U──私の親愛なる甥、あるいは最も遠い異邦人よ。お前が来てからというもの、いろいろな新鮮な刺激が与えられた。そして、私を巻き込んでいった。あるときは「百均」や「ユニクロ」へ、また、あるときは「海ほたる」や「鴨川シーワールド」へと。
私は、寅さんがたまに訪れたときのオジチャン、オバチャンの、うれしそうな、迷惑そうな、複雑な表情の意味をようやく理解できたようにも思われた。
◆私は私自身の自己同一性を危険にさらすような仕方で、他者に向かって憧れる。他者への運動は、私の不足を補うのでもなく、私を満足させるのでもなく、むしろ私に関わりがなかったはずの、無関心のうちに放置すべきであったはずの、危険な状況のうちに私を巻き込むのです。
U──お前はひと月半にも及ぶ逗留ののち、ようやく去っていった。お前のおかげで妙に片付いた部屋は、また昔のような、乱雑とした、それでいて、少しひっそりしたたたずまいを見せ始めた。お前の甲高い声も、きびきびとした動きも、すべて消えたから。
いろいろなことを話す中で、波乱に満ちたお前の半生のどれぐらいを理解できたかはわからない。いまは「四月の明るい不在」──そんな感慨に浸っているところだ。Fiorella MannoiaのL'assenza(不在)を聴きながら・・・
Fiorella Mannoia L\'assenza
◆私たちはなにか他者を理解したと思ったとたんに、他者はその像の背後に隠れてしまう。というよりは、消えてしまうのではなくて、その背後に現れるのです。私たちが分かったと思ったとたんに、他者は分かったというその像を亡骸(なきがら)にして、その背後につねに新しく現れるのです。私たちの理解できないものとして。それでなければ、他者ではないのです。それをレヴィナスは「他者は不在だ」というのです。
U──イソーローの分際で、お前は、このオジに向かって、いろいろエラそーな説教をし、うんちくを垂れた。
一日一回は掃除機をかけろといい、キャベツの千切りは難しいから、コマ切れからおぼえろとコーチもしてくれた。ダイエーでは、レタスが150円の安売りをしているから、買ってこいとも教えてくれた。
そうだ、U──お前こそ、私にとって、生活神の称号を与えるにふさわしい存在なのだ。神はお前なのだ!
◆神というのは他者なのです。他者というのは神なのです。
U──それにしても、お前はなんと過激でフラジャイルな神であることか!
そのとき、お前は多量の睡眠薬を飲み、風呂場で死のうとしたという。だが、意識不明のまま、ベッドに戻ってきた。お前をベッドへと突き動かしたもの、それは昏冥の生への意志だろうが、これこそ、神であるお前の中の他者、神の中の神なのかもしれない。
◆「他者の弱さが私を呼ぶ」とは何でしょうか。「他者の可死性、モルタリテ、他者が死ぬものだということ──それが人を呼ぶのだ」ということです。そういう弱き者としての、死すべき者としての、他者との関わりによって、私は唯一のもの、ユニクな者になる。かけがえのないものになる。
U──お前がお前の父親の批判をするとき、私はそれを快く聞くことはできなかった。なぜなら、そのときのお前は、顔や表情、さらには話し方まで、父親そっくりだったからで、そうした血縁の運命的なつながりにお前が無自覚だからだ。
時は過ぎたのだ。暴走族だった頃のお前を勘当した父親との和解の季節が来たと思う。お前が、父親へのおみやげに鎌倉の地酒を買ったという話を聞いたとき、私はほっと胸をなでおろしたものだ。
◆他者の顔に直面するとき、その顔から「殺すな」という命令をわれわれは受け取るのです。「殺すな」ということには、なんの理論的な根拠もありません。そこには命令があるだけです。そういう命令として神が現れる。他者の至高性として神が現れる。言い換えれば、「殺すな」という命令として神は現れる。あるいは「隣人を愛せ」という命令として神は現れる。
(◆は、岩田靖夫「よく生きる」より抜粋)
追伸
