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濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

「植物状態」の倫ちゃんと「希望」の医療

2012-10-28 03:16:21 | Weblog
医療とは何かを考える上で、これまでひっかかっていた文章がある。少し長くなるが紹介しておこう。
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前思春期を迎えようとしていた倫ちゃんは、数年前から進行する脳機能不全のため、既に植物状態にあった。
小児科医としての私の日々の作業は、レスピレーター(人工呼吸器)を点検し、身体中に差し込まれたチューブと装置を管理し、まさかのときに備えて診察を黙々とこなすことであった。
医者も、看護師も、そして時には家族も、大人は彼を半分既に帰らぬ異物とみなしていた。
フーちゃん(白血病の患者)が入院すると、このルーチン化された機械的作業は、しょっちゅう邪魔されることになる。
ようやく幼児期を迎えたばかりのフーちゃんは、いったん危篤状態を切り抜けると、退屈しのぎに(と大人は考えた)倫ちゃんにちょっかいを出し始めたのだ。
声をかけ、歌を歌い、それでも物足りなくなると、ベッドの枠を乗り越えてレスピレーターやチューブをものともせずに倫ちゃんと遊ぼうとする。
フーちゃんを制止し、なだめるために、禁止や叱責は無効だった。
有効な手段は、大人たちが、倫ちゃんを一人のかけがえのない人間として、声をかけ、歌を歌い、みんなで一緒に遊ぶことだった。
フーちゃんのお友達として、倫チャンは治り、生き続けるために入院しているというストーリーをでっち上げることが、必要だったのだ。
しかし、この不合理なストーリーは、やがて大人たちを変えていく。
倫ちゃんと会話する。倫ちゃんと遊ぶ。不思議なことに、大人たちは、こういった幻聴と妄想が、機械的合理主義の世界よりずっと生きがいと張り合いに満ちたものだと感じ始めるようになる。
人間の精神世界が作り出すストーリーが、倫ちゃんと、フーちゃんと、親と付き添いと、医者たちと看護師たちの生きる時間と空間をとても豊かにしてくれたのだ。
(石川憲彦「心の病いはこうしてつくられる―児童青年精神医学の深渕から」)
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ここで問題となるのは、医師や看護師たちがフーちゃんの影響を受け、植物状態の倫ちゃんへの対応を変えて「不合理なストーリー」を作り出したことが、はたして「医療」と呼べるかどうかということである。
もちろん、現実の病院の世界では、こうしたストーリーは児戯に等しい行為として一笑に付されるだけだろう。
それどころか、最近のパーソン論によれば、意識を持たない植物状態では、生存権すら認められないということになるかもしれない。
確かに、現代医療の力をもってしても、倫ちゃんの脳機能不全を治療し、意識を回復させることは不可能に近い。
しかし、ここでの医者や看護師たちは、無味乾燥で擬似的な医療・介護行為から解放され、豊かな気分を味わっている。
ここには、何が起こっていたというべきか。

こうした疑問にある程度の解決を与えてくれたのは、美馬達哉「脳のエシックス」の一節である。
著者は、植物状態の人間を対象に最新のfMRI(機能的MRI)を用意し、「テニスをしていると想像してください」などと指示したときの脳活動パターンを調べたところ、健常者のパターンと違わない結果であったという実験を紹介している。
このとき、最小のコミュニケーションは成立しているという点では、「不合理なストーリー」ではなく、一つのまぎれもない事実なのだ。
fMRIなど最新のテクノロジーというと、いかにも人間の情念から離れた冷たい機器を想像しがちだが、そうしたテクノロジーの臨床応用を支えているのは、実験者側の一種の「希望」ではないかと筆者は主張している。そのうえで、
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排除しようとする人々にとっての「植物状態」患者の精神は、もはや尊厳なき状態に置かれた個人のなかに見失われているだろう。
しかし、共に生きようとする人々にとって、それは、心のこもったケアや傾聴、あるいはさまざまな機器の助けを借りたコミュニケーションによって見出されるべき社会的関係性への希望として存在している。
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というのである。
これを先の石川の回想に当てはめれば、フーちゃんは天真爛漫に倫ちゃんと共に遊ぼう・生きようとした、それによって、医者や看護師たちも倫ちゃんと共に生き、「心のこもったケアや傾聴」、コミュニケーションを心がけはじめたと解釈できるのではないか。
とすれば、そうした共生への希望こそが、医療において最もプリミティブで最も本質的なものだということになるだろう。

環境ホルモンの現在

2012-10-20 17:34:21 | Weblog
環境ホルモンが、最初に話題になったのは、哺乳動物の生殖などに対する女性ホルモンの影響であった。
最近では、人の精液量・精子数の減少、精子の運動の低下、精子の奇形の増加等が、世界規模で報告されている。
学問上の明確な結論は出ていないが、このようなことは当然人体にも起こりうる可能性がある。

