医療とは何かを考える上で、これまでひっかかっていた文章がある。少し長くなるが紹介しておこう。
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前思春期を迎えようとしていた倫ちゃんは、数年前から進行する脳機能不全のため、既に植物状態にあった。
小児科医としての私の日々の作業は、レスピレーター(人工呼吸器)を点検し、身体中に差し込まれたチューブと装置を管理し、まさかのときに備えて診察を黙々とこなすことであった。
医者も、看護師も、そして時には家族も、大人は彼を半分既に帰らぬ異物とみなしていた。
フーちゃん(白血病の患者)が入院すると、このルーチン化された機械的作業は、しょっちゅう邪魔されることになる。
ようやく幼児期を迎えたばかりのフーちゃんは、いったん危篤状態を切り抜けると、退屈しのぎに(と大人は考えた)倫ちゃんにちょっかいを出し始めたのだ。
声をかけ、歌を歌い、それでも物足りなくなると、ベッドの枠を乗り越えてレスピレーターやチューブをものともせずに倫ちゃんと遊ぼうとする。
フーちゃんを制止し、なだめるために、禁止や叱責は無効だった。
有効な手段は、大人たちが、倫ちゃんを一人のかけがえのない人間として、声をかけ、歌を歌い、みんなで一緒に遊ぶことだった。
フーちゃんのお友達として、倫チャンは治り、生き続けるために入院しているというストーリーをでっち上げることが、必要だったのだ。
しかし、この不合理なストーリーは、やがて大人たちを変えていく。
倫ちゃんと会話する。倫ちゃんと遊ぶ。不思議なことに、大人たちは、こういった幻聴と妄想が、機械的合理主義の世界よりずっと生きがいと張り合いに満ちたものだと感じ始めるようになる。
人間の精神世界が作り出すストーリーが、倫ちゃんと、フーちゃんと、親と付き添いと、医者たちと看護師たちの生きる時間と空間をとても豊かにしてくれたのだ。
(石川憲彦「心の病いはこうしてつくられる―児童青年精神医学の深渕から」)
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ここで問題となるのは、医師や看護師たちがフーちゃんの影響を受け、植物状態の倫ちゃんへの対応を変えて「不合理なストーリー」を作り出したことが、はたして「医療」と呼べるかどうかということである。
もちろん、現実の病院の世界では、こうしたストーリーは児戯に等しい行為として一笑に付されるだけだろう。
それどころか、最近のパーソン論によれば、意識を持たない植物状態では、生存権すら認められないということになるかもしれない。
確かに、現代医療の力をもってしても、倫ちゃんの脳機能不全を治療し、意識を回復させることは不可能に近い。
しかし、ここでの医者や看護師たちは、無味乾燥で擬似的な医療・介護行為から解放され、豊かな気分を味わっている。
ここには、何が起こっていたというべきか。
こうした疑問にある程度の解決を与えてくれたのは、美馬達哉「脳のエシックス」の一節である。
著者は、植物状態の人間を対象に最新のfMRI(機能的MRI)を用意し、「テニスをしていると想像してください」などと指示したときの脳活動パターンを調べたところ、健常者のパターンと違わない結果であったという実験を紹介している。
このとき、最小のコミュニケーションは成立しているという点では、「不合理なストーリー」ではなく、一つのまぎれもない事実なのだ。
fMRIなど最新のテクノロジーというと、いかにも人間の情念から離れた冷たい機器を想像しがちだが、そうしたテクノロジーの臨床応用を支えているのは、実験者側の一種の「希望」ではないかと筆者は主張している。そのうえで、
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排除しようとする人々にとっての「植物状態」患者の精神は、もはや尊厳なき状態に置かれた個人のなかに見失われているだろう。
しかし、共に生きようとする人々にとって、それは、心のこもったケアや傾聴、あるいはさまざまな機器の助けを借りたコミュニケーションによって見出されるべき社会的関係性への希望として存在している。
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というのである。
これを先の石川の回想に当てはめれば、フーちゃんは天真爛漫に倫ちゃんと共に遊ぼう・生きようとした、それによって、医者や看護師たちも倫ちゃんと共に生き、「心のこもったケアや傾聴」、コミュニケーションを心がけはじめたと解釈できるのではないか。
とすれば、そうした共生への希望こそが、医療において最もプリミティブで最も本質的なものだということになるだろう。