その後、札幌に帰った甥から電話があり、「長らくお邪魔した、うるさい小姑のようだったかもしれないが、一息ついてほしい」とのことでした。
私は、寅さんがたまに訪れたときのオジチャン、オバチャンの、うれしそうな、迷惑そうな、複雑な表情の意味をようやく理解できたようにも思われた。
◆私は私自身の自己同一性を危険にさらすような仕方で、他者に向かって憧れる。他者への運動は、私の不足を補うのでもなく、私を満足させるのでもなく、むしろ私に関わりがなかったはずの、無関心のうちに放置すべきであったはずの、危険な状況のうちに私を巻き込むのです。
U──お前はひと月半にも及ぶ逗留ののち、ようやく去っていった。お前のおかげで妙に片付いた部屋は、また昔のような、乱雑とした、それでいて、少しひっそりしたたたずまいを見せ始めた。お前の甲高い声も、きびきびとした動きも、すべて消えたから。
いろいろなことを話す中で、波乱に満ちたお前の半生のどれぐらいを理解できたかはわからない。いまは「四月の明るい不在」──そんな感慨に浸っているところだ。Fiorella MannoiaのL'assenza(不在)を聴きながら・・・
Fiorella Mannoia L\'assenza
◆私たちはなにか他者を理解したと思ったとたんに、他者はその像の背後に隠れてしまう。というよりは、消えてしまうのではなくて、その背後に現れるのです。私たちが分かったと思ったとたんに、他者は分かったというその像を亡骸(なきがら)にして、その背後につねに新しく現れるのです。私たちの理解できないものとして。それでなければ、他者ではないのです。それをレヴィナスは「他者は不在だ」というのです。
U──イソーローの分際で、お前は、このオジに向かって、いろいろエラそーな説教をし、うんちくを垂れた。
一日一回は掃除機をかけろといい、キャベツの千切りは難しいから、コマ切れからおぼえろとコーチもしてくれた。ダイエーでは、レタスが150円の安売りをしているから、買ってこいとも教えてくれた。
そうだ、U──お前こそ、私にとって、生活神の称号を与えるにふさわしい存在なのだ。神はお前なのだ!
◆神というのは他者なのです。他者というのは神なのです。
U──それにしても、お前はなんと過激でフラジャイルな神であることか!
そのとき、お前は多量の睡眠薬を飲み、風呂場で死のうとしたという。だが、意識不明のまま、ベッドに戻ってきた。お前をベッドへと突き動かしたもの、それは昏冥の生への意志だろうが、これこそ、神であるお前の中の他者、神の中の神なのかもしれない。
◆「他者の弱さが私を呼ぶ」とは何でしょうか。「他者の可死性、モルタリテ、他者が死ぬものだということ──それが人を呼ぶのだ」ということです。そういう弱き者としての、死すべき者としての、他者との関わりによって、私は唯一のもの、ユニクな者になる。かけがえのないものになる。
U──お前がお前の父親の批判をするとき、私はそれを快く聞くことはできなかった。なぜなら、そのときのお前は、顔や表情、さらには話し方まで、父親そっくりだったからで、そうした血縁の運命的なつながりにお前が無自覚だからだ。
時は過ぎたのだ。暴走族だった頃のお前を勘当した父親との和解の季節が来たと思う。お前が、父親へのおみやげに鎌倉の地酒を買ったという話を聞いたとき、私はほっと胸をなでおろしたものだ。
◆他者の顔に直面するとき、その顔から「殺すな」という命令をわれわれは受け取るのです。「殺すな」ということには、なんの理論的な根拠もありません。そこには命令があるだけです。そういう命令として神が現れる。他者の至高性として神が現れる。言い換えれば、「殺すな」という命令として神は現れる。あるいは「隣人を愛せ」という命令として神は現れる。
(◆は、岩田靖夫「よく生きる」より抜粋)
追伸
その後、札幌に帰った甥から電話があり、「長らくお邪魔した、うるさい小姑のようだったかもしれないが、一息ついてほしい」とのことでした。