かつて、免疫学者の多田富雄は環境ホルモンについて次のような発言をしている。
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「環境ホルモン」という新造語は、環境問題が外部環境の問題に留まらず、人間の生命という内部環境まで巻き込んだ新たな次元の問題として捉えられなければならないことを示した。
「環境ホルモン」は、私たちの生命そのものが、実は環境の一部であったことを改めて教えたのである。
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たしかに、今日では我々の身体(内部環境)の自律性や完結性というドグマが危うくなってきているようだ。
そもそも、人間が従属栄養生物の仲間であるかぎり、無害な自然の恵みであれ、有害な化学物質であれ、それを口にするかぎりは、実は外部環境とたえず交流しているといえる。
マルクスの考えたように、人間は自らを有機的自然にするとともに、自然を無機的な肉体としているのである。
だが、それどころではなくなったのが現代だ。
臓器不全のレシピエントにはドナーの臓器が入り込み、代理母の子宮には他の夫婦の受精卵が入り込み、若者の体には合成麻薬が入り込み、アスリートの体にはさまざまなドーピング用の薬物が、さらには増強用のホルモン遺伝子までが入り込もうとしている。

次は読売新聞の男女産み分けに関する記事である。
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「世の中の批判はよくわかっている。でも、どうしても女の子がほしかった」
東日本に住む30歳代の主婦は昨年、タイ・バンコクで男女産み分けをした理由について、そう語る。
主婦は、女児を出産、その上に2人の男児がいる。
男児ももちろんかわいいが、結婚した直後から、女の子がほしかった。
2人目も男児とわかった直後には、「自分は女の子を産めない体なんだ」と絶望的な気分になった。
着床前診断による産み分けをかかりつけの産科医に教えられたのはその頃。
インターネットで検索した結果、タイは、当初検討した米国の3分の1の150万円で受けられると知った。
着床前診断では、体外受精が必要になる。
タイで採卵し、夫の精子と体外受精させた。2回目の挑戦で妊娠した。
主婦は「科学の進歩が生み出した技術を使えないのは理不尽」と話す。
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ここでもなぜかオス性は排除されてしまう。
環境ホルモンが内部環境に入り込んだ主婦の欲望が、外部環境を騒がす社会的な話題として現れてきていることに当惑せざるを得ないのが正直なところだ。

アルカイック・スマイル

2012-10-06 20:40:37 | Weblog


心筋梗塞で倒れて無事に六年がたったことを、我が命の恩人である教え子のONさんに報告したところ、

先生は相変わらずアルカイック・スマイルで佇んでいるのではないかなぁと勝手に想像しております。

という返事が戻ってきた。
自分ではそうした微笑を浮かべていることなど、まったく自覚していなかっただけに、なにやら古式ゆかしい面影を自分が漂わせていたことを思うと、急にうれしくなってきた。

アルカイック・スマイルとは、ウィキペディアによれば
「古代ギリシア美術の彫像に見られる表情で、生命感と幸福感を演出するためのもの。
古代日本の飛鳥時代の仏像、例えば弥勒菩薩半跏思惟像の表情もそうである云々」とある。

そこで、早速、弥勒菩薩像の掲載されている三木成夫『ヒトのからだ』をひもとくと、その写真のキャプションには、

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動物性器官(=感覚・運動器官)を代表する目は静かに閉ざされているが、植物性器官(=吸収・排出・循環器官)の入り口を象徴する口元には豊かな表情がただよう。
古代の微笑とは植物へのノスタルジアをあらわしたものか……
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とあり、大いに納得させられた。
三木によれば、人々は動物性器官の極点である脳、つまり「精神」を酷使することによって、「いかなる動物よりも動物臭くなった」(ゲーテ)という。
今日の情報化社会やグローバルな資本主義の隆盛もその延長にあるのだろう。
だが、その結果、心臓をはじめとする植物性器官の働きによる「心」との調和がうまく取れなくなってしまった。
そうした動物的な生に絶望し、もう一度、植物的な生に戻り、安定した状態をつくりだそうとしたのが、仏教をはじめとする宗教だと考えられなくもない。だから弥勒菩薩も

脂ぎったいやしい獣の目であたりをうかがい、うろつくのをやめて、
草や木のように、じっと陽に照らされ、風に吹かれ、雨に打たれるがままでいるがよい。
根源から幸せに満たされ、浄土に近づいたようにも感じられてくるではないか。

と、煩悩多き我々人間を諭しているかのような表情である。

ちょうど、自分自身、思い屈した気分でいたためか、六年経っての感想としては貧弱かもしれないが、深く感じ入った次第である。
これも無事を祝う贈り物として、私事ながら、ここに記すことにした。
あわせて、菩薩のような心で暖かく見守ってくれた多くの人々に感謝したい。