なのか夕暮れなのか、にわかには判別しがたい。
気になって、帰宅後、同じ展覧会の印象を記した他の人のブログ(足立区綾瀬美術館 annex http://suesue201.blog64.fc2.com/blog-entry-845.html)を検索してみると、この絵について

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ナイルに夕陽が沈んでいきます。
もうじき夜がやってきて
大地は寒さにおののくだろうか。
早く向こうに渡らねばならぬと
けれど旅人はなすすべもなく
渡し船を見つめるばかり。

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というコメントがされていた。
無理のない解釈で、たしかに暮れなずむ異郷のエキゾチシズムを感じさせる作品として、構図的にもうまく収まってくるようだ。


ところで、今日の私たちは「早く向こうに渡らねばならぬ」といった、彼方への渇仰や希求を抱くことがあるのだろうか。
希望の見出される朝なのか、憂愁に包まれゆく夕暮れなのか、定かではないうえに、旅慣れた案内者もいなければ、従順なラクダもいない。
情報化とグローバル化の流れがきつく、渡し船も容易に近づけない不可視のナイルを目の前にして、われわれは行きあぐねているようだ。

こんなことを考えているうちに、森鴎外の娘、小堀杏奴が父と祖父のことについて綴った文章の一節が思い出されてきた。

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祖父は病人を診ている間は、全精神を病人に集中する。
そして、その病人の症状が軽かろうが重かろうが、単なる鼻かぜだろうが、死に瀕した重病だろうが全く同じ態度で、これに接している。
しかもそれは単に仕事の上のことだけではない。
盆栽いじりをしている時も、煎茶をすすっている時も、日常のあらゆることに対してそのような態度である、と父は書いている。
それに反して若い父のほうは、なにをするにも始終なにかもっとしたいこと、或いは、するはずのことが別にあるように感じている。
そして父は、自分が常に遠い向うにあるなにものかを望んで、目前のことをいいかげんに済ませていくのに反して、祖父はつまらないと思われる日常のことにも、全幅の精神を傾け尽くしていることに気がついたのである。
そして熊沢蕃山が、「志を得て天下国家を事とするのも道を行ふのであるが、平生顔を洗つたり、髪を梳(くしけづ)つたりするのも道を行ふのである」と書いているのを読んでから、祖父の日常と思い合わせ、今まで軽くみていた祖父を尊敬する念が初めて生じたという。(小堀杏奴「朽葉色のショール」)

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焦るべきではない。
残る夏休みはじっくり、部屋の片付けや身辺整理に費やそうと思う。

「いのち」学事始め(補遺)

2013-08-12 11:12:19 | Weblog
前回の内容では高校生ならずとも難解すぎると思われるので、もう少し丁寧に論じてみることにする。
前回では、生命やいのちを「エイジング(老・死)とリモデリング(生殖・再生)をくりかえすことで全体としてのバランスを保つシステム」という説を取り上げてみた。
つまり、生まれて、子孫を増やして(生殖によって自分の一部を再生させ、未来につなげていく)、やがて老いて死んでいくことが、動物や植物の生命だということになる。
これを別な視点から見るなら、次のようになるだろう。

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たえず外から物をとり込んで大きくなり、やがて、みずから次代をつくって死んでいく“栄養-生殖”というたがいに連関しあった営みをつづけていくのが、いわゆる生物の最大の特色となってくるのである。
アリストテレスは、“受けとって、出すのが生物である”といったが、以上のように、かれらはたえず外から物をとり込んで大きくなり、やがて、みずから次代をつくって死んでいく。
そして、このことを連続的にくり返していくのである。
このような現象は、無生物ではけっして見ることも、想像することもできないのであって、われわれは、この“栄養-生殖”のいとなみを、生物の生物たるゆえんと考えるのである。(三木成人「ヒトのからだ」)
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ここでは、呼吸を含めて栄養を摂取すること、そしてそれに支えられて、生殖、繁殖することが生物の特徴だといわれている。
ここで、もう一つ付け加えておきたいのは、生命のもつ精神性、さらに霊性と呼ばれるものについてである。

「葦原中国(あしはらのなかつくに)は、磐根(いわね)、木株(このもと)、草葉(くさのかきは)も、なほ能くものいふ」(『日本書紀』)

とあるように、古くは草も木も、精神性や霊性をもって人々に何かを語るものとされていた。
このようなアニミズム的発想は動物でも変わらない。たとえば、

桜田へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟(あゆちがた) 潮(しお)干(ひ)にけらし 鶴鳴き渡る(『万葉集』 山辺赤人)

という歌について、単に鶴が鳴きながら空を飛んでいるというより、鶴が鳥の霊を求めて旅する姿を歌ったものだという解釈をする学者もいる。
当然、人間にも霊的な心はあり、チェロキーインディアンでもそれは信じられていた。

