久しぶりに某大学名誉教授のS先生宅を訪れた。
奥様の訃報に接して、弔問した時以来だが、その時よりはお元気になられた様子で、まずは安心した。
談笑における話題はやはり震災のことに及ぶことになった。
S先生はすでに満八〇歳を迎えた戦中派だから、やはり私などの団塊の世代とは別な見方をしていて、大いに参考になる。
その発言を記憶にある限り再現してみると、概略、次のようになる。
──震災では、戦争の時のように誰も助けに来てくれないというわけではなく、少なくとも自衛隊がすぐに駆けつけた、これにはアメリカも驚いたようだ。
そして、海で行方不明になった者以外の多くは手早く葬られたが、空襲のときは、死体が十日間、なかには一か月もそのままで放置されていた場合もある。
福島の小中学生が教室からいなくなったといっても、それは転校しただけのことで、戦争の時のように、教室からいなくなったことが、そのまま死を意味したというわけではない。
しかも戦争の深刻さは特定の地域だけではなく、日本全体が同じような状況だったのだから、やはり規模が一ケタ違う。
だから、震災だけを取り上げて、それほど騒ぐほどのことではないのではないか。
3・11だけを切り取ってしまうと、歴史を巨視的に展望するための眼を失ってしまうおそれがある。──
ただおろおろと、オーバーアクション気味な反応をしてきた当方としては、何とも耳の痛い言葉である。
体験を絶対化することなく、相対的に眺めるということ、あるいは禅の公案めくが、状況が「変われば変わるほど変わらない」原理的、本質的な面を浮き彫りにすることが大切だということにもなるだろう。
前回に引き続き、原発事故に対する吉本隆明の言葉を引用しておこう。
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根本的には、人間はとうとう自分の皮膚を透過するものを使うようになったということですね。
人間ばかりでなく生物の皮膚や骨を構成する組織を簡単に透過する素粒子や放射線を見出して、物質を細かく解体するまで文明や科学が進んで、そういうものを使わざるを得ないところまできてしまったことが根本の問題だと思います。
それが最初でかつ最後の問題であることを自覚し、確認する必要があると思います。
武器に使うにしても、発電や病気の発見や治療に使うにしても、生き物の組織を平然と通り過ぎる素粒子を使うところまで来たことをよくよく知った方がいい。
そのことを覚悟して、それを利用する方法、その危険を防ぎ禁止する方法をとことんまで考えることを人間に要求するように文明そのものがなってしまった。
素粒子を見つけ出して使い始めた限り、人間はあらゆる知恵を駆使して徹底的に解明してゆかないと大変な事態を招く時代になってしまった。
原子力は危険が伴いますが、その危険をできる限り防ぐ方法を考え進めないと、人間や人類は本当にアウトですね。
俺をどうしてくれるんだと素粒子側から反問されて答えられなければ困るわけで、何とかして答えるようにしなければならない。
心細く言えば、人間は終わりが近づいているくらい悲観的なものですが、でもここまで来たら悲観しても収まりがつくものではないわけで、この道を行くしかないのですね。
(「思想としての3・11」)
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文明や科学がもたらした危険は、文明や科学によって乗り越えていくしかないということ、そうした人類史的な覚悟が明瞭に現れている言葉だと思う。
奥様の訃報に接して、弔問した時以来だが、その時よりはお元気になられた様子で、まずは安心した。
談笑における話題はやはり震災のことに及ぶことになった。
S先生はすでに満八〇歳を迎えた戦中派だから、やはり私などの団塊の世代とは別な見方をしていて、大いに参考になる。
その発言を記憶にある限り再現してみると、概略、次のようになる。
──震災では、戦争の時のように誰も助けに来てくれないというわけではなく、少なくとも自衛隊がすぐに駆けつけた、これにはアメリカも驚いたようだ。
そして、海で行方不明になった者以外の多くは手早く葬られたが、空襲のときは、死体が十日間、なかには一か月もそのままで放置されていた場合もある。
福島の小中学生が教室からいなくなったといっても、それは転校しただけのことで、戦争の時のように、教室からいなくなったことが、そのまま死を意味したというわけではない。
しかも戦争の深刻さは特定の地域だけではなく、日本全体が同じような状況だったのだから、やはり規模が一ケタ違う。
だから、震災だけを取り上げて、それほど騒ぐほどのことではないのではないか。
3・11だけを切り取ってしまうと、歴史を巨視的に展望するための眼を失ってしまうおそれがある。──
ただおろおろと、オーバーアクション気味な反応をしてきた当方としては、何とも耳の痛い言葉である。
体験を絶対化することなく、相対的に眺めるということ、あるいは禅の公案めくが、状況が「変われば変わるほど変わらない」原理的、本質的な面を浮き彫りにすることが大切だということにもなるだろう。
前回に引き続き、原発事故に対する吉本隆明の言葉を引用しておこう。
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根本的には、人間はとうとう自分の皮膚を透過するものを使うようになったということですね。
人間ばかりでなく生物の皮膚や骨を構成する組織を簡単に透過する素粒子や放射線を見出して、物質を細かく解体するまで文明や科学が進んで、そういうものを使わざるを得ないところまできてしまったことが根本の問題だと思います。
それが最初でかつ最後の問題であることを自覚し、確認する必要があると思います。
武器に使うにしても、発電や病気の発見や治療に使うにしても、生き物の組織を平然と通り過ぎる素粒子を使うところまで来たことをよくよく知った方がいい。
そのことを覚悟して、それを利用する方法、その危険を防ぎ禁止する方法をとことんまで考えることを人間に要求するように文明そのものがなってしまった。
素粒子を見つけ出して使い始めた限り、人間はあらゆる知恵を駆使して徹底的に解明してゆかないと大変な事態を招く時代になってしまった。
原子力は危険が伴いますが、その危険をできる限り防ぐ方法を考え進めないと、人間や人類は本当にアウトですね。
俺をどうしてくれるんだと素粒子側から反問されて答えられなければ困るわけで、何とかして答えるようにしなければならない。
心細く言えば、人間は終わりが近づいているくらい悲観的なものですが、でもここまで来たら悲観しても収まりがつくものではないわけで、この道を行くしかないのですね。
(「思想としての3・11」)
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文明や科学がもたらした危険は、文明や科学によって乗り越えていくしかないということ、そうした人類史的な覚悟が明瞭に現れている言葉だと思う。