濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

父と娘と

2013-07-30 16:23:21 | Weblog
天気が不安定で、局地的にゲリラ雷雨に見舞われ、「多幸感」も台無しの今年の夏である。
そんな空模様に影響されたせいか、娘と祖父は、介護のデイサービスの様子を見学してきた後、サービスを受ける・受けないで一騒動があったという。
そろそろ職場復帰を考えている娘にとって、せめて午前中だけでも自由な時間がほしいのだろうが、祖父のほうは昔と違って、すっかり駄々っ子のようになったようだ。
家の外に社交の場を求めていく気持ちなど皆無で、祖母を見舞いに行くことばかりせがみ、もはや夫婦と言うよりは、母に甘える子どもという構図になっているらしい。
老いを迎える私にとっては、痛々しい反面教師というべきかもしれない。
娘は娘で介護疲れがでてきたのか、電話口でしきりに愚痴をこぼすようになってきた。
友達と馬鹿話をしたいとか映画を見に行きたいとか、やはりストレスを発散させたいようだ。
本来であれば、縁談話の一つや二つ、という年齢にもなったが、それが介護に明け暮れているというのだから、親として、なんともつらいものがある。
先日の電話の最後に話題になったのは、なんと、高校時代のカレシのことだった。これまで、その詳細に立ち入ることは許されなかったのだが、
「目指しているものが大きすぎて、ついていけなかった」
とはじめて、その成り行きについて、胸襟を開いてみせた。
まだいくぶん、苦い思い出をひきずっているのだろう。
さて、父と娘の会話といえば、こんな一節が印象に残っている。

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父:平凡でも、とにかく夫婦仲はいいし、まだ小さいけど、いい息子がいて、今が幸せで、しょうがないんだという家庭だったら、もうそれでずっと通しちゃえって。

娘:それは私に望むことですか?(笑)

父:僕だったら、そう考えると思うな。傍から見ても、そばへ寄って話を聞いても、「このうちは本当にいいな。いい夫婦だな。子供もいいな」という家庭を目的として、それで一生終わりにできたら、それはもう立派なことであって、文句なしですよ。もし、あなたがそうだったら、「それ悪くないからいいですよ」って、僕なら言いますね。それ以上のことはないんです。どんなに人が褒めようが貶(けな)そうが、そんなことはどうでもいいことだとも言えるわけで。漱石・鴎外は、確かに人並み以上に偉い人です。でも、それが唯一の基準かといったら、全然そうじゃなくて、近所の人や肉親以外は何にも言ってくれないけど、でも、俺のうちは一番いいんだよ、自慢はしないけど自慢しろって言えばいつでもできるんだよ、って言えるような家庭を持っていたら、それはもう天下一品なんですよ。
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誰あろう、吉本隆明(当時85歳)と彼の娘、吉本ばなな(当時45歳)の対談の一コマである。
国家や宗教でもなく、かといってエゴイスティックな個人でもなく、ささやかな家庭的な愛(対幻想)の大切さを唱えてきた吉本らしい言葉で、晩年の彼が娘へ贈る最後の言葉であったのかもしれない。
ところで、私は吉本の愛読者であったにもかかわらず、彼の言うような家庭を作ることには見事失敗した人間だ。
だから、その説に大いに納得はするが、自分の娘に同じようなことをいう自信はなく、またその資格もなさそうだ
吉本との心境の違いや時代の落差というものも感ぜずにはいられない。
ただし、大震災の後、絆の大切さはいろいろな方面でいわれているのは確かだ。
将来、娘にはどんな言葉をかけてあげられるのか、時間はまだたっぷりありそうだから、考え続けてみたいと思っている。

ユーフォリアという選択

2013-07-23 01:42:45 | Weblog
まだ七月後半で、学校などは夏休みを迎えたばかりだというのに、今年は熱波が前倒しでやってきたせいか、それほど気温が上がらず、多少なりとも風があるとなると、すでに夏も半ばを過ぎたかのような不思議な感覚に囚われる。
山頂まで登りきり下山し始めるときの穏やかな安息感というか、花火を見終えたときの甘美な郷愁というか、なかなかうまい言葉が見つからないが、現実の生活に多くの不如意を抱えながらも、ささやかな多幸感を味わうことができた。

多幸感(ユーフォリア)は、臨死体験の最も普遍的な感覚でもあるらしい。臨死体験と言えば、例の「お花畑が……」とか「三途の川を……」といったものがよく知られているが、「心の安らぎと静けさ」を挙げる体験者も多い。
臨死状態でそのようなユーフォリアを味わった医学者の豊倉康夫氏は次のように述べている。

