濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

時事刻々

2016-08-05 23:10:44 | Weblog
●都民ファースト

東京の隣県に住む者として、都知事選はエンターテインメントとしてずいぶん楽しませてもらったような気がする。
しかも、予想どおり小池百合子が当選したのだから、万馬券でも当てたような気分になった。
彼女の当選を予想した理由はほかでもない、リオと東京のオリンピックのスタジアムに列席するシーンを想像して、最も絵になるといえば、なんといっても「年増で厚化粧」の彼女しかいないと思ったからだ。
我ながらなんともミーハーなポピュリズム的発想なので、同じく彼女の当選を予想していた中村礼治のブログ「ニュース逆さ読み」を紹介しておこう。

国家から個人への権力の分散が進んだいま、国民の現在の主要な関心は、護憲か改憲か、左派か右派か、リベラルか保守かといった旧来の対立構図にではなく、官僚主導か政治家主導、国民主導かという新たな選択肢にある。
分散した権力を手にした国民は、それにふさわしい処遇を求めているからだ。
そのことに気づこうとしない鳥越に勝ち目はないし、まして官僚主導そのものの体現者である増田寛也が当選する可能性はゼロに近い。


彼女には極右的な面もあるといわれているのだが、隠し味程度であれば、かえってピリっと都政を引き締めるのだから、許容できるのではないかと思っている。
もし、それが過度になれば、都民ファースト、賢い都民が黙ってはいないだろう。

●〈どうせ〉症候群

先日の相模原殺傷事件の報道を見て、最初に浮かんで来たのは、アシュリー事件のことである。
六歳の重症心身障害児、アシュリーちゃんに対して、両親は娘のQOL(人生の質)を高めるために、子宮と乳房芽を外科手術で摘出し、身長の伸びを抑えるためのホルモン大量療法を願い出たのだ。
これに対して、同じく障害児をもつ児玉真美は次のように発言している。

アシュリー事件の論争で起こったのは実はこの「どうせ」の共鳴・共有だったのではないか、とわたしは考えていて、そのことをあれからずっと考え続けてきました。(中略)
「どうせ障害者だから」「どうせ終末期だから」「だから丁寧なアセスメントやケアなんかしなくてもよい」という無関心の形もあると思うのですが、そういう無関心はまた、目の前の人が生きてそこにある現実の姿にも目を向けなくなる無関心、そして、人が一人、その人固有の1回こっきりの人生を生きて死んでいくということの中にある、簡単に言葉や論理だけでは掬(すく)いきれない複雑で微妙な思いに目を向けたり、丁寧に感じ取ろうとしない無関心でもあるんじゃないでしょうか。


今回の事件の場合、背後には現代人の多くが安楽死や尊厳死を安易に許容する「〈どうせ〉症候群」に罹患している、そんな病態が横たわっているのではないか。
それを癒そうとして、犯人はブレーキの代わりにアクセルを踏んだように思われてならない。

●地域ファースト

先日、義母がデパートの階段を歩いているとき、見知らぬ男性に体をぶつけられ、転倒して大腿部骨折という怪我を負った。
手術の日、見舞いに行った私は娘のパートナーと初めて会い、会話する機会を得た。
外資系企業のエンジニアで、礼儀正しく温厚そうな好青年であった。
怪我の功名というか、義母のおかげで、念願の面会を果たすことが出来たわけである。
ともあれ、義母のこれからのケアは大変だが、彼と娘が知恵を出し合って、何とか切り抜けていけるという明るい確信を得た。
最近「地域包括ケアシステム」という言葉が叫ばれるようになった。
認知症患者が急増する中で、「年を取ったら、なじみの土地でなじみの人間関係の中で人生の終焉を迎えられるようにしよう」というもので、お役所仕事の割には悪くはない発想だ。
入居費だけ高くて退屈な老人ホームにいる義父を呼び寄せ、義母と同じグループホームで暮らすようにしたらどうか、というのがケアマネージャーの話だった。
「地域包括ケアシステム」は国ではなく、市町村と民間が主導するということで、これまた権力の分散につながることになるだろう。


(mao_kokubo「大切なものは一つでもいいし、たくさんでもいい」)