濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

ひと夏の体験

2008-08-31 15:17:40 | Weblog
公園や林では、セミたちが、ミンミンのミンミンによるミンミンのための大合唱を繰り返し、北京では、中国人民の中国人民による中国人民のためのオリンピックが華やかに開かれていたが、そうした喧噪もようやく止んだかと思うと、今度はゲリラ豪雨の雷鳴が朝まで響き渡り、といううちにも、今年の夏はあわただしく終わろうとしている。

さて、今回の覇権主義型オリンピックに対する違和感や興ざめの感覚は、日本人なら誰しも多少なりとも味わっていたようで、私などは、そうした「イマイチ」の気分を代弁してくれた星野ジャパンや野口みずきに「裏金メダル」を、こっそりとあげたくなってしまったほどだ。

それにしても、ソフトボールやサッカーなど、女性選手の活躍に比較して、男性選手の不振が目立ったのも確かで、わがジャパンの若き男性の行方が心配になってくる。たとえば、J-CASTニュースのサイトには、

結局、日本はもっとダメになると思っているんです。成功する人は1割にも満たないはずだから、慎ましく生きるしかないんです。

という、22歳の男子大学生の何とも気弱な発言が掲載されており、また、現在の20代を「かわいそうな世代」と評する経営コンサルタントも

20代の若者が保守的になっているのは、同世代にたくさんニートがいてその現実を知っていること。さらに、株の乱高下、年金、サブプライムなど経済面の問題が山積し未来を描ききれないことや、両親が不況の時代を生き、今でも家のローンや、教育費を抱え「カネがない、カネがない」とシャワーのように言葉を浴びせられてきたからだ。

と、「かわいそうな世代」の誕生した背景事情を要領よく説明しているものの、それは、結局のところ、客観的な分析でしかなく、これでは、彼らのマイナス思考が強くなるだけだろう。

こうした点、女性は状況を冷静に分析することはしない分、感覚的、本能的に、現代の危機にも対応できるようだ。先日も、大手銀行の総合職を辞めて、個人でビジネスをしている三十代の女性にインタビューしたが、

「月収500万は欲しいですよね」

と事も無げに話していたのが印象的だった。
この不況下に、どんなそろばん勘定で月収500万になるのかはわからないが、自社ビルをたて、多くのスタッフを雇い入れ、店舗数を増やす、といった古典的(覇権主義的)な経営感覚からの発言ではなさそうだ。
あくまで、同じ仕事の仲間とおいしい食事をし、好きなワインを飲み、素敵な時間を共有し、本物の人生を送るためなのだという。いかにも、消費社会で育った若い女性の好みそうなビジネス感覚=ライフスタイルというべきで、こうした「なでしこビジネス」ならば、これからまだまだ伸びる可能性を持っているように思うが、どうだろうか。

追記
インタビューの後の雑談のおり、小生の持っていた本が彼女の目に留まり、ちょっと見せてください、といったきり、現在に至っている。こうした、楽天的で陽気な厚かましさというのも、「なでしこビジネス」の特徴なのかもしれない。いずれにせよ、「かわいそうな世代」を通り過ぎた私にとっては、「奪われた、ひと夏の体験」であったのだった。

書物という<墓標>

2008-08-28 20:31:47 | Weblog
待望久しかった佐々木昌雄著「幻視する<アイヌ>」が草風館から刊行され、私はその書をK氏からいただいた。手元に2冊しかないという中の1冊を手渡されたとき、何とも複雑な感慨を覚えた。

まず、本書は、著者の佐々木氏がこつ然と姿を消した後、草風館社長の内川氏がなみなみならぬ執念で集めた原稿類を編んだもので、しかも上梓の何日後かに社長が逝去されたというのだから、本書の刊行は、いかにも佐々木氏の風雲急を告げるイメージにふさわしい一つの<事件>に違いない。

その一方、本書が菊池信義氏装丁であるにもかかわらず、大学時代に佐々木氏から「呪魂のための八編より成る詩稿付一編」という詩集(本書所収)を手渡されたときに、装丁や文字から立ち上がってきた、自分はいま魂の宇宙にじかに触れているのだ、という、あのめまいに似た手応えはなく、妙な均質感が支配しているようにも思えたのだ。(俗っぽくいえば、幼年時代に急な坂道に思われていても、大人になって行ってみると、なだらかな傾斜にしか感じられないという感覚に近いのかもしれないが)

私が大学に入り、佐々木氏の下宿に転がり込んで以来、氏からは、時代の見方、社会の見方、人間の見方、いろいろご教示いただいたが、詩集は中でも最も思い出深いものである。
その言葉の連なりは、一般的な解釈ではとても歯が立たないという、急峻な崖を目の前にしたような感じだったが、その印象は今もあまり変わらない。当時の詩壇(鮎川信夫や田村隆一、あるいは谷川俊太郎や大岡信、長田弘など)ともまったく異質で、強いて類似した作品をあげれば、戦前の歴程の逸見猶吉「ウルトラマリン」あたりになるかもしれない。しかも、歯が立たないでいて、その言葉の一部は私の脳裏にしっかり刻み込まれているのだから、何とも不思議である。詩集の跋には