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からだが死ぬときはからだの心もいっしょに死んでしまう。でもね、霊の心だけは生き続けるの。そして人間は一度死んでも、またかならず生まれ変わるんだ。(リトルツリー)
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さて、こうした霊的なものへの尊敬や信仰とかを捨ててしまったのが、現代社会、現代科学技術文明ということになるのだろうが、それでも存外、医療の世界では、「病は気から」ということで、霊性や精神性を重視する姿勢も根強く残っており、たとえばベッドに千羽鶴が折られてつり下げられている光景を目に浮かべる人も多いだろう。
ちなみに、WHO(世界保健機構)では

健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。

というように、健康の定義に「霊的な健康(spiritual health)」を加えるような修正が提案されていることは注目される。
iPS細胞をはじめとする最先端の再生医療が脚光を浴びており、そうした医療は人間の細胞や遺伝子をモノとして扱うことを求めるが、その一方で、人々の霊的な健康をケアする「spiritual care(スピリチュアル ケア)」への配慮も怠ってはならないのだろう。

「いのち」学事始め

2013-08-09 00:50:14 | Weblog
医学部受験の小論文に関わる者として、「生命倫理」という言葉に出会わぬ日はないぐらいだが、それを青春真っ盛りの高校生にわからせようとしてもなかなか困難なことだ。
いや、世の大人達にとっても、あまりピンと来ないかもしれない。
「生命」と「倫理」のうち、「倫理」がよくわからないという人が多いようだが、「生命」だって相当難しい概念なのだ。
たとえば、生命現象について

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生命現象や私たちが感じ取る世界のすべてを物理学や化学の言葉で説明し、記述することは不可能です。
なぜなら自然の流れである「いのち」は、非物質的なリアリティという側面に関連するものだからです。
つまり、驚異的治癒には身体性だけではなく精神性とか霊性とか呼ばれるものも関与していると考えざるを得ないのです。

生命現象は宇宙のもっとも精巧な反応系であるとみなすことができると思います。
それはエイジング(老・死)とリモデリング(生殖・再生)をくりかえすことで全体としてのバランスを保つシステムなのです。
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という解説がされている(松野哲也『病気をおこす脳 病気をなおす脳』)。
この二つの引用を総合すれば、
「生命」とか「いのち」とは、物質に還元されない精神的、霊的なものが関与して、エイジング(老・死)とリモデリング(生殖・再生)をくりかえすシステムだ
ということになる。
だが、これではかえって話が抽象的で、難しくなるばかりだろうから、具体例で考えてみよう。
まず、『古事記』で死期を迎えたヤマトタケルの望郷の歌に

◆命の 全けむ人は 疊薦(たたみこも) 平郡(へぐり)の山の 熊樫が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

というものがある。
「命の無事な者は、幾重(いくえ)にも連なる平群山(=奈良県生駒郡平群村)の大きな樫の木の葉をかんざし(=当時は魔除けとして使われた)として挿すがよい。者どもよ」といった訳だという。
ここでの「いのち」は「エイジング(老・死)」、つまり、つつがなく人生を全うすることだと考えられている。

次に『万葉集』から、中臣女郎が大伴家持に贈ったとされる恋歌を取り上げてみよう。

◆ただに逢ひて 見てばのみこそ 玉きはる 命に向ふ 吾(あが)恋やまめ

訳は、「お便りだけでなく、じかにお逢いして共寝をすればこそ、この魂のきわまる命を限りの恋心も安らぐでしょうに。」というもので、女性の歌としてはかなり激しいものだ。
ここでの「玉きはる命」とは、「リモデリング(生殖・再生)」に向かう方向にあるものと解釈できるのではないだろうか。
いずれにせよ、成長し、老いていくことと、繁栄して子孫を残していくこと、その二つが生命の根底にあり、そこには霊的な力が働いているということになる。
二つの歌では生命についてのおおらかで健全な感覚が歌われていて、倫理などの介入する余地はないといってよい。

一方、たとえば、パーキンソン病の患者の治療のために、中絶胎児の神経細胞を培養してよいか、使用される胎児組織の妊娠週齢を何週にすべきか、そもそも両親に胎児の細胞を処分する権利があるのか、という問題を考えるのが「生命倫理」だが、すでにこの時点で、生命は宇宙のシステムから切り離され、なかばモノ化され、霊的な力などもたない単なる物質として扱われようとしているのではないか。
中絶胎児のみならず、パーキンソン病の患者の身体も物質的な存在に還元されている。
もちろん、人間の歴史自体、生命のモノ化・商品化の歩みともいえる。
長く我々は汗水たらして身を削って働く行為を「商品」として売買してきたのである。
ただし今日、生命のモノ化・商品化のスピードがあまりに急速すぎるため、人々の心に迷いが生まれ、それが「生命倫理」として浮上しているにすぎないようにも思われる。