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前思春期を迎えようとしていた倫ちゃんは、数年前から進行する脳機能不全のため、既に植物状態にあった。
小児科医としての私の日々の作業は、レスピレーター(人工呼吸器)を点検し、身体中に差し込まれたチューブと装置を管理し、まさかのときに備えて診察を黙々とこなすことであった。
医者も、看護師も、そして時には家族も、大人は彼を半分既に帰らぬ異物とみなしていた。
フーちゃん(白血病の患者)が入院すると、このルーチン化された機械的作業は、しょっちゅう邪魔されることになる。
ようやく幼児期を迎えたばかりのフーちゃんは、いったん危篤状態を切り抜けると、退屈しのぎに(と大人は考えた)倫ちゃんにちょっかいを出し始めたのだ。
声をかけ、歌を歌い、それでも物足りなくなると、ベッドの枠を乗り越えてレスピレーターやチューブをものともせずに倫ちゃんと遊ぼうとする。
フーちゃんを制止し、なだめるために、禁止や叱責は無効だった。
有効な手段は、大人たちが、倫ちゃんを一人のかけがえのない人間として、声をかけ、歌を歌い、みんなで一緒に遊ぶことだった。
フーちゃんのお友達として、倫チャンは治り、生き続けるために入院しているというストーリーをでっち上げることが、必要だったのだ。
しかし、この不合理なストーリーは、やがて大人たちを変えていく。
倫ちゃんと会話する。倫ちゃんと遊ぶ。不思議なことに、大人たちは、こういった幻聴と妄想が、機械的合理主義の世界よりずっと生きがいと張り合いに満ちたものだと感じ始めるようになる。
人間の精神世界が作り出すストーリーが、倫ちゃんと、フーちゃんと、親と付き添いと、医者たちと看護師たちの生きる時間と空間をとても豊かにしてくれたのだ。
(石川憲彦「心の病いはこうしてつくられる―児童青年精神医学の深渕から」)
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ここで問題となるのは、医師や看護師たちがフーちゃんの影響を受け、植物状態の倫ちゃんへの対応を変えて「不合理なストーリー」を作り出したことが、はたして「医療」と呼べるかどうかということである。
もちろん、現実の病院の世界では、こうしたストーリーは児戯に等しい行為として一笑に付されるだけだろう。
それどころか、最近のパーソン論によれば、意識を持たない植物状態では、生存権すら認められないということになるかもしれない。
確かに、現代医療の力をもってしても、倫ちゃんの脳機能不全を治療し、意識を回復させることは不可能に近い。
しかし、ここでの医者や看護師たちは、無味乾燥で擬似的な医療・介護行為から解放され、豊かな気分を味わっている。
ここには、何が起こっていたというべきか。
こうした疑問にある程度の解決を与えてくれたのは、美馬達哉「脳のエシックス」の一節である。
著者は、植物状態の人間を対象に最新のfMRI(機能的MRI)を用意し、「テニスをしていると想像してください」などと指示したときの脳活動パターンを調べたところ、健常者のパターンと違わない結果であったという実験を紹介している。
このとき、最小のコミュニケーションは成立しているという点では、「不合理なストーリー」ではなく、一つのまぎれもない事実なのだ。
fMRIなど最新のテクノロジーというと、いかにも人間の情念から離れた冷たい機器を想像しがちだが、そうしたテクノロジーの臨床応用を支えているのは、実験者側の一種の「希望」ではないかと筆者は主張している。そのうえで、
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排除しようとする人々にとっての「植物状態」患者の精神は、もはや尊厳なき状態に置かれた個人のなかに見失われているだろう。
しかし、共に生きようとする人々にとって、それは、心のこもったケアや傾聴、あるいはさまざまな機器の助けを借りたコミュニケーションによって見出されるべき社会的関係性への希望として存在している。
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というのである。
これを先の石川の回想に当てはめれば、フーちゃんは天真爛漫に倫ちゃんと共に遊ぼう・生きようとした、それによって、医者や看護師たちも倫ちゃんと共に生き、「心のこもったケアや傾聴」、コミュニケーションを心がけはじめたと解釈できるのではないか。
とすれば、そうした共生への希望こそが、医療において最もプリミティブで最も本質的なものだということになるだろう。