個体の消滅が種全体の滅亡と少しもかかわらないと考えるから、人々はいけにえにたいして「死ね」と言える。犠牲とは外の力から死を通告されることにあるのではなく、おのれが外の力に向かって、人々にむかって「死ね」と言えないことにある

という一節がある。私などは、こう唱えていた佐々木氏が、「いじめ」のはびこる現代の荒廃した教育現場に立った時、どのような発言をするか、もう一度、聞いてみたいような気がする。

さて、今度読み返してみて、詩集に頻出する語の一つに「墓」があることに気づいたが、本書の編集後記で内川氏は次のように述べている。

本書はS(佐々木氏)の青春時の金字塔ともいえようが、わたしには呪いの墓標のような気がしてならない。(中略)その<墓標>からいまだに<シャモ>を含めた<にんげん>に対する呪いの蜃気楼が宙空に舞い上っているようだ。

だとすれば、佐々木氏は遁走・逃走しながらも、自ら、もう一つの<墓>をたてたというべきかもしれない。それが「快挙」なのか、「怪挙」なのかは、後人の判断に委ねることにしよう。

残された人生の最初の日

2008-08-16 21:20:35 | Weblog
少し夏向きの話をしよう。
前にも紹介したように、現在の私は、ビジネスに成功した人たちのインタビューの仕事に追われている。
先日は、サーフィン好きが嵩じて、自らサーフボードショップを立ち上げたものの、バブル後の人気停滞の憂き目に遭い、わらをもつかむ気持ちでニューヨークに渡り、9.11同時多発テロの黒煙がたなびく中で、新しいビジネスの可能性を見いだしたという五十代の男性の取材をした。
現在では、ようやく彼の仕事も軌道に乗り、昨年は、サーファー仲間と念願のインド洋サーフィンクルーズを果たしたという。

彼にいわせれば、高さ30メートル(ビルの5階ぐらい)のBIG WAVE は自然からの贈り物であり、それに乗る技術を身につけるためには、サーフィンだけ練習していてもダメで、陸に上がって、毎日毎日、一挙手一投足に注意を払い、心技体のバランス感覚を磨かなければならないのだという。
どうやら、武士道に似たサーフィン道を体得しなければならないようだ。
それにくらべれば、ビジネスでの成功など、取るに足りないのかもしれない。そういえば、彼の顔はどこか宮本武蔵を彷彿とさせるものがあった。

さて、その彼が座右の銘にしているのが、
「今日は、残された人生の最初の日」
というもの。
「残された人生」とは「目標のある人生」のことだと、その言葉の真意がわかったとき、毎朝、5時半に目が覚めるようになったという。彼の体の中で、チャレンジのゴングが鳴り響くのだろう。

われわれはともすれば、毎日を何気ない「人生の一日」としか感受していない(時折、人生の特別な一日があるかもしれないが)。
だが、命を張ったサーファーだけでなく、老若男女、だれの人生でも、毎日が「残された人生の最初の日」であることには変わりないのだ。老いていくに従い、「最初の日」と「最後の日」との距離がちぢまっていくだけである。

最後に彼の夢を聞いた時、眼光鋭く、こちらを見つめながら、六十になっても、七十になっても現役サーファーとして、「情熱大陸」のような番組に登場することだといっていた。
いまだに、サーフィンを追いかける少年のような無垢な心をも、彼はもっているようだ。
そういえば、私の場合はどうなのか。平凡ではあるが、
「初めての人生の、最後の日まで、新鮮な気持ちで過ごしたい」
とだけ答えておくことにしよう。

avec le temps(時とともに)

2008-08-04 21:04:52 | Weblog
今日はなぜか、朝から léo ferréの名曲 avec le temps に聴き入ってしまった。
そのうち、さすがに彼の感情移入の激しさにへきえきしてきて、お口直しというわけではないが、フランス最大の歌姫だったDalidaの同じ曲を選んでみることにした。日が高いうちから「はしご酒」ならぬ「はしご歌」である。

Dalidaは、特に悲歌を歌わせれば、他に並ぶ者がいないといわれるほど、高く評価されていたそうだが、この曲でも淡々と歌っているようでいて、緊張感や悲壮感を漂わせつつ、最後まで聴いていくと、絶唱のようにも思われてくるあたりは、さすがである。原曲のピアノの旋律もそのままうまく活かされている。

今回、調べて初めて知ったのだが、自殺した彼女の最期の言葉は
「許してください。人生はつらすぎる。」
というものだったらしい。
そして、何という符合だろう! 
今日の午後、もう一人の不幸な女性の四十九日法要の引き出物が、彼女の父親から送られてきたのである。

どちらがどちらを引き寄せたというべきか、じつは、今回のブログについては、前から、江戸川の花火大会の様子を報告するようにという注文が、さる方からあり、他方、この曲については、秋の夜長に、来し方行く末を思いつつ、じっくり聴いてほしいと思っていたのだが、盛夏のきわみでの唐突な紹介となってしまった。
どうか、これも故人の供養のためと思ってお許しいただきたい。

Dalida : Avec le temps (live)