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これ(ユーフォリア)は筆者だけの体験ではなく、すべての人間や動物の臨終にも起こることではないかという推測である。
自然界の動物のすべてに死を運命づけた神も、臨死には恐怖からの解放と安楽を用意していたのだといえば、もはや宗教の域に立ち入ってしまうことになる。
ただし、私には、一つだけ科学的な挑戦があるように思えてならない。
それはこのユーフォリアをもたらすものはある種の内因性の「物質」であり、脳内にはそれを一斉に受容するレセプターがあるのではないかという仮説である。
(立花隆「臨死体験」)
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どんなに苦悶や恐怖の表情を見せていようとも、臨終のときの人間の脳内は、案外、多幸感に支配されているのかもしれない。
そういう意味では、死はすべて「安楽(な)死」だということになるが・・・
なお、多幸感のメカニズムについては、

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激しくロマンチックな恋愛もまた、大脳基底核でドーパミンを放出させます。
沈む夕日、舞いはじめた雪のかけらを美しいと感じるとき、ドーパミンは前頭薬のA10神経ではたらいています。
A10神経は、「快楽神経」あるいは「多幸神経」とも呼ばれますが、視床下部から大脳新皮質の前頭前野まで広く分布しているので、その快感の度合いにも階層を生じます。
食欲、性欲を満足するものから、創造性を発揮するよろこび、そして、至福といった感覚までを生じさせることができるのです。
乳幼児の笑いは、前頭葉の眼窩前頭皮質の発育・成長に伴い、そこに形成されるA10神経のドーパミンによる湧き立つ興奮です。
心の転換があり、新しいものによろこびを見出したとき、A10神経は興奮・活性化します。
そしてそれは視床下部や周辺の神経回路にはたらきかけ、感情的障害により欝滞していた神経・免疫系の流れを治癒の方向へと転換させます。
(松野哲也「病気をおこす脳 病気をなおす脳」)
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というように、神経伝達物質のドーパミンとA10神経の合わせ技だという考えが定説になっている。
一方、心肺停止状態に陥った私に施された脳低温療法の開発者、林教授によると

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植物状態患者の脳から戻ってくる内頸静脈血液を調べると、ドーパミンと黄体形成ホルモンの値が著しく低くなっていることがわかっている。
ドーパミン不足が脳の神経細胞の活性を失わせている原因の一つであるなら、ドーパミンを与えれば、神経細胞を賦活化させる可能性があるからだ。
では、ドーパミンで脳のどこを刺激するのか。
林教授が注目したのは、A10神経群だった。A10神経群が脳の損傷によって機能障害を起こしていることが、植物状態の大きな原因になっているとみられる。
そこで、ドーパミン系の薬物によって、機能障害を起こしているA10神経群を賦活化しようという作戦を考えたのだ。
実際の治療としては、アマンタジンとプロモクリプチンというドーパミン活性化薬の投与や、エストラジオールというホルモン系薬とアルギニンの併用投与をしている。
その結果、95年から96年にかけての二年間に、脳低温療法による救命後に植物状態からなかなか覚醒できないでいた五人の患者の回復に成功した。(柳田邦男「脳治療革命の朝」)
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こうしたドーパミン活性化薬やホルモン系薬、アルギニンが私にも投与されたかどうか定かではないが、救急医の話では、三日間の意識不明状態の際、激しいけいれんを起こしていたという。
にもかかわらず、そのとき、以前、このブログでも述べたが、

秋という季節の底に身を横たえ、その心地よい透明な空気とぴたりと合っていたのである。それは、今から振り返れば、あるいは一瞬の至福(ブリス)だったのかもしれない。

などと、人の心配をよそに、甘美な臨死体験を味わっていたことになる。
ところで、高校時代の知人に言わせれば、どうも私の性格が当時とはすっかり変わってしまって、昔の気むずかしい雰囲気が感じられないらしい。
人との接し方が世慣れてきただけだとは思うが、臨死体験以後、あるいはドーパミン活性化薬などの影響が持続していて、生きているだけでハッピーな心境に至っているからなのかもしれない。








世界の片隅でささやかに起きていること

2013-07-13 17:10:24 | Weblog
娘の祖母への介護は転院でひとまずは一段落だが、見た目のきれいな病院ほど、案外、患者の心を察しないで、表面的な対応で済ませる危険性もあるようだ。
娘の話によると「おばあちゃんは介助者を呼ばずに、一人で杖をついてトイレに行こうとして叱られ、杖は取り上げられ、歩行器になってしまった」ということだ。
素人目からすれば、本人の意志をなるべく尊重して、体を動かすように仕向けていくことがリハビリの第一歩なはずなのに、病院側の管理責任体制だけが目立ち、患者の気持ち=<生命への意欲>を萎縮させてしまうことになりかねないようにも思うが、どうなのだろうか。

さて、世界ではもっと身につまされる出来事が起きているようだ。
生まれつき耳が聞こえなかったベルギーの45歳の双子の兄弟が、病で視力も失うことが分かり安楽死を選択した。
お互いの顔を見られなくなってしまうことが耐えられなかったからだという。
安楽死に関与した医師の話によれば、2人は、コーヒーを飲みながら両親たちと最後の会話を交わしていたが、その別れはとても平穏で美しかった。2人は最後に小さく手を振ってさよならをしたという。(Newsweek)

ここでも<生命への意欲>は簡単に打ち消されて、先端医療の画期的な進歩とは裏腹に、ささやかな無言の劇が、いともスムーズに終えられてしまっているような気がする。

寝たきりで全介助の娘を抱えている児玉真美は、電子マガジン「αシノドス」で次のように述べている。

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事故で全身マヒになって「死にたい」と言っている人に向かって「そうだね。あなたの生は確かにもう生きるに値しないね」と言って毒物を飲ませて死なせてあげるのは、彼の中にあるはずの「くぐり抜ける」力を信頼しない、ということではないのか。
必要なのは、くぐりぬけようとする前から諦めることに手を貸すのではなく、その人がくぐりぬけることを支える手を差し伸べること、誰にとっても、そういう社会であろうとすることではないのだろうか。

日本ではまだ「介護者支援」という言葉そのものが馴染みが薄く、「支援」というと要介護状態の人への支援でイメージが止まってしまっているけれど、介護を担っている人も生身の人間なのだ。
どんなに深い愛情があっても、どんなに壮絶な努力をしても、生身の人間にできること、耐えられることには限界がある。介護者もまた支援を必要としている。
http://synodos.jp/society/1070/2
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たしかに現在の介護の問題は、介護者家族の倫理的かつ密室的な葛藤に終始してしまいがちだ。
「くぐり抜ける」力を支える福祉社会全体のあり方が問われていると思う。

GO GO! 介護3 リハビリへ

2013-07-06 09:47:50 | Weblog
娘からの呼び出しの電話が絶えない。
やはり、慣れないことだから、行政、介護施設、病院それぞれのスタッフと一人だけで渡り合うことは心細く荷が重いのだろう。
しかも、孫一人で祖父祖母の二人を世話しなければならないという重圧、いずれ日本人が直面する高齢社会の近未来を前倒しで体験しているようでもある。
早く職場復帰したいという娘の願いを最優先に考え、全面的にバックアップすることにした。
私の中に、あるいは、どうにもならない人をどうすることもしなかったことの不甲斐なさを打ち消すため、という意味もあるのかもしれない。

先日は元義母の転院先を決める手続きをした。
湘南の海岸近くのリハビリ中心の病院だが、病院というイメージとは大きく異なり、高齢者用の瀟洒なホテルといった印象が強い。
事実、高層階は小規模な老人ホームにもなっているという。
昔は結核患者を入れていたサナトリウムだったということで、どこかそうした雰囲気をいまでも漂わせている。
当日は担当の看護師からの説明を受け、病室や施設の見学をしたが、リハビリ室には、理学療法士、作業療法士が患者の歩行訓練やマッサージを受け持っている。
たえず、病院は満床状態だが、それでも退院者の数と入院者、転院者との数が見合っているということで、比較的のんびりした時間が流れている。
これが十年もたち、我々が世話になる頃には、たぶん需要の数が供給を上回って、患者があふれかえり、混雑しているだろう姿が容易に想像される。

ところで、リハビリの語源はラテン語の「ハビリス(=人間にふさわしい)」から来ており、
「単に機能回復のみならず、人間全体の価値または人間の尊厳の復帰まで含めた広範囲の視点にたって行われる」
ものだという。
とすれば、私もすでに治療を受ける資格が十分にありそうで、いや現代人の多くが精神的リハビリの対象となってしまうかもしれない。

リハビリ室で、懸命になおすこと、なおされることに向けて努力している人々の姿を眺めるうちに、リハビリの対象にさえ入らない患者もいることに想像が及んだ。

「なおすことが仕事であり仕事の価値であるなら、なおらないことは無価値であったり価値の否定でありうる。
そこから<意味のない延命>という言葉までの距離は比較的近い」(立岩真也「ALS 不動の身体と息する機械」)

ALSは現在のところ、なおらない病気であり、人工呼吸器をつけるか否かの選択しかない状況に追い込まれる。
それは現代的な価値観からすれば、<意味のない延命>ということになるのだろう。
先日、医学部志望者に対して授業でアンケートをとったところ、安楽死を容認する者が否定する者をはるかに超えていた。
なんとも殺伐とした時代状況を迎えそうな予感がする。
段ボールの棺を用意して、その中で眠るように死にたいという友人の言葉が思い起こされてきた。